第7章 黒曜の竜は天空に吼え
第1話 葵川肇
逃げ出した義弟の弘樹はホテルの部屋のベッドの上で大人しく座っていて、拍子抜けするくらいにすぐ見つかった。相変わらず無表情な仮面の下で、自分でもよく理解できない感情を持て余している、そんな雰囲気だった。正樹が近寄って顔を覗き込むと、そこでようやく前を向く。
「ばたばたしちゃってごめんね。なんか埋め合わせするからさ」
「別に気にしてない」
「してるくせによく言うよ」
「してない」
ぱち、と小さな音が弾けて、肇の指にほんの微かな痛みをもたらした。弘樹の力、電流を操る能力は、本人が機嫌を損ねた時こうして小さな形で発露することがある。意識すれば短時間機械を制御することができるらしく、買ってもらったおもちゃのドローンを、手を差し伸べるだけで動かす様を見せてもらった。でも、ゲーム機をハックするのは卑怯だからだめ、だそうだ。
「今日はどこ行く? 後でなんか甘い物でも食べる? アイスとかどうかな」
ちょうど同僚のリーゼロッテから送られてきたアドバイスをそのまま使わせてもらう。弘樹はもそもそとベッドから立ち上がった。
「アイスはいい」
「アイス食べたい」
正樹と意見がぶつかって、む、と見つめ合う。よく似た双子だが、いつでも意見が一致しているわけではない。ほんの少し顔立ちに差異があるように、考え方、感じ方にはそれぞれの個性がある。肇はまだ正確にそれらを把握できているわけではないから、じっくりと観察する。
(あの子たち、どうも気になって。違いすぎるんです)
昨晩、双子を部屋へと連れて行った後、
(違いすぎる、というと)
(ひびの入り方……傷つき方が。そりゃ違う人間だから全然違う形にはなりますけど、まだ子供で、双子で同じ環境にいて、ここまで差が出るかなって思ったんです)
正樹には、首の辺りを中心に大きな、折れそうなほどのひびが入っていたという。他にもあちこち年齢にしては浅く傷を持っているが、それでも両親を事故で亡くしているのなら十分あり得ることだと戸叶は言う。感情表現を取り戻した後で心が砕けないよう、しっかりとケアをする必要がある、というのは戸叶と総一郎、双方同意するところだった。
(問題は弘樹くんの方です。弘樹くんと似た深いひび割れの他に、全身あちこちにひびが広がっている。浅いですけど、だから傷ついていないというわけじゃない。あたしの経験からすると、普段慢性的な負荷がかかっている場合に起こりがちな形です。そして)
ここ、と彼女は右のこめかみの辺りを指差した。
(この辺り。かなり大きく……割れて、えぐれたみたいになっていました)
(……首も、頭も、両親の直接の死因です。エアバッグが上手く作動しなかった。その記憶ではないですか)
(そうかもしれない。あの子たち、家庭環境はどういった……?)
(ごく普通の、共働きの家です。両親は忙しかったようですが、家庭でも学校でも、特に大きな問題があったとは聞いていません。本人たちからも。……ただ、気になりますね。ゆっくり話して確かめてみないと)
肇は淡々とアイスの話をする双子を見つめる。こんな小さな子供にも、SMEの症状は表れる。普段はそれほど表には出てこないが、正樹は兄の弘樹に極度に依存しているという。弘樹の方は……。
「アイスはいいから、外に行きたい」
弘樹がぽつりとつぶやいた。
「お、リクエスト? どこら辺がいいかな。森林公園くらいならバスで行けるよ」
「お父さんのお仕事のところ」
「病院? 父さん、今はきっと忙しいから会うのは無理だよ」
ううん、と首を振る。
「大学の方。広くて面白かった」
「面白かった」
正樹が声を重ねる。ね、と顔を見合わせる様は、先ほどよりはよほど元気のようだ。
「あそこは遊び場じゃないんだよ。夏休みでも勉強してる人がいるから……」
「芝生の広場があったよ。ごはん食べたり、遊んでる人がいた」
「小さい子も来てた。近所の人だって」
「……しょうがないなあ」
やった、と双子は両手でハイタッチをする。それから、ひそひそと何やら耳打ちを始めた。肇は肩をすくめる。まあ、機嫌が直ってくれるのなら安いものだ。神ヶ谷医大は敷地内の緑地を地域の住民にも開放している。双子には勝手に他所の建物に入らないくらいの分別はあるから、迷子にさえさせなければ問題はなかろうと、そう考えたのだ。その時は。
やけに青い空が広がっていた。肇は双子と手を繋ぎながら、バス停からの並木道を歩く。夏休み時期なので人気は少ない。正樹も弘樹もすっかり普段の様子に戻っていて、あの木は
少しは懐いてくれたろうか、と思う。こうやって他愛ない話を何度も積み上げて、そうしていずれ自然に家族になっていくのだろうか。彼自身の経験が極端すぎて、よくわからない。
「肇さん」
弘樹が彼の名を呼ぶ。まだお兄ちゃんとか、そういう呼び方はしてもらえていない。
「お父さん、これから毎日お仕事するんだよね。……今日みたいに」
「今日はちょっと特例だし、毎日ってわけじゃないよ」
総一郎からは、今日は急患の件も含めてしばらくかかるかもしれない、双子を頼む、との連絡が来ていた。元々総合病院の方で何か打ち合わせがある日だったから、それはまあ仕方のないことだ。
「でも、忙しくなるでしょ」
「そしたら、あんまり遊べなくなっちゃう」
肇は足を止めた。十四年前の自分がそこに立っているようで、少しだけ目まいがした。
「……そうだよね。寂しいよねえ」
あの時大声で泣いた小さな子供は、今こうしてどうにか大人になって折り合いをつけているけれど、双子にとってはそれはきっと気が遠くなるほど未来のことだ。納得できなくても無理はない。きっと今日の騒動で、今のようにのんびりと暮らしてはいられないのだと意識してしまったのだろう。学校が始まればまた違うのだろうが。
「あの建物が出来たら、もっと忙しくなっちゃう」
弘樹が並木の向こうを指差す。遠くにショベルカーのシルエットが見えた。旧研究棟は取り壊しが終わり、今は跡地に骨組みを作っているところらしい。
「まだ先だし、それまでは……」
「だから」
ぱち、と何かが小さく弾ける音がした。肇はびくりと身体を硬直させる。——自分の意志ではない。反射的な動きのように、身体の、筋肉の動きが瞬間的に突然止まったのだ。
「やめようって言ってくる」
次にやって来たのは、背中をどすんと押される感覚だった。感触としては、大きなゴムボートに殴られたような。肇はそのまま地面に倒れ伏す。手首同士、足首同士を何かで縛られる感触がして、枷を嵌められたように動かなくなった。首を巡らせても、そこには何もない。だが、確かに拘束されている。
「……正樹、これ、君の……!」
脇目も振らずに駆けていく弘樹の背中が遠ざかる。正樹は少し迷ったように肇を振り返り、それでもまたぱたぱたと双子の兄についていった。
動きを止めたのはおそらく弘樹の電気。生体に微弱な電流を流して筋肉の動きを一瞬だけ操った。
彼を押し倒し、縛り付けているのは正樹の空気の壁。クッションとして使ったところしか見たことはなかったが、形を工夫することもできるようだ。無理に暴れても破壊はできない。
(まずい。まずいぞ、これは……)
砂利の感触を振り払い、どうにか起き上がりながら考える。まずは、迷っている場合ではない。彼らには暴走の危険性がある。携帯端末はポケットの中で、取り出すには少し骨が折れそうだ。ならば。
葵川肇は自由な口から息を吐く。その透明な空気は形を取り、数匹の蝙蝠の姿になってひらひらと空へと飛んでいく。
そのまま社へと飛ばすのは距離が長く、途中で壊れる危険があった。だから、誰か人を探す。音を辿り、声で呼びかける。
葵川肇は蝙蝠だ。音を吸い込み、吐き出して生きる。
誰か、と念じる思いを乗せて、透明の端末は青い空へと舞い上がった。
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