あにさま
それに、彼は、半端なことを半端なまま過ぎ去ることを期待したり、待ったりすることがひどく不得手である。
彼にとってはいつも、
「成るか、成らざるか」
である。
蘇我のことにしろ、彼は、やる。と決めた。だから、やるのだ。その一環として、鎌が仕組んだ、葛城が逃げ出さぬようにという蘇我氏との婚姻も、鎌の意図を知りながら受け入れた。だから、芦那にそれを説明し、納得させねばならぬ。こういう理屈である。
「たのむ」
と葛城は、この百年足らずの間で新たに輸入した「拝む」という動作を芦那に向けてした。
「わかりました」
芦那は、案外すんなり承服した。
「そうか。飲んでくれるか。そうか、芦那」
葛城は、喜んだ。
「もとより、わたしとあにさまは、互いに結ばれぬことが定められた身。あにさまがどこの誰と契りを結ぼうと、わたしには、それを止め立てすることは出来ませぬ」
「それは、そうだが」
どういう感情からか、葛城は、途端に心細そうな顔になった。どうやら、感情の量とそれに伴う表情が、生来多いたちらしい。
「あにさまは、わたしが、心からあにさまの言うことを受け入れ、
「それに、越したことはない」
「馬鹿。そのようなこと、あるものですか。わたしを、置いていくのですね」
芦那の語気が荒くなり、眼からは涙が溢れようとしている。
「済まん、許せ。許してくれ。俺には、為すべきことがあるのだ」
葛城は、粗っぽく芦那を抱き寄せた。
芦那は、その背に回した腕に、思いきり力を込めた。
この兄妹の、いつもの愛情表現である。
「わたしを置いていってもよいと思うほどに、たいせつなこと?」
芦那のみずみずしい唇が、葛城の顔のすぐ近くで動いた。額すらも柔らかく、滑らかである。それを、葛城は自らの額で感じた。
「そうだ」
葛城の声は、優しい。その響きには、まことの温もりがあると芦那には思えるのだ。
「そんなにも?」
「そうだ」
「では、芦那は、これ以上は何も言いませぬ」
「済まぬ」
「だけど、あにさま」
芦那の潤んだ声が、甘い香りを放ちながら葛城の耳を包んだ。
「芦那は、あにさまがどこで何をしていても、あにさまを慕っています。あにさまは、そのことを、忘れなければいい」
「芦那」
葛城は、現代人の我々からすれば驚くべきことを言った。
「べつに、お前に二度と会わぬようになるわけではない。折を見て、お前を抱きに来るつもりだ」
「うれしい。きっとよ」
芦那は頬の桃色を、紅色に近付けた。
葛城の手が、絹の衣の裾を割り、中に入ってきているのだ。
葛城は、芦那の上で己の身体を前後させ、鋭い快楽に身を
俺は、
そのために、蘇我を滅ぼす。
まずは、
然るのちに、
尊きものを尊び、その大いなる翼のもとで人を要らぬ恐れから守る。
おれは、そういう天皇になる。
彼の内なる
「あにさま」
と辛うじて生きていることを示すかのように、薄く唇を開くのも、葛城は好きだった。
「見ていろ、芦那。俺は、俺を誰も省みることなく、あらぬ影に怯え、お前すらも娶らせぬこの下らぬ世の全てを、あるべき姿へと導いてやる」
それは、口には出さなかった。
言葉の代わりに、芦那の額に、そっと口づけをした。
そして、その日が近づいた。
鎌を中心とした数人が、最後の密談をしている。
「石川様、
「それが、いささか」
「上手くゆかぬのですか」
「触れ合いは、持っております。しかし、彼らは、我ら蘇我によって引き立てられた一族」
漢氏というのは、渡来人の一族である。私兵を持たぬ蘇我氏にとっての武力である。それを崩してしまわなければ、蛇の頭のみを潰し、尾に打たれるということになりかねない。そうならぬよう、蘇我の一族の中でも比較的力がある蘇我石川麻呂が接触をしているが、なかなかに靡かぬという話である。
「いかがする」
と鎌が決断を急ぐのには、理由がある。
三韓と彼らが呼ぶ、
その三国からの朝貢の場に、朝廷の重臣である入鹿は、必ず出席する。
わざと、そこで
三国の来訪を遅らせることは出来ない。だから、やるか、日延べをするかの、どちらかだ。
それを、鎌は一同に問うたのだ。皆が、どうすべきか、こちらの選択をとった場合、これはどうなる、などと口々に言い交わしているのを静めたのは、葛城の一言である。
「やるのだ」
皆が、葛城を見た。
なかには、
「こいつ、気は確かか」
という顔をしている者もある。
「やらねば、せぬまま終わるぞ。鎌。お前が、あの日、俺に声をかけたのは、何のためだ」
「
「――俺を、お前たちの頭として戴き、大望を為すためではなかったか」
「仰せの通り」
「ならば、やる。お前たちがやらずとも、俺がやる。いや、俺がやるのだ。お前たちは、必ずやるだろう」
そう臆面もなく言い切った。
鎌は、思った。
こいつは、獣だと。
筆者だけではなかったのだ。彼を知り、獣だと思う者は。
針のように全身の毛を尖らせ、そこから妖しい閃光を弾けさせていて、今にも轟音とともに天地を揺るがす
「しかし、皇子。漢氏が」
「それが、どうした」
こんなことがあるだろうか。葛城は、笑った。豪快にではない。煮えきらぬ同志を嘲笑ったのでもない。彼は、まるで、困ったように笑ったのだ。
まるで、お前たちがやらぬと言うなら、俺はどうなるのだ、とでも言わんばかりに。
反面、先程の強い語気である。
彼は、たとえ一人でもやるだろう。
そして、蘇我に楯突き、刃を振るった
蘇我の力は、この土の上に国が出来て以来のあらゆる為政者よりも強い。
それを打ち壊すためには、ふつうでは考えられぬ毒を用いる必要がある。
毒は、それを知る者が用いれば、薬となる。
獣は、鎖を付けて飼えば、家畜となる。
だから、この特別な葛城の、特別なところを、むしろ鎌は喜んだのだ。
「皇子こそ、あらたな
こうなれば、勢いが大切である。
載せるだけ載せれば、それだけこの獣は暴れてくれるだろう。ところが、この獣には、知性というものがあった。それも、この時代の人の水準よりも、遥かに高く。
「
と葛城はこのとき言った。思想としては、かなり先進的である。
「それが、あるべき姿。
俺である、と。
その日は、近付いている。
近づけば、やはり、企みに荷担する者は、落ち着きがない。
そのなか、葛城だけは、日毎に妻と、妹を代わる代わる抱いていた。
これだけ聴けば、葛城は理性のたがを持たぬ者のように思えよう。
しかし、違う。
芦那だけが、知っているのだ。
彼女のあにさまが、自分を抱くのが、これで最期になるかもしれぬと思いながら、一日おきに通ってくるのを。
彼は、妹の温もりの中に、感じているのだ。
怒りと、悲しみと、己のいのちの脈を。
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