第5話 暗黒騎士とエバーアフター
飛び出してきた茨の勢いは先ほどよりも激しく、皆の手足はすぐに掻き傷だらけになった。暗黒騎士が斬りつけた枝の一本をリーゼロッテは素早く掴み、力を発動する。流れる生命力を抑え、傷によるダメージを増す。
呪わしい思い出にまつわる力だが、それでも依頼者を、仲間を助けることができるなら何度でも振るおう。彼女は念じる。鞭のようにしなる枝の勢いが弱まる。二本、三本と手のひらが朱に染まるのも構わず掴んでは繰り返す。
「出てってって言ったのに!」
枝と枝が絡みつく。強度を増した枝を、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードの剣は受け止め、また斬り裂く。繭のように日奈子を包んでいた茨は、いつの間にか広がって二重三重の檻のように彼女を守っていた。檻の中で彼女は顔を歪め、吠えるように叫ぶ。叫ぶたびに部屋の中あちらこちらには、艶やかな白に薄桃色の縁取りの花が咲いた。
「荒井さん、説得をお願いします!」
リーゼロッテが声をかけるが、荒井は——茨の勢いに、鬼気迫る表情の妻に恐れをなしたかのように、動けずにいるようだった。
「ほら」
日奈子は自嘲するように笑った。
「やっぱり私のこと、嫌いになったんだ」
え?と荒井が目を瞬く。日奈子の瞳は、透明な涙に揺れていた。
「仕方ないよね。当たり前だよね。怖いもんね。私だってこんなの大嫌い。だから、いいよ。出てって」
滝のような勢いで、茨の雨が降り注いだ。暗黒騎士はリーゼロッテの腕を掴み、剣をかざしながら後ろへと下がる。結は——反対だった。荒井を引きずるようにして、その強い脚力で前へと踏み込んだ。
「荒井さん!」
結は叫ぶ。何か、言葉にできないもどかしさを抱えたような顔で、それでも真剣な声で叫ぶ。
「話して。まだ間に合うから。あんたにしかできないの、これは!」
荒井は、その言葉にぎゅっと目を閉じた。顔を背け、唇を噛み、そして。
棘だらけの檻に向けてその身を投げ出すように飛び込み、茨ごと妻を抱き締めた。
「な」
さすがの狂った瞳も、驚愕に揺れる。棘は荒井のスーツをずたずたに引き裂き、愛おしげに笑う口元を、頬を、額を傷つけていった。
「何やってるの、俊ちゃん……」
見る間に檻が崩れ、ベッドの上へと雪崩のように茨が落ちていく。同時に、天井や壁の枝々も力を失い、動きを止めては床に転がった。
「ダメだよ。私、おかしくなって、ひどいことをして、それで……出てって。近寄っちゃダメ」
荒井の腕は、今や妻の身体をしっかりとかき抱いていた。半分葉の落ちた薔薇の鉢植えを抱えた日奈子は、その腕の中で虚ろにつぶやいた。やがて、頰に涙が流れると共にその目には光が戻る。
「……ごめんなさい、ごめんなさい」
掻き傷だらけの三人は、ほっと息を吐く。日奈子の表情から、少しずつ狂気の熱が消えていくのをじっと眺めながら。
「ご迷惑をおかけしました」
荒井日奈子は気持ちを落ち着けると、すぐに三人に頭を下げた。
「……引っ越しが近くなって、なんだかつらくなってしまって。片付けは進まないし、薔薇の運び方を考えないといけないし、ちゃんと一緒に暮らしていけるかとか、あちらのご両親と仲良くできるかとかいろいろ考えているうちに、すごくイライラしてしまって、俊ちゃんにも当たってしまって。それで、気がついたら茨が身体に絡みついていたんです」
その時、もうそんな自分だとか、自分の力だとか、全てが嫌になってしまったのだという。変わりたくない。このままでいたい。閉じこもって眠っていたい。嫌な自分を見られたくない。そういう気持ちだったのだろうか、とリーゼロッテは推察する。ほんの少しわかる気がしたのは、狂化の記憶のせいだろう。
でも、荒井はそんな棘ごと妻を受け入れた。
なんだかドラマか何かのようで、リーゼロッテは少し鼻がつんとなってしまった。他のふたりを見ると暗黒騎士は優しげな顔をしているし、結は意外にも目を軽くこすっている。普段の威勢から思うよりずっと、感受性が強い、いい人なのだな、と改めて感じた。昨日の失恋の記憶が、まだ色濃いのかもしれない。
「しかし、貴君の勇気は讃えられるべき振る舞いであった。よくぞ身を捨て想いに殉じたものよ」
暗黒騎士の感嘆の言葉に、荒井は少し照れた顔で頭を掻く。
「あれは、能力を使ったんです」
『背中を押す力』。リーゼロッテはアイスの例えを思い出す。
「錦木さんに助けられて、自分で自分に喝を入れて、それでようやくあそこまで無理ができました。……この力、偏見を持たれることが多いから、わりといい思いしたことなくて……。でも、いざという時は役に立つんですね」
『本人が心から望んでいることでないと、さすがに』
それでも、あれは荒井が本当にやりたかったことで、そうして彼はやり遂げたのだ。本当に守らねばならないものを、その手で掴み取った。
「心から貴君を賞賛しよう」
暗黒騎士が繰り返した言葉に、リーゼロッテは全面的に賛成だった。
それから事後処理を行い、管理人への詫び、警察や保健センターへの報告などを済ませる。傷は多かったがいずれも浅いものだったため、治癒の力のおかげで終わる頃にはほぼ塞がっていた。三人とも服はボロボロだったので取り急ぎ安い衣類を買って着込み、力を使いすぎたせいで起きたひどい空腹をどうにかするため、帰社前に近くのハンバーガーショップで腹ごしらえをさせてもらう。
「でも、よく考えたらおふたりとも自分の能力に、自己嫌悪みたいなものを持たれてたんですね」
「まあ、みんな多かれ少なかれそういうのはあるでしょ。……斉藤は知らんけど」
リーゼロッテの言葉に、結がフライドポテトをつまみながらうなずく。
「我が暗黒瘴気剣ドラグザルディムカイザーは無類の力であり友であるからして嫌悪など以ての外」
「その辺の行き違いも解決できそう……なんじゃないかな。見た感じね」
暗黒騎士の言葉はさらりと流され、結は少し目を細める。荒井は薔薇の花を妻の長い髪に飾り、綺麗だ、と笑っていた。日奈子は、それでも結婚を決めたのは自分の意志だから、と夫の手を握り締めていた。
「やっぱりさあ、ああいう……お互いをちゃんと大事にする、みたいなの。そういうのいいよね」
しみじみとした声は、それでもどこか明るさを秘めていた。リーゼロッテはチーズバーガーを咀嚼しながらこくこくとうなずく。結が少し前向きな元気を取り戻した様子なのが、なんとも嬉しかった。
荒井夫妻は、今後もいくつも困難に出遭うかもしれない。まずは狂化に対する指導を受けるわけだから、結婚生活が予定通りいかないことも出てくるだろう。それでも、暴力だけに拠らず事態を収束できたことは喜ばしいと思う。
「私さ、次はああいうの目指す。信頼関係っていうの? 何かやらかしても、ちゃんと解決して進んでいけるようなやつ。もうちょい頑張ってみる」
「結さんならきっといい方が見つかると思います。本当ですよ」
ふたりの乙女は笑みを交わす。
「そう、あれは百を超える年を遡りし頃、嵐のデラルゾヴォルグ大海峡を船で渡りし折、我はこの」
「……斉藤、まだなんか言ってたの?」
「ごめんなさい、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様! 今のはちゃんと聞いていませんでした!」
手を合わせると、暗黒騎士はしょんぼりと肩を落とし、もういい……と力なくつぶやいた。
帰社し報告を終え、そうしてリーゼロッテは冷房の効いた社内から、まだ熱の冷めぬ外へと出ていく。自転車置き場へと歩く間にも汗が吹き出そうだ。刺すようにまぶしい西陽に目を細め、ソラちゃんの鍵を取り出した。
波乱万丈の一日だった。誕生日にこんなにいろいろなことがあったのは初めてではないだろうか。去年はちょうど指導と勉強漬けだった記憶があるし。
誕生日。
ふと思い出し、後ろを振り返る。そういえば、暗黒騎士が何か言おうとしていたような気がする。多分、多分だがあれは彼女の誕生日に関する言葉だったのではなかろうか。そして、ポケットを気にしていた。もしかすると。
小走りの足音が聞こえる、と見る間に暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードが自転車置き場へと駆け込んできた。頬には絆創膏が貼ってあるが、もう傷は癒えている頃だろう。
「リーゼロッテ! そなたに語るべき言の葉と……手渡すべき財宝がある。聞くが良い」
夕陽に照らされほっとした顔で、暗黒騎士はそう告げた。リーゼロッテはなんだか厳粛な気持ちになって次の言葉を待つ。
心臓が、変にどきどきと高鳴っているのを感じた。
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