第6章 暗黒騎士、険しき道を征く

第1話 暗黒騎士とゴールデンジョイナリー

 少し光量を抑えた明かりの下、リーゼロッテは柔らかな布張りのソファにうつむいて腰掛けていた。手の中にはもらったばかりのキーホルダー。握り締めた手がカタカタと震えた。


「お水、飲む?」


 透明なグラスを手渡される。受け取ると氷がからりと音を立て、指先から冷気が伝わってくる。そこからほんの少しだけ、ひやりと冷静になれるような気がした。


「まあ、落ち着くまでゆっくりしてなね。無理はしないでいいからさ」


「ありがとうございます」


 小さな声でお礼を言う。それでも先ほどまでの取り乱しようからすると、だいぶ気分が楽になったような気がした。


「従業員のケアも上司の務めだからね。……頼ってもらえてよかった」


 軽くしゃがんで、でも肩を直接触れはせず、ぽんぽんと空気を叩くようにする。それだけでもなんとなく体温は伝わった。シックなダークブラウンの家具でまとめられた、ただところどころに衣類が雑に置かれているこの部屋の主、戸叶とかのまゆみは、リーゼロッテを力づけるように眼鏡越しの笑みを浮かべた。


 父親からの突然の誕生日プレゼントに驚き、傷ついたリーゼロッテは、混乱した気持ちのまま連絡先を探した。こんな時に頼れる相手は、トカノ特殊業務社の社長である戸叶くらいしか思い浮かばなかった。瑞野での彼女の自立に関わる一番の恩人だ。


 電話口では切れ切れで意味の取れない説明しかできなかったが、切実な何かが起こったことはわかってくれたようで、一度帰宅済みのところをすぐに駅前まで車で迎えに来てくれた。今ふたりは戸叶の住む、この土地にしては都会的な雰囲気のマンションの一室にいる。


「今日はどう? 家に帰れそう?」


 無言で首を横に振る。百合の香りの結界が、彼女を阻んでいるような気がした。戸叶はうなずく。


「そうだね。もしかしたら、ってこともあるし。……正直ね。警察を呼んだ方がいいように思うんだけど」


「警察……」


「そう。家庭内のことだからって流されるかもしれないけど、不審物があって、不審者がいるかもしれないなら警察に見てもらうのが一番確かだと思うよ」


 リーゼロッテは黙り込む。そして、まだ自分にそこまでの覚悟ができていなかったことに気づく。もし仮にあのドアの向こうにいたとして、父親を不審者として通報する勇気。自分の手で傷つけることはできたくせに、そこまではどうしても踏み切れなかった。黙ったまま、下を向く。


「まあね。その辺はリーゼちゃんの考え方次第だから、嫌なら今回はやめとくけど」


 戸叶は目を細める。そして、少し照れくさそうな顔になって言った。


「あのね。あたしは……会社の皆は家族みたいなものだと思ってるわけ」


「家族、ですか」


「そう。『迷惑ばっかりかけてる』とかそんなこと思ってるでしょ」


 下を向き通しのリーゼロッテに、戸叶は構わず続ける。


「気にしなくていいんだよ。家族なんだから……ってまあ葵川くんには『それちょっと古くないですか?』とか言われたけどさ」


 戸叶は案外物真似が上手く、葵川のどこか軽い言い回しを見事に再現して見せた。緊張した心にわずかに微笑みが揺れる。それを見て戸叶は、うん、と満足げにうなずいた。


「言い方を変えると、こういう事業をやる以上、ある程度のリスクは折り込み済みなわけね。多少のトラブルがあってもどうにかなるように回してくのがあたしの仕事。わかる?」


「わかります……」


 冷えた水を口にする。喉の中に小さな川が流れていくようだった。それは、淀んだ何かを少しずつ溶かして流してくれる。


「家族」


 繰り返す。彼女にとって一番の重荷になっている存在。暗黒騎士は折り合いに困っていて、八重樫はどうやら円満。葵川はおそらく一度亡くして、再び別に築き上げたのだろう。結は過去に家を捨てて、今現在新しい相手を探している。そして戸叶は、従業員が家族みたいなものだと言う。


 様々な形。様々な関係。それでも、生まれた家とは別の家族という可能性は、リーゼロッテの視界に映る小さな光だった。


「あたしは、個人の事情はちゃんとはわかってあげられないけどさ。家族って新しく作ることだってできるんだからね」


 ま、自分は失敗してるんだけど、と苦笑する。離婚歴がある、というのは以前少し聞いたことがある。かなり前の話のようで、口調はもうあまり気にはしていない様子だった。実際はどうあれ。


「似たことを結さんも言ってました」


 勝手に言って良かっただろうか、と口を滑らせてから思う。だが、戸叶はさらりと答えた。


「ああ、結ちゃんにも昔そんなことを言ったかもね。あの子も付き合い長いから」


 結が求めて止まないように、リーゼロッテもいつか、新しい、自分で選んだ家族が欲しくなることがあるのだろうか、と目を伏せる。まだわからない。でも、多分結の背中を押したのは戸叶の言葉で、巡り巡ってそれが今リーゼロッテの中に光としてあるのは不思議なことだと思った。


「社長のご両親はどんな方だったか、お聞きしてもいいですか」


「あたし? まあ、普通の田舎のおじちゃんおばちゃんだよ。今も元気。仲は悪くはないけど、ケンカもそれなりにしたかなあ。……発症も離婚も起業も、受け入れてくれたのはありがたいけどね」


 水を飲み干す。戸叶が立ち上がって少し腰を伸ばした。


「いろいろなんですね」


「いろいろだね」


 落ち着いた色の照明が、ふと戸叶の目をちかりと一瞬、変わった色に浮かび上がらせた。黒縁眼鏡の奥の彼女の瞳。人の心の傷をひび割れとして見通すことのできる視線。


「前に、私はひびだらけだって言ってましたよね」


「前はね。でも、帰ってきた時はずいぶん塞がってたみたいだった。あんなにひどくても治るものなんだって、少し嬉しかったかな」


「今はどうですか。また——」


 目が細められる。心を見抜かれるのは少し怖かった。でも、必要なことだ。リーゼロッテは少しずつ気力を取り戻しつつあった。前は秘密を隠そうとして失敗して、大変な結果になった。だから、ちゃんと話そう、ちゃんと知ろうとそう思った。自分の心のことを把握できなければ、何も始まらない。


「またあちこち浅くひび割れてる、けど、そうね。胸のここんところに大きめの穴があって、そこからひびが出来てる感じかな」


 戸叶が自分の左胸を指で示す。リーゼロッテも自分の柔らかな胸の上、鎖骨の下を手で押さえた。なんとなく場所はどこかわかる気がした。一年と少し前、彼女が父親を自らの手で刺した、その傷の位置だ。


「一度塞がっても、衝撃があると同じところにひびが入りやすいみたいなんだよね」


「一生、そんな感じですか」


 そうねえ、と戸叶は首を傾げる。そうして、ちょっと待ってね、と言い残してぱたぱたと台所へと入り、何かを持ってまた戻ってきた。


 それは一枚の上等そうな白い皿で、端の方に一筋、鈍い金色に光る線がアクセントのように入っていた。


「昔落として割っちゃって、気に入ってたから金継ぎをしてもらったんだ。綺麗でしょ。破片があればある程度ならどうにかなるんだって」


 リーゼロッテはまじまじと皿を見つめる。金の傷は、まるで初めからそこにあったワンポイントのようにしっくりきていた。


「ひび割れなんて誰にでもあって、でもやりようによってはこんなに格好良く見せることもできるのね。視点を変えれば、そのひびはきっとどこにもない、たったひとつの素敵な模様になる」


「私のひびも?」


「そう。きっとね」


 こんなことしか言えないけど、とすまなそうにされる。リーゼロッテは首を横に振った。みんな身体に、心にひびを刻みながら、ただひとつの模様を作り上げて生きている。それはいかにも美しい想像で、既に傷ついた彼女にとってひとつの福音だった。


「……お話して、良かったです」


 握り締めていた右手をようやく開く。歩のキーホルダーは手のぬくもりで少し温まって、優しくころりと収まっていた。


「明日、出社は遅くていいから、明るくなってから斉藤くんあたりとお家の様子を見に行くといいかもね」


「はい」


「本当はここに泊められたらいいんだけど、うちお客用の布団がないんだよね……。駅前のホテルに行くのがいいかな。お金は気にしないでいいから」


 リーゼロッテは身を乗り出す。


「いけません、ちゃんとお支払いします」


「ああ、いいのいいの。あたしの趣味は若い子を構うことだからさあ。あれだったら、ちょっと肩凝り治してくれない? もうバキバキ言ってて」


「怪我ではないので治せません」


「じゃあ肩揉みでいいや。よろしく」


 目の前が軽くにじんだ。立ち上がって、回り込んで、少し背の高い戸叶の肩に手をやる。やけくそのように親指に力を入れる。


「社長、これ! 肩凝りすぎです」


「あー、その辺その辺、ナイス」


「ちゃんと普段からストレッチとかして……元気でいてください。私、社長のこといつも頼りにしてるんですから」


「ほんと? わー嬉しい。ふふ、頑張ってみるものだねえ」


 戸叶は背中を向けているから、きっとリーゼロッテの顔は見えない。半分泣きべそをかいている顔なんて、見せられない。心のひびも、見えてはいないことだろう。それが今どんな色をしているのか、リーゼロッテには知るすべはない。ただ。


「……ありがとうございます」


 声が少し涙に詰まったのは、聞かれてしまったかもしれない。

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