第4話 暗黒騎士とアイスクリーム

 義弟を追いかけていった葵川から、無事弘樹を部屋で見つけた、少しへそを曲げているけど大丈夫、とのメッセージが送られてくる。暗黒騎士とリーゼロッテはほっと顔を見合わせた。まだ幼い年頃だ。家族に置いていかれて、それで追いかけた先に皆が楽しそうにしているのだから、拗ねることくらいあるだろう。しかも、あの年で事故で両親を亡くしてSMEを発症したと聞いた。ちょっとした行き違いが重いストレスとなることはあり得ることだ。


「ちゃんとフォローしてあげてくださいね、って言っておきます。そうだ、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様は、お菓子は何が食べたいですか?」


「……え、ご、極寒の地の氷嵐ブリザードの如き冷気を放つ蜜菓子などを所望したい」


「アイスとか買ってあげるのがおすすめですよ、と。ありがとうございます」


「……あ、今食べるわけじゃないんだ……」


 暗黒騎士がほんの少し残念そうな顔をしたので、ホテルを出た後にふたりでコンビニに立ち寄りアイスを買った。暗黒騎士はチョコレート味のアイスバー、リーゼロッテはバニラ味のアイスモナカ。流れ的にリーゼロッテがまとめて支払おうとしたのだが、暗黒騎士は頑として受け取らなかった。


 空はびっくりするほど青くて、蝉の声がじりじりと当たり前のように響いている。コンビニの外に立ち、ひんやりとした甘みを舌で味わって、溶けないように、でもゆっくりと少しずつ食べた。対決するとは決めても、まっすぐ部屋に戻るのは少しだけ怖かった。


「平日の朝からアイスなんて、すごく変な気分です」


 買い食いは昔一度、父親にとても叱られて、部屋に戻って泣いて、しばらくしたら優しい声で呼ばれた。机の上には父の会社のお菓子がたくさん積んであって、ちゃんと家のお菓子を食べればそれでいいんだよと言われた。以来、リーゼロッテは家を出るまで二度と外で買い食いをしていない。それが、今では勝手に自分の給料で好きな物を買って、勝手に好きなだけ食べている。量と栄養バランスにはざっと気をつけているし、疲れていない時は自炊をしているが、それだけ。それだけだ。


「なんだか、悪い人になったみたい」


 それだけのことが、時々こうして昔の重石のようにのしかかる。教えられた正しさが、夏の熱い空気のように自分を取り囲んでいるような気がする。騎士になりたい。全てを振り払う強さが欲しい。


「邪法の下に生まれし暗黒騎士の眷属が、善悪を語るか。そなたもまだ人界に未練の心があると見える」


 チョコレート色のアイスがまだ残った棒を剣のようにかざし、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードは見栄を切った。


「良いか。我は生まれながらの邪悪、そなたはそれと知りながら魂を黒炎の炉にべる呪われし運命さだめを自ら掴み取った娘よ」


 すごい、まだ新しい設定が出てきた。リーゼロッテは最後のモナカの欠片を頬張りながら、自分でも少しも知らなかった驚愕の運命さだめに目を見張る。


「言わば我らが征きし道は全て罪の茨道。世の摂理に背きし大罪人が今更斯様かような小罪に涙を流すなど、未熟も未熟。片腹痛いわ」


 そんなことは気にしないでいい、好きにすればいいと、何度も言ってくれた言葉だ。リーゼロッテは感謝の気持ちで頭を下げた。


「仰せのままに。暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様」


「……恐れることはない」


 溶けて垂れそうになったアイスを急いで食べてから、暗黒騎士は少し声を和らげる。


「我が先に立つ。そなたの道を塞ぐ枝を払おう。そなたはその後を……」


 暗黒騎士はそこで突如として口をつぐんだ。何か考え込みながら首を傾げている。


「……いや、これ違うな……。今のなしで……。ええと、恐れることはない」


 こほん、と気を取り直したような顔で暗黒騎士は、また同じ言葉を繰り返した。彼の妄想はいつも真摯で、時にフレキシブルだ。


「我が共に在る。そなたのすぐに」


 『はずれ』と書かれた棒を掲げ、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードは眩しげに目を細めた。リーゼロッテは、目には見えない鎧兜を心の中で幻視する。いつだって暗黒騎士は、彼女の一番欲しい言葉をくれた。父親とは違う、でも確かなもうひとつの言葉を。


「はい。隣にいます。きっと一緒です。暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様」


 彼が自分を認めてくれることが、ただ嬉しかった。ふたりで進む。ふたりで戦うのだと思った。


「あなたのもうひとつの剣になれたら、きっと嬉しいです」


「相変わらず、大それた望みを持つ娘よ。だが、その意気や良し」


 『はずれ』の棒は空を斬る。見えない不安の喉首を搔き斬るような鋭さで。そして、暗黒騎士はぴたりと前を見据えた。


「さすれば、行き先はただひとつ。煌星城こうせいじょうレファルシアードの封印されし告解こっかいの間!」


「それ、うちのことですか?」


 リーゼロッテのマンションは『エトワール上瑞野』という名で、部屋はエレベーターで昇って五階にある。元の名前もかわいらしくて好きだが、レファルシアードもなかなか高貴な響きがある。少し怖気づいた彼女の足を、前に進ませてくれる力のある名前だった。リーゼロッテはうなずく。大丈夫、何も怖くない。


「行きましょう。暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様。あ、ゴミはこの袋に入れてくださいね。後で捨てますから」


「うむ」


 ふたりは歩き出す。蝉の声が雨のように降り注ぐ中を、ゆっくりと、煌星の城に向けて。




 廊下に漂う百合の香りと、見事に咲いた花はそのままだった。ぐっと重たくなる気持ちを抑えながら、リーゼロッテは家の鍵を取り出す。


「華は、何か変じた様子はないか」


「いえ。多分置いてある場所とかも同じだと思います……あれっ」


 ふと、扉の隙間に昨日は気づかなかったものを見つけた。二つ折りにして挟まれた薄い紙だ。手紙か何かだったらどうしよう、と構えながら取り出すが、それは手書きの事務的な用紙のようだった。


「……お届け状、だそうです」


 品目と、日時と、簡単なサインと、それから知らない会社の名前と連絡先。罫線と会社に関わる部分以外は、一般的な配送会社の物のように印刷されてはいない。そもそも、そういった会社は届け先の玄関に荷物を放置したりはしないはずだ。


「えっと、つまり、多分父が直接ここに来て花を置いていったわけではなさそう、ということですよね……」


 ほうっ、と息を吐くついでに、床にしゃがみ込みたくなる。涙も出てきそうだった。


「便利屋の類に依頼をしたという体であろうな」


「良かった……」


 拒否されないようなやり方を選んで押し付ける、そのやり口は到底許容しがたかったが、ともかく本人がわざわざ訪れた可能性は減った。リーゼロッテはミントグリーンの扉に寄りかかって、そして首を左右に振った。まだ安心はできない。


「あの、念のために中も一緒に見てもらえますか……?」


「当然であろう。そのために我は来たれり。さあ、その高貴なる血をもって封印を解き放つが良い」


 血ではなく鍵でもって扉は開かれる。暗黒騎士の背中越しにそっと覗くが、部屋の中には人の気配はない。玄関先の靴もリーゼロッテのパンプスとサンダルがいつものようにきちんと並んでいるだけだ。


「大丈夫、でしょうか」


「踏み込むぞ」


 中へとそっと足を踏み入れ――あちこちを見回す。何もない。小綺麗に片付いた1DKのひとり部屋。人を呼ぶつもりはなかったので多少物はあるが、それでもまあ恥ずかしいというほどではない。いや、机の上に月乃に教えてもらった雑誌のヨガ特集のページが開いたままで乗っているのは少し恥ずかしいが、とにかく非常事態なので良しとする。窓から差し込む陽がきらきらと、棚の上に飾ったガラスの置物に虹色の光をきらめかせていた。


「……無事、か」


「はい……」


 今度こそ、へたり込みそうになって椅子の背を掴んだ。良かった。彼女の告解の間は平穏だ。誰にも踏み入れられていない。念のために他の部屋も見たが、誰かに使われていた気配はなかった。百合はかわいそうだが、後でどうにか処分すれば良い。さすがに盗聴器だのが仕込まれていることはないとは思うが、とにかく目に入るところには置きたくなかった。取り急ぎ、戸叶とかの社長には簡単に無事だった旨をメッセージで送っておく。


「ありがとうございます。お騒がせしてすみません」


「構わぬ。我らが血塗られし契約には、忠義には守護をもってあたるべしと記されしが故に」


 座ってください、と雑誌を閉じながら椅子を示すと、暗黒騎士は遠慮がちに腰掛けた。そしてなんだか落ち着かない様子で、あちこちに視線を泳がせている。自分が魔城ヴァルガラールを訪れた時も、こんな風だったのかと少しおかしくなる。そういえば、生活が落ち着いてから人を家に呼んだのは初めてのような気もした。


 からからと氷の音を鳴らして、冷蔵庫の水出し紅茶を注いで出した。暗黒騎士はびっくりしたような顔でそれを飲んで、花の匂いがする、とつぶやいた。時計はまだ昼のうんと手前で、冷房が部屋を涼しく冷やす。


 外の百合のことさえ思い出さなければ、とても幸せな時間だと思った。


「そなたはずいぶんと書物を読むのだな」


 机の上に三冊ほど置かれていた文庫本をちらりと見て、暗黒騎士が言う。


「はい。小説とか、エッセイを読むのが好きです」


 暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様は、と聞こうとして、あの物のない部屋を思い出す。読書趣味がある、という雰囲気ではなかったように思う。音楽は好きらしいが。そういえば、ショッピングモールではCDを買い求めていたようだが、部屋にそういった物は置いてあっただろうか。リーゼロッテは内心首をひねる。


「趣き深きものであるか、書物というのは」


「はい、面白いですよ。そこの本は先日読み終わりましたが、一番上のミステリーがとても良かったです」


「我はあまりこの手の物をたしなまぬが……。ああ、この人、名前だけは知ってる……」


 人気作家の名前と、表紙のどこかほんわかとしたタッチの絵をぼんやりと見つめている。気になっているのだろうか。リーゼロッテは少し、月乃と遊びに行った時のようにお節介な気持ちがうずうずとするのを感じた。


「あの、それ、お読みになりますか?」


「えっ?」


 裏返った声が返ってきた。


「面白かったんです、すごく! それで、誰かとお話がしたくて。読みやすいと思いますし、短編集でシリーズ物でもないですし、良かったら、ぜひ。月乃さんや結さんはあまり本を読まないみたいなので……」


 いつにない早口に、暗黒騎士の視線は表紙とリーゼロッテの顔の間を三回ほど往復した。そうして、何か決意したかのような顔でそっと本を手に取る。


「……か、借りる……」


「ありがとうございます!」


 嬉しかった。賭けではあるが、もしかしたら暗黒騎士とひとつ世界が共有できるかもしれない。


「……読むの、遅いと思うけど……」


「私はもう読みましたし。あっ、でも合わなかったら早めに言ってくださいね」


 暗黒騎士が何か口を開こうとしたその時だった。机の上に置かれた携帯端末が音を立てて震えた。トカノ社からの着信だった。先ほど連絡はしたから、また別件だろう。リーゼロッテは端末を手に取って通話に出る。


「もしもし?」


『もしもし、リーゼちゃん。戸叶です。斉藤くんもいる? 今体調とか大丈夫かな、本当に申し訳ないんだけど、緊急事態』


 はっと背筋が伸びた。通話をスピーカーモードにして、暗黒騎士とふたりで耳をそばだてる。


『できたらすぐに神ヶ谷医大付近に向かってほしいの。葵川くんから連絡が来て……あの双子の子達が、急に逃げ出した、暴走しているかもしれない、って』

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