蘇我のこと、葛城のこと

 今、世の実権を握っているのは、蘇我蝦夷そがのえみし入鹿いるか親子。葛城の言う通り、世は蘇我のみを尊しとしている。葛城の怒りが帯電し、いかづちとなってこの地に打ち付けられる様を描く前に、蘇我氏のことについて述べておかねばなるまい。そして、それを述べるにあたり、日本というものについて触れざるを得ない。



 まだ、この時点では、「日本」は無かったと思われる。「日出ずる処の天子」という有名な語は、七世紀後半にわが国からとうに送られた親書にある記述による。それは、大陸の先進国家の天子に対し、わが国の天皇おおきみもまたそれに並ぶ「天子」であると宣言をしたはじめの例とされ、二国の天子は対等であるという記述の仕方から、これをもってわが国の自我の芽生え、あるいはそれがより強くなったことを表すとされる。

 それまでの国号は、対外的には「倭」であり、自称は「やまと」である。今描いている葛城の時代においては、まだ「やまと」であったことだろう。


 一般の義務教育や高等教育くらいではあまり触れられることはないのかもしれぬが、この時代までの間に、ヤマトは対外的に膨張政策を取っていて、実は朝鮮半島の南部の任那みまなに勢力を伸ばしたりしていて、こんにちの我々が想像するよりも活発に、帝国的でさえある動きをしている。また、当時朝鮮半島は、高句麗こうくり新羅しらぎ百済くだらの三国があり、これより古い時代では共に争ったり、この物語の舞台になっている時代からほんの二、三十年前には大国であるずいにより高句麗が攻められたりしている。そして、半島の向こう、我々が今「中国」と呼ぶ場所において隋を倒し、新たに興った唐がある。

 朝鮮半島諸国と、大陸本土の帝国との関係について深く触れると、それのみを取り上げた作品になってしまうから、あまり触れぬこととする。要は、唐の国もまた、朝鮮半島は勿論、東南アジアや中央アジアの諸国に対し、非常に支配的な国家であったことが言いたいのだ。

 小難しい歴史の話はせぬ、と息巻いておきながらこのようなことを垂れ流しているのには理由がある。

 当時、我々の祖先は、今も我々が唱え、そして実践出来ずにいる「世界の中の日本」という概念を持ち合わせており、もしかすると今の我々よりも、より素直に、確実にそれを実践しており、そして、それを、恐らく最初に、最初ではなくとも意識的な行動としてのが蘇我氏なのである。


 あえて言おう。このあと、こんにちまで地続きになっている国の土台である律令国家、あるいは「日本という国」の先駆者は、蘇我氏であると筆者は考えている。

 日本書紀などには、それを倒し、政治の渦の中で活躍し、ゆくゆくは帝になる葛城に気を使ったのか、蘇我氏は「(三國志においてとんでもない暴政を敷いたとされる)董卓のようだった」と記されているが、おそらく、それを蘇我の者が見たら、はなはだ心外と怒るに違いない。


 世界の中の日本という感覚。それは、例えば聖徳太子──今は厩戸皇子と言うのだろうか──が唱えたとされる、「天皇を中心とした国づくり」にも見て取れる。我々の祖先は、さんざん述べた世界情勢の中、「国家」としての成熟を求めたのである。

 たとえば、幕末の頃、西洋の文物を徹底的に嫌う向きがあった。その中で、むしろそれを取り入れることで国力を上げ、然る後に外国をうちはらうのだと考える者もいた。

 この時代は、外国と敵国は同義ではない。遥かないにしえの時代より、朝鮮半島、中国、東南アジア、果てはポリネシアなどの人々がこのブーメランのような形をした島々には移り住んできた。それらは、もともとそこに居た人々が知らぬことを教え、持たぬものを与えることがしばしばあった。

 蘇我氏は、その力を、国の力に直結させようと考えたのである。


 渡来人、と言えば、上に挙げたような人々のことを指すと分かるだろう。それらは、ある決まった場所に、集まって住んでいた。

 それが、飛鳥である。

 蘇我氏が、と言えばやや語弊があるかもしれぬが、蘇我氏は、広い奈良盆地の南の外れにある、渡来人が多く住む地域を、都にしてしまったのである。

 それは鮮やかな驚きを我々にもたらすが、しかし、当時の彼らが求めていたもの全てが集まる土地に都を作るというのは、合理的でもある。たとえば、鉄。織物。焼き物。文字。言語。思想。計算。宗教。

 そこに都を作ることが、世界の中の日本として、二本の足で立つことに繋がると考えたのだと思う。

 飛鳥に都を置き、その北の守りとして飛鳥寺を置いた。そして、例の槻の広場を挟んで西向かいのアマカシの丘に、さながら要塞のような居館を立てたのは、何のためか。いったい、何から都を守ろうとしたのか。無論、当時、我々の島々全てがヤマトであったわけではない。しかし、まさかこの中央の盆地に攻め入って来る者など居ようはずもない。

 居るとすれば、隋や唐外国である。

 そういうことまで、考えていたのではないかと思うのだ。

 

 車輪は、回るものを更に回すためには、ほんの少しの力を注ぎ足してやるだけでよい。しかし、車輪とは、動かし始めのその瞬間にこそ、最も大きな力を要する。

 そのための、権力である。


 

 やっと、還ってきた。前置きが長くなったことを、許されたい。

 天皇おおきみの子としての己、という感覚を自らの定義としている不遇の葛城は、それが気に食わないのだ。彼は血は尊くとも、天皇に連なる一族の中での序列は低い。

 ――何故、俺を認めようとせぬ。

 ――蘇我が、どうした。

 ――奴は、オオキミか。

 ――俺を、見下ろすな。

 その怒りは、雲の中で轟く雷に似ていた。

 そう言えば聞こえはいいが、葛城は、当時高貴の極みとされた紫の衣をこれみよがしに纏い、馬のくつわのような顔をした蘇我入鹿そがのいるかという男が、心底嫌いだったのだ。


 この間、くつの一件から葛城が親しくなった鎌という男は、自らの腹の中の秘事を、打ち明けた。

 鎌は、姓を中臣なかとみと言った。彼は中流豪族ながら、聖徳太子の治世であった推古天皇の時代に主流であった、天皇を主体とすることこそが、内をよく治め、外敵から国土を守ることに繋がると考えていた。幕末風に言えば、彼は志士であった。幕末の志士の多くが、中流以下の身分であったように、鎌も、思想に依って立つため、推戴する旗頭を求めていた。

 鬱憤を募らせ、沓を吹っ飛ばした葛城を見たとき、鎌は、我、時を得たり。と叫びたい心地であったろう。

 葛城は、鎌の差し出した沓を履いた。それは、鎌の思想の体現者となることを知らずのうちに呑んだということになる。

 そして、鎌は、秘事を葛城に打ち明けた。

天皇おおきみに、なられませ」

 はじめ、葛城は、その美しい切れ長の眼を、ぱちくりとさせた。

「世は、曲がっております。蘇我のみを尊しとし、それを恐れるあまり、人は、国は、あるべき姿を失っております。それを、たださねばならぬのです。私には、力がない。それゆえ、皇子みこを戴きたいと考える。皇子。天皇に、なられませ」

「なる」

 葛城は、笑って、即答した。その笑顔が、やはり人を惹き付ける。普段の彼が背負う陰惨な怒りの影が、すっと融けるようなのだ。

 これは、もしかすると、ほんとうになるやもしれぬ、と鎌は思った。

「蘇我を、倒す」

 天皇になるということは、そういうことである。それを、あっさりと葛城は言ってのけたのだ。どう倒す、とは彼は言わない。倒す、とのみ言った。鎌にしてみれば、葛城のその言葉だけで十分である。むしろ、どう倒す、というようなことをこの場で葛城は一切言わなかったから、鎌は彼のことを王の器たると思ったのだろう。


 葛城にとって驚きであったのは、鎌が、既に何人かのを持っていることであった。

 葛城が旗頭となることを受け入れてから、鎌ははじめてその名を明かした。更に葛城が驚いたのは、その中に、蘇我一族の中でも力のある、蘇我石川麻呂そがのいしかわまろの名があったことである。

 そのような者が、なぜ入鹿を倒すことに荷担するのかについて説明するため、また別のことを述べなければならぬ。

 入鹿は、言わば、行動が極端なのだ。父の蝦夷はその才を見込み、早くに彼を当主のような扱いにしたのだが、以前に述べたように聖徳太子の血筋の皇位継承者を根絶やしにしたり──実際、父の蝦夷ですら、この入鹿の行いに、後で泣きを見ても知らぬぞ、と言ったらしい──という行いをいささか危ぶむ向きが同族内でもある。鎌のような男が抱く、世直しにも似た思想は、蘇我氏の台頭と言うより、ある意味で入鹿個人がもたらしたとも言えなくもない。


 葛城は、逃げることが出来なくなった。もとより臆し、逃げるような可愛いげのある心は持たぬが、鎌の斡旋により、その蘇我石川麻呂の娘を妻に娶ることになってしまったのである。

「鎌め。俺に食らいついて、離さぬ腹らしい」

 と葛城はおかしがった。

 妻を娶るのであるから、母である天皇おおきみにも許しを乞わねばならない。それはあくまで形式的なことであるから、手順の通りに進めればよいが、葛城には、もう一人、報告をしなければならぬ者があった。

「さて、芦那あしなが、なんと言うか」

 なんとなく、気が重そうに、芦那なる者のいる館へと足を向ける。

「よくぞ、お参りで」

 芦那は、床に座り、真っ白な手の甲を少し見せながら葛城に向かって頭を下げた。

「うむ、芦那。話しておかねばならぬことがあってな」

 上がった芦那の頭には、とても美しい女の顔が付いていた。切れ長の美しい瞳に、長い睫毛。肌は絹よりも白く、ふくよかな頬にだけ、紅をさしたように桃の色が浮かんでいる。

 葛城は、いつ見ても美しい、と思った。

 二人は、言わずもがな、恋仲である。

 それが証に、芦那は既に葛城の婚儀のことを聞き知っているらしく、不安と怒りを隠そうともせず、真っ黒な瞳でじっと葛城を見つめている。

 葛城は、ちょっとたじろいだ。芦那の気が強いことは今に始まったことではないが、べつの女と婚儀を結ぶとなれば、どのような仕打ちを受けるか分からぬと思ったのである。

 葛城にしてみれば、正直、芦那は蘇我などよりもずっと怖い。

「ちょっと、話しておきたいことがあってな」

 また葛城は同じことを言った。芦那の眼が、また強くなった。

「ええ。わたしも、とくとお聞きしたいことが、山ほどあるのです。あにさま」

 芦那は、葛城を、あにさまと呼んだ。

 二人は、恋仲である。

 しかし、兄妹でもあった。


 この当時、父もしくは母の違う兄妹での結婚は認められたが、父も母も同じ兄妹同志で通じ合うことは、倫理的に認められなかったという。

 葛城と芦那は、父も母も同じ。

 だから、二人は、外向きには、ただの兄妹である。

 だから、葛城が誰と婚儀を結ぼうが、芦那の知るところではないし、芦那もまた、いずれどこかへ嫁にゆくのだ。


 だからこそ、葛城は、わざわざ彼女の居館に足を向け、しっかりと、話しておかねばならぬと思ったのだ。

 倫理的に許されぬことと知りながら、それをする。

 それをしながらにして、きちんと筋道を通し、別の女と婚儀を結んだりはしない。

 葛城とは妙な男であるが、そういう男であった。

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