第5話 爆発
暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードは、ぬばたまの闇のごとき毛並みを持つ愛馬ザラドルーグから下馬すると、乾いた熱風の吹き荒れる荒野を見つめた。そこには鋼鉄の縛鎖を自ら引きちぎり、眼前の人の営みをその
「堕ちたか、高貴なる竜よ」
隙を突き、胴に一撃を。それで有利は取れる。だが。
『たださ、ヴァルちゃん。あのショベルカー、建設会社がリースしてる物なんだって。今社長があちこちに連絡して許可取ってるから、故障や破損はちょっと待ってほしいんだ。まずは破壊活動をやめさせて注意を引いて。できるなら中から救出してほしいけど』
葵川肇に告げられた言葉。微かに乱れた彼の世界は、瞬く間に修復が行われる。現実と夢想との整合性は保たれ、彼は自分なりの理屈を見出す。
即ち、正面より堂々と戦いを挑まねば暗黒騎士たる彼の名折れである、と。暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードは邪法の下に生まれし真の闇の顕現。しかし、彼には彼の通すべき筋があり、則るべき道がある。それを失えば、彼は目の前の竜と同じく、魂を永遠の堕落に穢すこととなるのだ。
すう、と砂塵混じりの空気を吸い込む。
「我が名は暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード!」
竜は振り返らず、だが確かに軋むように動きを止めた。
「
黒曜竜ヴァラムガラッシュの巨体は暗黒騎士の上背の五倍は下るまい。翼と前肢は縮み上がり萎えて用を為さぬが、その牙は鋭く巌をも砕く。
破壊に、或いは諦念に。濁った目を暗黒騎士に向けた竜は、天に向け大きく吼え猛った。
◆ ◆ ◆ ◆
正樹の小さな片手が伸びる。途端に、空気の塊が勢い良く射出され、リーゼロッテの手を打った。右手のナイフは弾き飛ばされ、地面に落ちる。手首と手首、足首と足首に空気の枷がかけられ、彼女は土の上に転がった。最後に、見えない手のような塊が首をぐいぐいと締めつけてくる。
空気の壁。あんな風に攻撃転用してくるとは思いもよらなかった。威力は弱いが、油断があったと思う。ナイフは遠い。息が苦しい刃物が何かあれば。何か。
何か。
「僕はお父さんもお母さんも、新しいお父さんも、弘樹も、大好きなのに、一緒にいたいのに、なんでそれじゃだめなの?」
リーゼロッテはぷつりと音を立て、空気の首枷を破壊した。刃物はない。暗黒騎士のように、別の物を剣に変える力もない。でも、彼女には彼女だけの力があった。
体内の生命力に働きかけ、治癒を促す力。それは自分に対して部分的な新陳代謝を激しく起こすことができる——暴走と狂化の前兆として。
長く鋭く伸びた爪は、簡単に空気の枷を切り裂く。髪も伸びてしまうのは少し邪魔だ。肩口を過ぎ、背中に差しかかろうとする髪先を軽く揺らす。頭の中はめちゃくちゃに何かを拒絶したがっていた。感情が後から後から押し寄せて、理性を圧迫する。
「リーゼちゃん⁉︎」
葵川が驚いた声を上げ、二階から身を乗り出す。そこに正樹が体当たりのように飛びつき、彼は危うく手すりから落ちかけた。
「なんでいっつもごめんなさいって思わなきゃならないの。なんで!」
リーゼロッテは走って、残りのドア前の壁を破壊。外階段から二階へと駆け上がる。そこから数人が逃げ出そうとして、降ってきた新しい壁に阻まれ、正樹は大声で泣き叫び、リーゼロッテは駆け、葵川は。
どさりと後ろに倒れ込んだまま暴れる正樹の動きを止め……いや。小さな弟を、両腕で抱き締めていた。
「ああ、ほんと駄目だなあ」
周りの空気に殴られる衝撃を耐えるように、葵川は続けた。
「そういうこと言われちゃ、父さんの真似をしたくなっちゃうよ。ケンカしに来たはずなのにな」
掠れた声は囁く。
「君の気持ちは悪くない。めぐり合わせと、今回のやり方が間違ってただけ。まだ間に合うから、ちゃんと話そう。僕の話もするから、君の話も聞かせて」
泣き叫ぶ声は止まらないが、正樹はもう暴れてはいなかった。ただ、嗚咽ばかりが溢れる様子で、時折葵川の胸を自分の手で軽くぶっていた。
「ついでに、いつか君の好きの中に、僕の名前も入れてくれたら嬉しいなあ」
リーゼロッテはしゃがみ込む。正樹の頭を撫でようとして、小ぶりなナイフほどに伸びてしまっている爪を見、諦めた。葵川は身を起こすと、やや警戒したような、驚いたような目で彼女を見つめた。
「えっと、平気なのかな?」
「ちょっときついです」
ぎゅっと唇を噛む。頭の中は今にも手綱がどこかに行きそうで……だが、どうにか自分で握れている。
「でもまだ大丈夫。正樹くんは……」
ひくひくとしゃくり上げる子供の背中を、葵川はさする。
「うん、多分『爆発』させられた。一旦クールダウンはできたみたいだ」
ほっとする。頭がガンガンと混乱する。どうして自分が完全に暴走せずにいられているのかは、よくわからなかった。
「そしたら、次は現場の方だ。ヴァルちゃんが気を引いてくれてる。重機を壊していいってことになりゃ少しは楽なんだけど」
「操られてる時点でもう中がおかしくなってそうですし、多少は……」
「なんかさ、勝手にやると、いつ誰がどう壊したかとか検証しなきゃなんなくて面倒なんだって。下手するとうちが弁償しなきゃだし……もちろん人命は優先だけど」
「なるほど」
眼下では詰所に押し込まれていた人々が、彼女の指示通り現場とは反対の方向へ逃げ出している。
ずん、と低い音がした。ショベルカーが地面にバケットを叩きつけた音だ。急がないと。リーゼロッテは階段に向かった。
「正樹を見てなきゃいけないから、ひとまず僕は端末でサポートする。リーゼちゃんは破壊許可が出て八重樫さんたちが来るまでヴァルちゃんを助けてあげて……でも、絶対に無理はしないで」
「はい!」
葵川はなおも何か言いかけ、そして。
「弘樹を助けて」
涙声の正樹が弱々しく口を開いた。
「お願い」
「大丈夫。連れ戻します」
「……ああ、同じこと言おうと思ってた」
もう一度、葵川は俯いた正樹の頭を優しく撫でる。お疲れ様、という様子で。
「僕ら、結構気の合う兄弟になれるんじゃない?」
リーゼロッテは笑って、そうして階段を駆け下りていった。次なる戦場へ。彼女の主、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードの下へと。
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