第3話 暗黒騎士とエマージェンシー

(小夜、そんなに走ると転んでしまうよ)


(叔母ちゃんたちに会うのが楽しみなのよね)


(お父さんと手を繋ごう、ほら)


(ふふ、みんなで一緒に行きましょうね)




 少し懐かしい夢を見たが、起きた時には半ば忘れてしまっていた。アラームで目が覚めたリーゼロッテは、いつもと違うベッドの感じに不思議な気持ちになり、それから前の日のことを思い出す。スッキリと肩の力が抜けた気持ちと、まだ未解決の重たい思いが同時にあった。


 汗で張り付いたホテルの寝間着を脱いで、軽くシャワーを浴びる。元々ずいぶん白い彼女の肌は部分的に外回りで日焼けして、健康的な血色になっていた。


 身体を拭きながら鏡を見る。肩より短い黒髪。自分で選んだ髪型。歳よりは幼く見える、まつ毛の長い大きな瞳が彼女を見つめ返した。顔つきや目の光は、昔の生気のないお人形のような少女からかなり変わった気がする。今のリーゼロッテには、少々のことでは曲がらない強い意志がある、と思いたい。


 一年のトレーニングと四ヶ月の実務。華奢な腕や脚にも少し体力がついたし、少食だった実家時代よりは多少は女らしい体型になったと思う。拒絶で食べられない物が増えた代わりに、新しい好きな物だってたくさんできた。何よりちゃんと食べないと仕事についていけない。リーゼロッテはどうにか自分の足で歩き始めていて、自分の顔と身体が好きで、それでいいと思った。いつかひび割れも、金色に変わる時が来る。


 夜の夢に見た、遠い父母との団欒の思い出。記憶の中の白い母の顔は、少し前までの彼女にそっくりだった。だから父は彼女を庇護しようとあんなに躍起になっているのだと、薄々感じていたことがはっきりと形になった気がした。


 あの父親が愛娘の中に見ているのは、彼女の亡き母親の残影だ。鈴堂小夜自身ではない。


 新品の動きやすい服に身を包むと、何もかもが新しくなったようで気持ちが高揚した。その心で、嫌な物全てを跳ね返してやると思った。


 キーホルダーと自転車の鍵を掴む。いつかきっと騎士になる。それは、いつだって勇気をもって誰よりも格好良く戦う人のことだ。半分は自棄やけ、もう半分は地に足のついた勇ましさで、リーゼロッテ・フェルメールは外へと飛び出した。




 朝食を済ませ、荷物をまとめてフロントに出る。チェックアウトの時間よりは少し早い。いくつか並んだ柔らかいソファに腰掛けていると、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードがいつものTシャツにジーンズ姿で自動ドアから姿を現した。ぐるりと視線を一巡りさせたところでリーゼロッテを見つけ、足早に近寄ってくる。


「話は聞いた。大事ないか」


「はい。昨日はこちらでゆっくり過ごせました」


 立ち上がり、水色のリボンをつけたキーホルダーを揺らして見せると、相手ははにかむような、困ったような、飴玉を口の中で転がしている時のような表情を浮かべる。


「わざわざありがとうございます。多分何もないと思うんですが……」


「侍女の危機であるからな。存分に我に頼るが良い」


 胸を張る暗黒騎士はいかにも頼もしく、さっそく部屋を見に行こうとフロントの机に向かう。そろそろチェックアウトに立ち寄る人や、その辺りの壁に寄りかかって人待ち顔の人がちらほらいるようだった。その時、背後から声がした。


「あっ、いた! 良かった良かった。リーゼちゃん、ちょっといいかな」


「暗黒騎士だ」


 昨日に続き私服姿の葵川肇が手を振りながら近づいてくる。左手は、黒いTシャツを着た双子の片方に握られていた。今日はもう片方は近くにはいないようだ。ふたりの傍まで来ると、葵川はこんなことを言う。


「おはようふたりとも。さっきこの子がドアに指挟んじゃってさ。怪我は大したことないけど、痛そうだから治してあげられないかなって」


「大丈夫ですか、弘樹くん」


「正樹です」


 しゃがみ込んで心配すると、慣れた様子であっさりと名前を訂正される。ごめんなさい、と手を合わせて謝った。戸叶とかの社長によれば全然違うらしいが、リーゼロッテにはまだ見分けをつけるには時間がいりそうだ。


 最初に会った時、車を止めたふたつの力。空気の壁と、機械自体に働きかける能力。どちらがどちらの力だったかも教えられたのだが、それも曖昧になってしまった。また覚えないといけない。


「別に平気なのに」


「治せるなら治した方がいいでしょうが」


 言い合いながら見せられた左手は、人差し指のところに赤黒い痣ができていた。触ると痛そうにするが、骨などに影響はないようだ。内出血止まりだろう。


「ちょっと待ってね……」


 ゆっくりと力を注ぎ込む。少し熱を持った指が、さらにふわりと温かくなった。小さな怪我だから、こんなもので十分のはずだ。


「はい、終わり。しばらくしたら痛みも引くと思います」


「ありがとう」


 小さな手を、不思議そうに明かりに透かして見る。急速に痣が消えることはないが、痛みはやがて引くだろう。


「いやあ、忙しい時にごめんね。助かったよ」


「いいお兄さんですね」


 どうかねえ、と片目をつむる。


「ごっこ遊びみたいな感じで、正直よくわかんないよ」


「遊びも、きっとそのうち本当になるんじゃないでしょうか」


 正樹は暗黒騎士に手を見せて、薄くなった?などと尋ねているようだった。暗黒騎士も律儀に軽くしゃがんで手を見てやっている。


「我が侍女の秘められし力は確かなるものであるがゆえ、しばし待つが良いぞ」


「しばしってどれくらい?」


「ご……五分……とか、十五分、とか……?」


 暗黒騎士に巻き込まれた遊びみたいな毎日は、少しずつ現実感を増して、本物になって、時には嫌なこともあるけど、でもずっと楽しいままだ。急ごしらえの葵川家だって、きっとそのうちしっかりとした形になるといいと思う。


「早く治るとこが見たい……あれっ」


 正樹が首を傾げる。何かを気にしているようだ。


「何事か。さては宵闇に紛れ忍び寄りし魔の足音を聞いたな」


「よい……? あの人がね」


 指差す先を、暗黒騎士、リーゼロッテと葵川も見やる。そこにはクリーム色の大理石風の壁に寄りかかる男性がひとりいた。


「ちょっと具合悪そう」


 よく見ると男性は、かなり不自然な姿勢で立っている。上半身全てを壁にぺたりとつけ、体重を預けているようだった。


「ソファは空いてますし……声をかけてこちらにお呼びします?」


「それよりは、ホテルの人に言った方が、!」


 ずるり、と横に滑るように男性の姿勢が崩れる。無防備な体勢で床に倒れようとしたその身体が、突然ぽん、とわずかに弾んで宙に浮いた。


 怪訝に思い周囲を見ると、正樹が両手を前に突き出し、口をへの字に曲げていた。ああ、こちらがあの空気の壁を作った方か、とリーゼロッテは気づく。思いながら男性目がけ走る。以前車を止めた壁と同じようなものが、今は倒れた男性をクッションのように受け止めているのだと思った。


「大丈夫ですか」


 しゃがみ込んで、暗黒騎士とふたりでそっと男性の身体を床に横たえる。クッションは弾力があり柔らかだが、いつ消えるか知れない危険があった。倒れた男性は顔色は悪いが意識ははっきりしているようで、弱々しくうなずく。


「ホテルの人に言っといた。ついでに、専門外かもだけど医者がいるよって話もしたよ」


 葵川がやって来る。やがて周囲はざわざわと騒がしくなり、従業員が数人駆けつけた。遅れて部屋にいたらしい葵川総一郎も姿を見せる。穏やかそうな男性だったが、病人を相手にした姿はてきぱきとして、なるほどお医者さんって格好いいなあ、とリーゼロッテはしみじみ思った。


 横目でちらりと見る。葵川と正樹が、なんだか同じような顔をしていた。ショッピングモールで八重樫の息子が見せたのも似た顔だった気がする。「お父さんはすごい」の顔だ。状況が切迫していなければ、少し面白くて笑ってしまったかもしれない。


 うらやましさと苦々しさは少しある。でも、非常事態だ。まずは、男性の容体が第一。やがて救急車のサイレン音が聞こえてきて、救急隊員が駆け込んできた。男性は担架に乗せられる。総一郎は急いだ様子で葵川に駆け寄った。


「もしかすると、こちらの専門症状かもしれない。病院に付き添ってくる」


「了解。行ってらっしゃい」


 そのまま総一郎は担架と共にホテルの外へと消えた。辺りは朝食後の人が増えてざわついてはいるが、従業員が軽く説明をし、徐々に落ち着いてきたようだった。


「さて」


 葵川がくるりとフロントの方へと向き直った。


「まずは偉かったね、正樹」


 そしてぽん、と義弟の小さな頭に手を乗せる。


「そうです。よく見つけてくれました」


「そなたの技と手際もまた見事であったぞ。誇るが良い」


 正樹はぽかんとしたような無表情で褒める三人を見上げる。二度、三度瞬きをして、そうして微かに、絡まった糸がするりと解けるようなあどけない笑みを見せた。


 初めて見る笑顔だな、とリーゼロッテは思う。まだ表情は固いが、少し照れている様子なのがかわいらしい。こういう顔ができる子なのだな、とほっとするところもある。


「おっ、笑った笑った。いいよね、笑うと人にかわいがられやすいから、世渡りが楽だよ。覚えておきなさい」


「いちいち狡賢い言い方をするでない」


「実体験からのアドバイスだしねえ」


 その場はにこやかな空気になって、それで終わりだと思った。


 だが、リーゼロッテは少し離れたところにふと、小さな人影を見つける。その人影は、嬉しそうな顔の正樹とよく似ていた。しかし表情はまるで違う。無感情な色の目に、寂しさと敵意すら宿していた。ぞっとするほどの温度の低さ。


 三条弘樹がそこに、たった独りで立っていた。


「しまった」


 暗黒騎士と葵川は、人混みに紛れた弘樹の姿を見て同時につぶやき、正樹を連れて足早に近づこうとする。が、その前に弘樹は身を翻し、ぱたぱたとエレベーターホールまで走り去ってしまう。


 残されたリーゼロッテはぽかんとその様子を見つめていた。義兄に手を引かれた正樹の幼い横顔は、どこか苦悩と迷いの色に染まっているようだった。

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