第2話 斉藤月乃

 家のエアコンが壊れたのだ。


 夏の盛りに実家にはひどい暑さが篭り、おまけに修理業者が来るのは次の日になるらしい。これでは一日だらけて過ごすはずの夏休み計画が台無しだ。たまりかねて家を飛び出した。駅前に行けばどこかしら冷房の効いた店に入れるし、そのままターミナルの瑞野まで行っても良い。


 そう考えたところで、なんとなく人恋しくなった。親しい友人は大体県外に帰省している。中高の友人に連絡を取っても運悪く捕まらない。


 だから、他に思いつかずにバスにまで乗って休み中の大学なんてところに来てしまった。ラウンジやサークル棟にいればきっと涼しいし、誰かしら知り合いに会えるかもしれない。なんなら帰りに近くにある兄の家に寄ってみてもいいし、まあそんなに悪い過ごし方ではないだろう、と。


 斉藤月乃は軽快なノースリーブとショートパンツ、頭にはキャップをかぶった姿でバスから降りた。さすがにこの時期には自分ひとりしか乗客はいない。緑の濃い銀杏並木をさくさくと歩く。秋には臭いが凄いので、異臭通りなんて呼ばれているらしい。一年生の月乃はまだ嗅いだことがないが、道の長さと木の数からすると先が思いやられるな、とはよく思う。


『誰か』


 声がした。男性の声だ。辺りを見回す。それらしき人影はなかった。


『誰か、いた!』


 ふと、目の端に何かちらちらと過ぎるものがあるのに気づく。虫か何かが飛んでいるのだろうか。月乃は無造作に手で払おうとした。


『ちょちょちょ、やめてやめて。端末が壊れちゃう。すいません、緊急事態なんです』


 その声は、明らかに月乃に向けて放たれていた。人影はないが……何か、変なものが宙をちらちらと飛んでいた。透明の、あれは、蝙蝠?


「えっ、何、これ何⁉︎」


『怪しい者じゃないです! トカノ特殊業務社営業担当の葵川と言います。本体は人間。これは端末。ええと、SMEの……』


「トカノ社さん」


 月乃は聞き覚えのある社名を繰り返した。


「知ってる。知ってます。あっ、ちょっと待ってくださいね。ってことは病者ペイシェントの人だ! これも能力!」


『あああ、話が早い、すげえありがたい。そうなんです。僕今ぶっ倒れてて動けなくて、携帯も使えないんだ』


「緊急事態、なんですか? あなたが?」


『いや、僕は動けないだけで、後でどうにでもなるんです。助けてもらえるとありがたいけど、それより先に社に連絡を頼みたい。もしかしたら事件か事故が起こりかねない』


 月乃は考える。ここで社名を偽るのも妙な話だ。声には切迫感があるし、変な詐欺とかではないだろう、と思う。ただ、念のためにひとつ確認をしたかった。


「あの、トカノ社さんでうちの兄がお世話になってるんですよね。斉藤——」


『ヴァルちゃん⁉︎』


 切羽詰まった声がさらに驚きに揺れた。よし、と月乃はうなずく。暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード。兄の、斉藤一人のトンチキな別名を知っている人だ。まあ、信用していいだろう。


「わかりました。状況と連絡先を教えてください。手伝います!」




 連絡を終え、並木道を走る。やがて前方に汚れた服を着て座っている若い男性を見つけた。月乃に向かって手を振っている——が、なんだか変だ。まるで両手首を縛られているような手つきをしている。近寄って見ると、紐などの類は何もない。


「どうも、葵川です。ちょっと面倒な拘束をされてるから、無理だったら放っておいて人を呼びに行ってもらっていいよ。刃物か何か持ってます?」


「あったはず……」


 ショルダーバッグの中のペンケースを探る。小型のカッターナイフがある。取り出してカチカチと刃を出すが、やはり切るべき物は見当たらなかった。


「手首のとこ、なんかあるでしょ」


 手で触ってみると、確かに弾力のある、風船のような手触りの見えない何かがある。恐る恐るカッターで触れてみると、やはり風船のように切れて空気が抜けた。脚も同じく拘束を解く。自由になった手足を軽く振りながら、葵川は立ち上がった。意外に背が高く、笑っているような目には真剣な光があった。


「ありがとう、助かった。後はあの子らを追わないと。できたら、職員の人とかに声をかけてもらっていいかな。社長からも電話が行くとは思うんだけど……。ああ、この名刺見せて」


 トカノ社の名刺を手渡される。受け取り、こくりとうなずいた。


「えっと、どう言えばいいですか」


病者ペイシェントの暴走事故が発生するかもしれない、特殊警備プロが状況を把握してるから、現場には接近しないで、ただ他の人が近づかないようにはしてほしい」


「現場?」


「うん」


 葵川は道の先、重機が遠く見えるあたりを見やった。


「今からじきはっきりするけど……。多分、一番来そうなのはあそこだ。研究棟の工事現場」




 月乃は走る。ただ走る。肩には葵川の小さな蝙蝠を乗せて、ヒールのあるサンダルなんて履いて来なければ良かった、と思いながら。普段は好きな無駄に広いキャンパスが、この時ばかりは恨めしく感じる。


 SME発症者の暴走には、一度接したことがある。彼女の兄、一人の件だ。


 家を出てコンビニエンスストアで働いていた彼は、ある日店内で発生した暴力沙汰に巻き込まれ、被害者の少年を庇って。聞いた時は訳がわからなかったし、今でもよくわからない。事件は高校生だった月乃が混乱をしている間に両親やら警察やら保健センターやらが動いてどうにかし、兄は罪には問われなかったが……病院で会った時には、別人になっていた。


 何と言われたか正確には覚えていない。とにかく暗黒騎士とやらのつもりらしい一人は月乃のことを覚えていない様子で、拘束され、ただひたすらに何か罵倒をわめき散らしていた。


 あんなのかずくんじゃない、と月乃は耳を塞ごうとし、そして気づいた。自分の殻に閉じこもりがちな兄とは、もう一年以上まともに口を利いていなかったことに。


 『本当のかずくん』がどんな人間なのか、月乃は全く把握できていなかったのだ。


 強い妄想を発症していますが、あれも本人の一面なんです。完治が望めない以上、受け入れてあげるしかない、と医者は言う。両親は泣いていた。多分、厄介な息子を持ってしまった自分たちのために。


 なら。結局その後、急に大人しく『普通に』なってしまった兄を見て、月乃は思った。なら、誰かがかずくんのその面を見てあげないと駄目じゃない。お父さんお母さんがちゃんと大事にしてあげないなら、私が受け入れてあげないと駄目じゃない。一度失敗したなら、やり直さないといけないんじゃないの。


 家族ってそういうものなんじゃないの?


 はあ、と人のいない道で息をつく。普段講義を受けている看護学科の建物はすぐだ。教務課はそこからさらにもう少し。じきだ。足は痛いが、まだ走れる。


 やがて進路調査があって、月乃は少し考えてから国立神ヶ谷医科大学看護学科を第一志望にした。家から近いからね、などと友人には話したが、なんのことはない。ちゃんと見てあげたかったのだ。兄を……そして、世界中のあちこちにいるはずの、兄の仲間たちを。


 今暴走を起こすかもしれないという、小さな子供。彼らだってそうだ。絶対に見過ごすわけにはいかない。どんな形でも、助けてあげないといけない。関わった以上、自分がちゃんとやらなきゃいけない。


 斉藤月乃は止まらない。確かに目的を果たすまでは、きっと、ずっとどこまでも。


 教務課の建物のドアを押す。息も絶え絶え、汗まみれの月乃は、驚いた顔で近寄って来た職員にどうにか名刺を手渡した。

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