その日

 その日が、やってきた。どういう風に過ごしていても、時というものは流れてゆくものであるらしいですな、と鎌などは額に薄い汗を浮かべながら、理屈っぽく葛城に述べたが、葛城は、本当に事の重大さが分かっているのかどうか、平然としている。

 鎌や他の同志は、葛城の度外れた胆力に舌を巻くと共に、もしかしたら、やはりこいつは少しのではないかという心配もした。葛城とは、なるほどこれから彼らが行おうとしている、破壊という事業には持ってこいの男であろうが、そういう者を上に戴いて、果たしてが成るか。

 壊して終わりではない。鎌や、他の同志が思い描く、国家を作るのだ。葛城を、鎌はオオキミにするつもりであった。

 優れた王となってくれればよいが、そうでないなら、せめて、操りやすい王でいてほしいものだ、と思っていた。これは、鎌だけでなく、この企みに参画する全員の意見であった。


 だが、このままいけば、葛城は、国を一人で造りかねない。それほどの器量と、ある種の狂気を同志達は感じていた。その先に生まれた国が、より良いものであるなら言うことはないが、葛城のために存在する国になってしまえば、蘇我が葛城に変わっただけのことになる。もし、そうなる兆しが見えたとき、鎌らは葛城をどう制するのか。

 ともかく、今は、のことである。蘇我を、殺す。絶対的な権力を持ち、世を自らのほしいままにする、入鹿いるかを殺すのだ。

 少なくとも、葛城という獣の牙は、それにおいては非常に役に立つだろう。


 さらりとここまで描いたが、鎌が葛城の沓を拾い上げたあの日から、一年半が経っている。記録によれば、とは、皇極天皇四年(このとき、まだ年号というものが無かったから、どの天皇の治世になってから何年目のことである、という風に年をあらわす。西暦で言えば、六四五年のことである)六月十二日。今の暦で言えば、おそらく七月の、梅雨の終わり頃のことであろう。

 その蒸し暑い日、半島の三国からの使者を、倭国あるいは日本は丁重に迎え入れた。


 蘇我入鹿を殺す手筈は、進められた。

 まず、同志の一人が、入鹿の武器を外させた。

 我らの祖先が、大陸的な儀礼や礼節などを大いに持ち込んだあとの時代のことであるから、ふつうに考えて、他国の使者と、自国の天皇おおきみの前で帯剣していることはまずあり得ない。だが、わざわざ入鹿の剣を外させる必要があったのは、彼が平素、天皇の前でも帯剣のままで居たことを表すのではないかと思う。そして、それを不遜であるといさめる者も、罰する者もなかったのではないかと筆者は考えている。

 それはともかく、芸人(日本書紀では確かこの語が用いられていたが、俳優という意味であるように思う)に化けた一人がおどけながら、儀式の間剣をお預かり致しますと言い、入鹿の剣を取り上げることに成功した。

 そして、三国からの使者の引見が終わった。

 それで本来は終わりのはずであるが、同志達にとっては、ここからが本番である。


 蘇我一族でありながら鎌らに荷担し、葛城のしゅうとでもある蘇我石川麻呂が、天皇(これも葛城の実母である)に対し、上表文を読みはじめた。

 その間に、

 上表文は当時まだ貴重であった紙の巻物にしたためられ、それを少しずつ繰り出しては、石川麻呂が朗々と読み進めてゆく。

 蒸し暑い。

 そして、今から起きようとしている、天地がひっくり返るほどの大変事。それらのために、石川麻呂は、汗だくになった。

 入鹿が、その様子を、訝しげに見ている。


 ところで、この事件があった年の干支が乙巳きのとへびであったことから、のちの人はこの事件に「乙巳おっしの変」と名付けた。後年の人からしても、当事者である同志達にしても、重大な事件である。だから、わりあい、記録が詳しい。無論、脚色や誇張や事実の歪曲などもあるであろうとは思うが。

 と言って思い出したが、長く、この事件は太極殿なる巨大な建造物の屋内で行われたと考えられてきた。しかし、最近になってから、発掘調査により、太極殿がそれほど大きな建物ではなかったか、あるいはそもそもそのような建物自体、存在しなかった可能性が高いことが分かっている。さる国営放送の歴史ドキュメンタリー番組で最近観たから、間違いあるまい。

 だから、この物語における事件の舞台も、屋外であることとする。日本書紀によれば、葛城はこの時代まだあまり用いられることの無かった槍(長柄の武器は矛が主体であった)、鎌は弓を携え、潜んでいたとあるからである。

 太極殿があったとしても、それほど大きな建物ではないならば、これらの武器を二人が持つのはおかしい。屋内での戦闘ならば、絶対に剣であるべきである。だから、葛城も鎌も、蒸し暑い外の物陰に居たこととする。

 その物陰には、ほかに二人の者が居る。それらは、剣。さいしょに入鹿に飛びかかり、斬りつける役目の者である。


 彼らは、いよいよ実行という時に至る前に、力を付けるためか、粥を食っている。それを、暑さと緊張のあまり、吐いてしまったのだ。

 その甘ったるい臭いが、葛城の鼻にまとわりついた。

 石川麻呂の上表文は、続く。

 二人の刺客は、いっこうに動こうとしない。

 閨の中で出すような荒い息を、ふうふうと吐くのみである。

 石川麻呂も、汗だく。

 もう、上表文を読み終わってしまう。

 声が、上ずった。

「石川。いかがした」

 訝しがった入鹿が、遂に石川麻呂に声をかけた。

「オオキミを前に、覚えず、汗が流れます」

 と石川麻呂は取り繕った。

 入鹿は、はっとした顔をした。

 あたりの気配を、聴いている。

 しんとした音の中を、蒸れ上がるような空気が流れてゆく。

 じっとりと。

 誰の衣をも、肌に貼り付けながら。

 だが、それを破った者がいる。

 

 葛城。

「どけ」

 抜剣することが出来ず、震える刺客の一人から剣を奪うようにして取り上げた。

 すらりと抜くや、駆け出した。

 咆哮。

 それは、この雷の獣が、この地上に放った、はじめての。

 建物の前に集まる者は、一斉にその声の方を見た。

 そこには、獣がいた。

 獣は、入鹿をのみ見据えている。

 その眼が、驚きと、恐怖を映すのを、見ている。

 葛城が飛び出したから、怖じ気付いていた刺客達も、慌てて後を追った。

 葛城が、斬った。

 入鹿は咄嗟に腕を差し上げて防御したから、致命傷には至らなかった。

 額が割れ、血が飛び、入鹿はよろめいた。

 そこに振り下ろされた、刺客の一人の剣。

 それも入鹿の命には届かず、足を斬った。

 その場は、騒然となっている。

 入鹿が、転ぶ。

 地に、うつ伏せに。

 それにとどめを刺さず、葛城は、暫く、見下ろしていた。

 ――よい眺めではないか。

 そう思ったか、どうか。

 葛城の実母である天皇おおきみも、驚いている様子であった。それに向かい、入鹿は口を開いた。

「このような仕打ちを受けるいわれが、ありませぬ」

 そこへ、鎌がするりと進み出て、

「この者は、国を我が物としようとする余り、すべての皇子みこを殺そうとしていたのです」

 と言った。

 天皇は、入鹿から眼を背け、その場を去った。

「どうだ、入鹿。おまえは、これから、死ぬのだ。いったい、どのような心持ちなのだ、それは」

 とは、葛城は言わない。

 ただ、血を流しながら地に這いつくばり、オオキミ、オオキミと呼ばわる入鹿を見下ろしている。

 ひとしきり見下ろすと、その剣を閃かせ、首を打った。

 鎌は、見ていた。

 そのときの葛城の顔を。

 薄く、笑っていた。

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