雷獣の牙
増黒 豊
第一部 天の智
第一章 乙巳の変
槻の下から
七世紀と言って、すぐに飛鳥、蘇我氏、大化改新というような用語が浮かぶ人は、まず歴史好きであろう。
安心されたい。筆者には、この物語を、史実の検証を行うための難解な論文にするつもりは毛頭ない。
だが、こんにちを生きる身として、どうしてもこの時代を、そしてこの物語においてスポットライトを当てることになる男のことを見過ごしてはいられないように思うのだ。
タイムマシーンがあれば会ってみたいと思う歴史上の人物を挙げろと言われれば、筆者の中で間違いなく上位に入ってくる男である。
無論、これを書いている時点でタイムマシーンは完成していない。だから筆者はその男に会ったことはない。
ゆえに、書こうと思った。
筆者の頭の中で彼に会い、彼が何を見、何を思い、何をしたのかを、体験したいと思ったのだ。その術は、想像を膨らませ、それを書くこと以外にないと思った。
重ねて断っておくが、これは、あくまで、歴史上の出来事を筆者の頭の中で膨らませた、想像である。
その想像上の彼は、雷を纏い、突如筆者の前に現れた。
鋭い牙を持つから、筆者は、彼を獣だと思った。
その獣は、不遇に怒りを募らせ、雷電をその体毛に帯び、牙は、天の智を喰らい、地の武を破る。
志と、戦いと、知略と、そして国というもの。
そういう、物語である。
こんにちにおいて国内最古の寺として有名な飛鳥寺はただしい名を法興寺といって、飛鳥盆地という小さな盆地、奈良県明日香村にある。
その西門の向こうは、当時、広場になっていた。
広場と言うだけあり、槻の巨木以外は、草が生えているだけで何もない。
正月。そこで蹴鞠をしている一団がある。そのうちの一人が、
世は、乱れている。蘇我氏という一族が、国の
入鹿とは、とてつもなく賢い男であったから、彼の代になっていよいよ一族の権力は増した。
この頃になると、蘇我氏が立てた
葛城が怒っているのは、その専横に対してではない。
「なぜ、俺に力が無く、あの馬の
ということである。
葛城の血は、尊いものである。しかし、世は蘇我をのみ尊しとして、葛城などには一切、目もくれない。
それが、彼の中に、自然と権力に対する反感を育んでいた。
「
そういう不満を、人に漏らすこともあった。それを聴いた者は蘇我の威を畏れ、耳を塞いで逃げてしまうことがほとんどだったから、葛城はなお面白くない。
蘇我氏が権力を手にしているのは、一つには渡来人による先進的な技術の導入を行ったこと、もう一つには仏教という体系化された思想の導入など、この国にとってあたらしい様々な仕組みによる裏打ちあってのものであるのだが、葛城にはそれが分からない。
分からないから、ただ苛立つしかなかった。
才にも、武にも、自信はあった。しかし、世は、葛城を、まるで無かったかのように無視し続けているのである。
苛立ちを、蹴鞠にぶつけた。
その勢いで
共に蹴鞠をしていた貴人どもは、くすくすと笑った。葛城が、このときどのような冠位を与えられていたのか知らぬが、位は天皇の第二皇子としては低い。それに反発するかのように、緋色の衣を好んで用いた。冠の色まで緋であれば地方豪族程度の位ということになるから、さすがに冠はべつの色であろう。
その衣をばたばたと靡かせ、彼は沓の方に向かって歩いた。
それぞれの足の裏に伝わる感触がちぐはぐで、それをとても気持ち悪いと感じた。
――この世も、そうだ。あるべきが無く、あらざるべきのみが有る。
彼の端正な顔立ちは、その
「どうぞ」
男は、中流の豪族といった身なりで、黒色の冠をしている。ゆえに葛城に対し、顔を
「済まぬな」
葛城は、笑うと、目元に可愛気が出る。
男は、不意に顔を上げた。不遜であるが、葛城は別に怒らない。
「
と男は葛城を呼んだ。
「うむ」
葛城は、男の差し出した沓を履いた。
これが、初まりである。
このとき、男は、葛城に、沓と共に別のものをも差し出し、葛城は、満足げにそれ履いたことになる。
「お前、名は」
葛城は、見上げてくる男に向かって言った。
「
葛城は名乗らない。貴人の
ふつう、貴人を指す場合、その者が誰であるのかを、社会的立場などを名詞化して呼ぶ。
「
と鎌は葛城を呼んだ。
前の
「鎌。俺を、知りおるのか」
「無論」
鎌の眼が、ぴかりと光った。
このとき、鎌が葛城をどう感じたかを、彼の子孫が遺した記録には、「雄略英徹」という四字で表されている。
そう感じながら自らを見つめる鎌に、葛城は、雷を見た。どういうわけか、その雷が自らの身体の中にある別のそれと融和し、足が、指が痺れるような気がした。
言いようもない恍惚と陶酔と、そして憤怒に似たものを感じながら、見上げた。
そこには、アマカシの丘と呼ばれる丘。
蘇我氏の邸宅を兼ねた、軍事要塞である。
――見下ろすな、俺を。
雷を纏った一匹の獣が、槻の下から、他に例えようのない表情で、それを睨み上げている。
始まったばかりのこの物語にとっては、まだ先のことであるが、彼は、後に、天皇となる。
死した後、人は彼を天智天皇と
鳴き声は、遠雷が如く。
彼はその睨み付ける権力を喰らい、破り、己の血肉とし、智と武による戦いを続け、その牙を歴史に突き立てる。
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