第二章 大化改新
飼うために
葛城は、夜が明けるのを、ただ見ていた。
その夜明けを、新たな時代の夜明けであるとするようなことはしない。
ただ夜が更ければ、朝が来る。それだけのことであった。
そういう風に、全てが、成るべくして成る。世とは、そう出来ている。そう思っていた。彼は、この度の事変というのが、世の人が騒ぐように、起きるはずのないことが起きたのだと思ってはいない。
陽が登り、沈むことが当たり前なら、自らが蘇我を倒し、その上に立つことも、当たり前なのだ。それ以前に、そもそも、蘇我などが幅を効かせ、通りを闊歩し、それに人が
それを、感慨ひとしおという顔をしている鎌に向け、言った。
鎌とは、どちらかといえば、感情の表現の大きい男で、自らの大願のうちの一つが成ったことについて、涙を流し、床を叩いて喜ばざるを得ない。
だから、
――
と思わざるを得ない。
入鹿の墓のことも、そうである。
仮にも、一国の宰相である。その墓をさんざんに打ち壊し、父のそれに押し込むなど、なかなかに出来ることではない。
感情の量が多いのは、葛城もそうである。それが、この場合、激しい憎悪となって蘇我に向いた。そういうことだろう。
それが、果たして、これから彼らの作る新たな国の王に、相応しいのかどうか。それすら、鎌は、見極めねばならぬ。と思っている。
「
にわかに立ち上がった葛城に、鎌は声をかけた。
「帰るのだ」
そう言って、事後処理が一段落したことを受けた葛城は、さっさと自らの屋敷に帰っていった。
いや、自らの屋敷にも帰りはするのだが、その前に、彼には寄るところがあった。
「戻った」
そう言うや否や、床に手をつき、挨拶をしようとする芦那の襟を引きずるようにして
「あ、あにさま、いたい」
芦那が、かぼそい抵抗の声を上げても、葛城は聴く素振りもない。
「あにさま――」
芦那の細い腕が、葛城の背に回る。それで、葛城はぴくりと身体を止めた。
「――もっと、やさしく」
誘うような眼を向けられた葛城の中で、張り詰めていた何かが崩れたのか、芦那の脚を今まさに開こうとする体勢のまま静止した。
「あにさま?」
呼んでも、応答はない。降ろした
「あにさま――」
芦那のものではない滴によって、芦那の脚は濡れていた。
「泣いているの?」
その暖かな滴を脚に受けながら、芦那はゆっくりと上体を起こし、葛城の頬を撫でてやった。
「よし、よし」
「芦那」
葛城の声は、いつもと変わらぬ。太く、少し掠れていて、それが芦那の鼓膜を通して身体を柔らかくした。
「戻ったぞ。俺は。生きて、戻った」
「ええ」
鎌や衆の前では、蘇我が滅び、自らが立つのは当然のことという風に振る舞い、実際にそう思い、行動していた葛城であったが、芦那の前では、こうなのだ。
芦那は、もしかしたら、葛城という獣を飼い慣らすのが上手いのかもしれない。雷を纏い、毛を針のようにして、鋭い爪と牙を世に突き立てんとするこの獣も、彼女の前では、犬のようではないか。
げんに、葛城は、硬直したまま、なお涙を流し、
「うん、芦那。うん、うん」
と、嗚咽を漏らし始めた。
「大変でした。お疲れでしょうに」
芦那は、あられもない体勢を正し、葛城をその腕で包み込んだ。彼女の小さな身体には、葛城は余る。それでも、そうした。
「あにさま」
葛城は、あにさま、という芦那の息を耳に受けると、顔を離し、芦那の眼を覗き込み、優しい、とても優しい微笑みをひとつだけ置いて、また芦那と身体を重ねた。
蘇我が倒れたのち、葛城の母である今の
これは、葛城がそうさせた。
芦那を抱き散らかした翌日、さっそく葛城は鎌らと共に自らの生母を訪ねた。
鎌が用意した文章を読み上げ、蘇我討伐が成功した旨を奏上する。
それが読み上げるや否や、葛城は、巻物をするすると巻き戻し、
「さて」
と太い声を屋内に響かせた。
鎌や、他の同志は、弾かれたように顔を上げ、葛城を見た。今日の役目は、これで終わりのはずである。さて、とは、今行っていた行動から、べつの行動へと転換することを表すような語ではなかったか。
「
「
天皇は、葛城の言うことが分からない。
「天皇よ」
葛城の顔が、上がった。
母は、そこに我が子ではなく、一匹の獣を見た。
「わたしが、王となるのです」
「皇子!」
鎌が、蒼白になりながら、葛城を制止した。
「なんだ、鎌」
珍しい虫でも見つけたような顔を付けた葛城の首が、鎌の方を向いた。
「なりませぬ。それは、なりませぬ」
「何故だ」
鎌にとって意外だったのは、天皇が、案外乗り気になっていたことである。
「わたしも、先帝が崩れ、その後を襲い、この座に就きましたが、もとより、そのような器でもなし。皇子の方が、わたしなどより、よほど王たる器を持っています」
「お、お待ちを」
「鎌は、なにゆえ、それほど皇子を王座に就けたがらぬのです?」
「そうだ、鎌。なぜだ?俺では、不足か?」
葛城の言葉や眼には、含みはない。素朴な疑問として、訊いている。
「そ、それは」
鎌は、天皇に対し、平伏しなければものを言ってはならぬ身分である。床に額をぴったりと付け、口を開いた。
「この度、蘇我を倒したのは、ひとえに皇子のはたらきによるもの。世は、そう見ております。その皇子が、蘇我の屍もまだ冷めきらぬうちに王座に就けば、人はどう見ましょう」
葛城は、きょとんとした顔で鎌を見ている。蘇我を倒せば、俺が王ではないのか?と問いたげに。
「皇子は、王の座欲しさに蘇我を倒し、天皇を退かせ、自らそれに就いたと噂されましょう。それでは、人はまとまりませぬ」
確かに、一理ある。
「なるほど。では、鎌。俺は、どうすればよいのだ」
「
と、鎌は葛城の叔父、今の王の弟の名を挙げ、
「まずは、軽皇子を、あらたな
と言ったから、葛城もその母である天皇も、受け入れた。天皇の弟を新しい天皇に立て、葛城は、その皇太子になれというのである。
考えてみれば、では天皇を交代させずともよいではないか、とも思う。さんざん述べてきた今の天皇は葛城の実母だから、葛城がその皇太子となる分には何の不足もない。
だが、そうなれば、葛城は、いずれ王となる。鎌は、それはまだ時期尚早であると考えたか、あるいは葛城を王位に就けぬ方がよいと考えたのではないか。
つまり、葛城を王とするかどうかを、鎌が見定めるということだ。少なくとも、鎌自身は、そのつもりらしい。
だからこそ、鎌は、葛城の言い出した、退位を迫るような言葉を取り消させず、むしろ勧め、別の者をそこに据え置くことをしたのだろう。
――この獣は、並々ならぬもの。世を壊す力と、建てる力は、必ずしも同じではないのかもしれぬ。この獣の牙を用いねば、蘇我を倒すことは出来なかった。しかし、その牙で、この獣は、何を創り、産むというのか。
当の獣は、けろりとした顔をして、鎌の方を見ている。それに、にっこりと微笑んでやると、獣も嬉しそうに笑った。特に、理由はないのだろう。
――獣は、飼わねば、ただ世の害となる。飼い、使役してはじめて、世の役に立つ。そして、飼うには、鎖が要る。
笑顔を合わせながら、鎌はそのようなことを思った。
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