第6話 斉藤一人

 斉藤一人さいとうかずと月乃つきのの父親は地元の中学校の国語教師で、どちらかと言えば厳格な方だった。教育にも熱心で、一人のぼんやりとした記憶では、小さな頃から読み書きやら計算やらを教えられていた覚えがある。優秀で明朗な秀才を望まれていたのだろう。


 だが、一人はことごとく父の期待を外した。


 興味のない物事を覚えるのが苦手で、勉強よりも漫画やゲームの方が好きだった。内気で気ばかり優しくて、人と話すのが何よりの不得意分野。運動、特に陸上は良く出来たが、体育会系の空気が苦手なため部活には入っていなかった。教室の隅でいつも俯いていて、体育祭の時にだけほんの少し見直され、やがてまた忘れられる。そういう男子が彼だった。


 四つ下の妹の月乃は違った。頭の回転が良く器用で、何より根っから明るく人好きのする性格。年齢相応に華やかな格好や遊びが好きだったが、なかなか優秀で素行も良い彼女相手には親も甘く、多少のことは許されていた。見込みのない兄の代わりに大いに期待を受け、見事成功を収めていたというわけだ。


 だからと言って親も妹も、別に嫌いではなかった。自分が果たせないことを軽々とこなしていく妹はまぶしかったし、それに両親が喜ぶのは当然と思えた。彼は彼だけの好きな物を守っていられれば、それでいいと思っていた。メタルのCD、ファンタジーRPGのゲームソフト、バトルものの漫画、遠い外国の写真集や地図やコイン、鉱石、精巧なクリーチャーのフィギュア。そういった物たちだ。


 その少しずつ集めた大事なコレクションを罵倒されたのが、どうしても思いつかなかった進路調査票を白紙で出そうとした時で、それでも、ああ、家を出ようと思うくらいだった。


 実際に家を出てひとり暮らしを始めて、持ち出したお気に入り以外、実家に残しておいた趣味の物が全て勝手に処分されていたことを知った時も、じゃあ帰る理由がなくなったな、と思っただけだった。


 斉藤一人はいつもぼんやりしていて、優しすぎて、気づかなかった。気づけなかった。自分の心に少しずつ入っていったひび割れに。全てに疲れ果て、やがて真っ二つに割れてしまうまで。


 斉藤一人が暗黒騎士の兜の下に押し込めた、遠い思い出だ。誰にも見せたことはない。




 黒曜竜ヴァラムガラッシュの動きは鈍重であったが、それだけに破砕の力は絶大。長い首をもって振り下ろされた牙の一撃は次々に地形を破壊していった。暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードはそれを躱すように、また、更地へと誘導するように動いた。


 初めはなかなか困難だった。竜に与する魔道士による風の障壁が彼をことごとく遮り、剣でもって打破する必要があったからだ。だが、それも止んだ。あの多弁な吟遊詩人と、忠実なる侍女が儀式の陣を封じたのであろう。途中、魔道士の術により縛られた無辜の民も気紛れに解放した。あとは隙をうかがい、暗黒瘴気剣の連撃を叩き込むのみ。詩人の術は、侍女リーゼロッテの声を運ぶ。すぐに参ります、と。


 不思議な娘だ、と暗黒騎士は跳び退りながら思う、濛々もうもうたる土埃が彼の漆黒の鎧を曇らせた。


 リーゼロッテ・フェルメール。ふとした偶然から侍女とした娘。数々の冒険を共にし、その呪われた戦慄すべき運命さだめを知り、そして打ち克ってきた。人に馴れ合わぬ孤高の彼が、唯一選んだ旅路の友だった。


 可憐な姿形だが、その魂の奥底に苛烈な炎を隠し持っていることを、彼は知っている。塔の上の姫君ではいられぬ娘だ。いずれ彼に並び立つ騎士になるなどと勇ましいことを言う。そうして、実際涼やかに騎馬を乗りこなし、彼にどこまでもついてくるのだ。


 破砕音。首を横に振った竜が、傍の樹を折り砕いた。暗黒騎士はさらに荒野をはしり、竜を導く。頭ではなく、胴を狙わねばならない。理由、理由は……そう、ヴァラムガラッシュを操る白銀の雷鳴石がかの竜の体内に埋め込まれているのだ。時折火花のような物が弾けるのがその証。そういうことにしよう。多分、破壊のための術式が調ととのわねば甚大な爆発を起こし……いや違う、無傷で取り出さねばならぬから……。


 暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードは……斉藤一人は奥歯を噛む。世界が千切れそうになり、滲み、ぶれ出す。散り散りになった夢を掴もうとしてひた走る。


『ヴァルちゃん、もうちょい我慢! 今社長めちゃくちゃ頑張ってるから!』


 詩人の——葵川肇の蝙蝠越しに、電話の音声だろう。『だから、被害が出てからじゃ遅いんですよ!』と叫ぶ戸叶社長の声が微かに聞こえた。




◆ ◆ ◆ ◆




 三条弘樹は、ほとばしる白い電光の中で薄く微笑んだ。少しずつ機械と一体になれている気がする。窓の外にはこちらの気を惹こうと走り回る暗黒騎士のお兄さんがいて、仕方がないから遊んであげている。空気の壁に阻まれてダンボールの剣を振り回していたさっきよりスムーズに動いているので、正樹はもしかしたら捕まってしまったのかもしれない。仕方がない。むしろ、全てを自分が被る上ではその方がいいかもしれない。


 ごめんね、正樹。付き合わせちゃって。小さくつぶやく。正樹のためというのは本当だ。ずっとお父さんにかわいがってもらえばいいと思う。でも、それだけじゃなかった。電撃が奔り、近づこうとしてきた肇の蝙蝠を灼く。


 僕を見て欲しかった。僕を見て欲しかった。僕を見て欲しかった。


 誰かに、弘樹自身を見て欲しかった。すごいって言って欲しかった。格好いいねってほめられたかった。これだけのことが出来るってわかって欲しかった。


 さもなくば、せめて叱って欲しかった。


 今病院で頑張ってるだろうお父さんは、どうかな。叱ってくれるかな。ちゃんと見てくれるかな。肇さんはどうだろう。暗黒騎士の人は。あのお姉ちゃんは。


 白い電光が、真昼の星のように輝く。それは操縦席から溢れ、ショベルカー全体を薄く包んでいく。重機は電光に反応するように動きの滑らかさ素早さを増し、また、外に雷撃を放つ。


 ああ、ほら、見て。僕はこんなに格好いい。


 狂者ルナティックと化した幼い子供は、うっとりと晴れた空を見上げた




◆ ◆ ◆ ◆




 暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードは、突如として飛んできた雷撃に右肩を打たれ、手にした暗黒瘴気剣ドラグザルディムカイザーを取り落とした。


「しまっ……」


『ヴァルちゃん平気⁉︎』


 吟遊詩人葵川肇の声がする。暗黒騎士は半ば夢から醒めながら答えた。


「ビリッとした……」


『ちょっと見えるとこに行く……って、なんだありゃ……』


 黒曜竜は天に吼え、その全身は白銀の稲妻に覆われていた。まるで伝説の天衝く塔ハルガリシャードの如く。


『狂化? まさかでしょ』


 絶望に満ちた声。暗黒騎士は頭の片隅に、どこか遠くで聞いたことのある知識を思い浮かべる。


 狂化、狂者ルナティックと化すことと単なる暴走との違いは、異常なまでの能力の拡大・深化。また、それに伴い病者ペイシェント本体の外見上または能力の効果範囲外観に著しい視覚変化が表れること。精神状態は悪化し、外部からの働きかけなしに復帰できたケースはほぼゼロ。


 暗黒騎士斉藤一人とて、一度は呑まれかけた力の渦だ。


「剣を失った」


『周りになんかない? まあ、許可が出るまであんまり意味ないけどさ』


 周囲は不毛の荒野。人の営みに遺されし物建材やパイプの類はあるが、彼の膂力で持ち上げられる物ではない。さらに使えそうな道具類は、どうも竜の体躯を越えた奥にあるらしい。走り込もうとしても塞がれる。そしてまた雷撃が来る。


『リーゼちゃん、ちょっと時間かかってるけど大丈夫かな。ついでに、その辺に武器になりそうな物は……』


 リーゼロッテの声はせず、ただ、蝙蝠越しに苦しげな息遣いだけが返ってくる。


「リーゼロッテ?」


『平気?』


『大丈夫……大丈夫です。もう大丈夫。今。今


 問い正す間もなく、足元を雷撃が掠めた。ある程度正確な射撃が可能なようだった。先ほどは多少の感電で済んだが、次はどうなるかわからない。武器はない。破壊の許可もない。走り回るしかない。


 意識は明滅し、現実と夢とが、どちらがどちらともわからず入れ替わる。剣が欲しい。攻撃のためだけではない。心のために。重機相手に突っ走る馬鹿みたいな男より、凛々しく禍々しい影の如き戦士でありたかった。剣がなければ、彼は、ただの。


「暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様!」


 背後からリーゼロッテの叫ぶ声がした。走り寄って来る。憔悴した顔。鴉の濡羽の如き色の髪は半ばが肩の上で乱雑に斬り落とされ、半ばが腰の辺りまで伸びて揺れている。左手の爪は短く、右手の爪は剣の如く長く伸びているのも不思議だった。暴走をしかけている。が、どうやら理性で踏み止まっている様子だった。


 侍女は、何か細い棒のような物を捧げ持つ。よく見ればそれは数本のさらに細い棒を纏めたもので、乱暴に黒い紐でぐるぐると縛ってある。


 爪と、髪だ。確実に、リーゼロッテ本人の。


「剣です。急いで作りましたが、少しは使えるはずです。他の物も探しますから、まずはこれで!」


 手に取ると、羽のように軽い剣だった。この娘が己の身と正気を引き換えにしたのに比べ、あまりに。心臓が絞られたように苦しくなった。


(あなたのもうひとつの剣になれたら、きっと嬉しいです)


 そなたはいつでも、我に力を与えてくれるな。声に出せない気持ちが、右手から温かく全身を駆け巡った。追い剥ぎを討伐した時。子攫いの悪鬼を退治た時。茨の城を踏破した時。常に侍女は彼と共に戦っていた。


 暗黒騎士の手にする物は、全てが無敵の剣と化す。


 右手に暗黒瘴気剣ドラグザルディムカイザー。握る腕には籠手ガントレット。鎧と兜で身を覆い、背にはためくは漆黒のマント。


 彼女の前ではいつでも、斉藤一人はなりたい自分で、最強の暗黒騎士でいられた。今だってそうだ。


 世界が二重写しになる。現実と夢は曖昧にひとつになる。彼は暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード。ふたつの世の表層を往き来する者。


『葵川くん! 許可取った! もうボロボロのスクラップにしても文句言いませんって言質取ったから、安心して壊しちゃって!』


 蝙蝠越しに、自棄やけっぱちな戸叶社長の声がする。


『了解。ま、もうだいぶ中身はひどいことになってそうですけど』


 あたしはもうしばらくFAXはしないぞ、会議も短く済ます、と怒りの声が聞こえてくるが、聞き流す。


『八重樫さんと結ちゃんも向かってるらしい。……お願いするよ、ヴァルちゃん。僕の弟を助けてあげて』


 葵川肇のいつになく真剣な声に、彼は応えてうなずいた。


「よろしい。リーゼロッテ、我が隣に立て! そなたのこの剣にていさおしを立てようぞ!」


 暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードは高らかに叫ぶ。暗黒瘴気剣ドラグザルディムカイザーと侍女リーゼロッテある限り、勝利は常に彼の手の元に。


「竜退治である!」

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