色のない顔

 猫は、おとなしい。いや、無論、その猫自身の性格にもよるし、時と場合にもよるのだろうが、は、おとなしい猫だった。

 葛城があの雷雨の日、拾ってきたかのように連れ帰ったについて、芦那あしなは何も言わない。さすがに、交合しているときまで葛城の側を離れようとしないのには辟易して、

「もう少し、気を使ってはもらえませんか」

 と言ったが、それ以外は、どこの子だとか、どうして拾ったのかとか、何も言わないし、訊かない。どうやら渡来人の子らしく、ちょっと舌っ足らずな物言いをするが、それは愛嬌だと思っている。

 その芦那が、猫と話すようになったのは、こういうやり取りがあってからである。


「お前、剣などは出来ますか」

 このとき葛城は、ふらりと出掛けたまま不在にしている。彼は、剣が上手い。弓も矛も相当な腕前だし、この時代には珍しい、槍も使えた。それを、芦那は知っている。

「あの人は、だから、供を連れず、いつも一人でふらふらとしているのです」

「剣は、持ったことはあります。父のものを」

「それを、振るったことは?」

「まさか」

「ならば、振るいなさい。わかりますか?あなたが、あの人を、守るのです」

「俺が?」

「そう。あの人の身に万一のことが降りかかろうとするとき、あなたはその前に立ち、代わりに死ぬのです」

 いつも無口で無表情にしている猫だが、死ぬ、という言葉に、僅かな反応を示した。

「あなた、名は?」

「猫です」

「いいえ、そうではなくて――」

主上しゅじょうは、俺を、猫と。親が死んだとき、俺は死んだのです。ただ、妹のために、朽ち果てはしなかった。身体だけ残り、心はありませんでした」

 芦那は、猫がこのような眼をするものなのかと鮮やかな驚きを感じている。それほどに、猫の語り口は熱を帯びている。

「主上は、俺に、名を与えました。猫、と」

 す、と猫は立ち上がった。その姿も、やっぱり猫だった。

「そのとき、俺の身体に、心が容れられた。だから、俺の名は、猫なのです」

 芦那は、笑った。空けっ広げで、どこか葛城に似ていると思ったのだ。

「それでは、あの人が外に出ているのに、あなたがこのようなところに居てはなりません。さあ、あの人のところへ」

「行きません」

「どうして?」

「主上がおらぬ間、芦那様のそばにいて、話相手になれと」

 ああ、と芦那は、溜め息を漏らした。

 葛城は、いつも芦那が自分のことを待っていることを知っていたのだ。だから、今日は、そばにいて、寂しさを紛らせるという大切な役目を、猫に与えたのだ。

「そして、万一のときは、盾になり、芦那様を守れ、と」

 じつの兄妹だけあって、考えることは同じらしい。それが、芦那には嬉しかった。

「剣は、覚えた方がよいでしょうか」

「ええ、それはもう」

「わかりました」

 そう言うや否や、猫は板敷を踏みならして庭に駆け出て、手頃な長さの枝を拾い、剣に見立ててさっそく振りはじめた。葛城が気に入ってそばに置いているだけあり、変わっているが、やはり子供なのだ、と芦那はまたくすくすと笑った。



 当の葛城は。

 また、法興寺で、鎌や石川麻呂らと密談をしている。

古人ふるひとのことだ」

 葛城の異母兄、古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこの件である。蘇我入鹿の従兄にあたる彼は今、蝦夷えみし、入鹿の後ろ盾を失い、南の吉野に隠棲している。そしてこれまで触れてはこなかったが、その娘は葛城の妻、それも正妻となっている。

 その兄でありしゅうとである男を、葛城は、

「殺す」

 と言う。

「お待ちを」

 と右大臣の石川麻呂、左大臣の阿倍内麻呂あべのうちまろなどが止めたが、聞かない。

「あれは、入鹿により力を付けた者だ」

 そう言う葛城を、鎌はじっと見ながら、

「――古人皇子は、すでに僧となり、いますぞ」

 と探るように言った。

「なんだ、鎌。お前も、やめよと言うのか」

 葛城は、残念そうである。

「仮に、殺すとして、どのように?」

「大勢で押し込み、一息にその首を跳ねる」

「なりません」

 鎌は、葛城の案を即座に否定した。

「では、どうするのがよいのだ」

「たとえば、古人皇子が、そむくことをはかっていれば」

 独り言のように呟く鎌の言う意味が、葛城には分かったらしい。

「そうか」

 と膝を叩き、

「叛こうとしている、として、殺してしまえばよいのだ」

 と笑った。石川麻呂も内麻呂も、眼を丸くし、驚いた。

「では、鎌。お前に、任せてよいか」

「御意のままに」

 葛城は平伏する鎌の頭に、うんうんと上機嫌に頷くと、本堂から出ていった。

「鎌どの」

 二人は、鎌に詰め寄った。

「ほんとうに、やるのか」

「やる」

 鎌の眼が、光った。

「古人皇子は、たしかに、太子(葛城)の言うとおり、蘇我の色が濃い」

 ひとくちに蘇我と言っても、石川麻呂のように葛城の方に傾倒している者もいれば、蝦夷、入鹿の権力にどっぷり浸かり、自らも美味い汁を吸っていた者もいる。

「それらが、古人皇子を担ぎ上げれば、怖い」

 と鎌は言う。

「そうなれば、の我々は、たちまちに覆されるやもしれぬ」

 とも。

 そう言われれば、他の二人は唸り声を小さく上げるほかない。

 あらたな世が始まったとはいえ、その支配はまだ完全ではない。多くは蘇我の世のやり方を踏襲しているし、言ってみれば入鹿が葛城に代わっただけのようなものである。それが、別の形に書き換わり、隅々まで行き渡るには、まだ今しばらくの時が必要になるであろう。その間に入鹿時代のが列を為して襲ってきたのでは、ひとたまりもない。

 気の優しい石川麻呂はそれでも難色を示したが、議論の末、結局、鎌の案が正式――この目論見自体が非公式のものであるが――に採用されることとなった。

「しかし、やはり不安だ。万一、あらぬ疑いをかけ、古人皇子を誅殺したことが知れれば、世の心は離れてしまう」

 まだ煮え切らぬ様子の石川麻呂に向かって、鎌は言った。

「なに。これを言い出したのは、そもそも、太子ではないか」

「鎌。そなた――」

 それ以上は、石川麻呂も何も言わない。



 九月。

 その計画は、実行された。吉野からなにがしという者がやってきて、古人大兄皇子のもとに、さかんに何者かが集まっていると報せたのだ。

「しかも」

 とその者は言う。

「何やら、剣、矛、弓の類まで、集めている様子」

 鎌は、ことさら、大業に驚いた。

「なんと。それは、ただごとではない。すぐ、確かめに参らねば」

 と葛城に言った。

「人を集めよ、鎌。吉野へ、ゆくぞ」

 葛城は、で、そう下知をした。

 すぐに兵は集まり、それらが一列になり、街道を南へとゆく。

 葛城は、最後尾。騎乗している。


 馬というのは弥生時代末期に日本に伝来したとされるが、騎乗し、使役していた考古学的痕跡が確認出来るのは三世紀中ごろから四世紀はじめにかけてのことである。その頃は古墳時代とのちに呼ばれる時代で、一部の権力者のみがそれを用いることが出来たものと考えられている。

 葛城らの時代になると、牧による量産が進んでいて、通信や物資の運搬などに広く用いられるようになっている。


 だが、やはり騎乗するということは、特別なことであった。このときは、騎馬隊を編成するにはまだ至らぬ。吉野という土地は山が深いから、ということもあるであろうが、騎乗しているのは葛城と腹心の鎌のみである。兵どもは、最後尾の騎馬の大将二人に見られていると思い、緊張し、そして奮い立った。

「俺も、乗りとうございます」

 と馬のくつわを取る猫がせがんだが、葛城は、

「いずれ、お前が偉くなったらな」

 と言って取り合わない。

「主上をお守りし、必ず、馬に乗れるようになります」

 猫は、葛城に対しては、やはりおとなしい。鎌などは、得体の知れぬ子供、と嫌っているらしいが、葛城も猫本人も気にしていないようであった。戦いになるやもしれぬ、ということで、腰には葛城が授けた新しい鉄剣。束には簡単ではあるが、ちゃんと装飾も施されている。粗末な麻の衣服にそれが似合わず、不格好であったが、当人は嬉しそうである。

「主上は、俺が、お守り致します」

 馬上の葛城の兜の中に光る眼を覗き込み、また、同じことを猫は言った。彼には、やはりその眼の光が悲しいものに見えているのかもしれない。

 この軍列が発つ前の夜、葛城が、例によって芦那を乱暴に抱きながら、これで最後になるやもしれぬ、と半泣きになって呟いていたのを見たからかもしれぬし、その葛城を、あにさま、泣かないで、と言って優しく慰める裸形の芦那を見たからかもしれぬ。



 吉野の山の中に建てられた寺に、古人大兄皇子は居る。その門を隊列は潜り、本堂の前の広場に整列した。

 葛城が進み出て、馬上から、持ち前の大声で呼ばわる。

天皇おおきみが太子、葛城である。ここに、俺に叛くことを企てる者が居ると聞き及び、確かめに参った。聞こえるか。今少し、時をくれてやる」

 堂内は、しんとしている。

「くれてやるから、出てこい。出てこなければ、踏み込む」

 本堂から、わっと声を上げ、寺の者が一人、飛び出してきた。

 襲撃に驚いたのか、何かを陳情ちんじょうしようとしたのか、葛城の方目掛けて走ってくる。

「――お、――お」

 声にならぬ声を上げ、葛城の馬の足元に座り込もうとした。

 する、と影が進み出た。

 その影は、猫の形をしているように見えた。

 次の瞬間、その猫の腰から光が放たれ、断末魔と血があたりに飛んだ。

 内心、葛城は舌を巻いた。人など、そう簡単に斬れるものではない。

 技もそうであるし、人を斬ることの出来る心のありようもそうである。

 その二つに対する天性のものを、猫は持っているのかもしれぬ。

「鎌」

 葛城は、思考を自らの内側から、倒れ込むその男に戻し、鋭く言った。

「俺は、ゆく。止めてくれるな」

「なぜ、私が太子を止めることなど致しましょうや」

「ならば、共に来い」

「承知仕った」

 猫は、血の滴る剣を右手にぶら下げたまま、何も言わず、馬から降りて本堂の方へゆく二人の後に続いた。さらにその後に、二十人ほどの兵が続く。


 本堂の扉を、開いた。

「――鎌」

 葛城は、ただ板敷の上に立って、前方を見ている。

「ひとりでに、死んだか」

 そう言い、薄暗い本堂を出た。

 秋めいた陽を再び浴びようとしている葛城が背にしているのは、自害した古人大兄皇子の亡骸であった。

 ふと鎌がその表情を伺うと、どのような色も浮かんではいなかった。

 少なくとも、兄であり舅である男にあらぬ疑いをかけ、誅殺した直後のそれではないことだけは分かった。



 葛城が来た、ということで自らの置かれた状況を察知し、逃れられぬと思い自害した古人大兄皇子の首は打たれ、その妻子らも全て斬られた。

 日本書記などには、上に挙げたように、謀反の知らせが入ったために誅殺された、とされているが、どこまで本当か分かったものではない、という話である。

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