第2話 暗黒騎士とスイートホーム
『コーポみらい』はあまり未来的な雰囲気ではなく、築二十年、といった趣の小さなアパートだった。
外階段の下に暗黒騎士の自転車……愛馬ザラドルーグが停まっているので、そのまま帰宅していたらしい。良かった、と思いながら隣にソラちゃんを停め、薄汚れた郵便受けを見て名前を探した。さすがに暗黒騎士とは書いておらず、『斉藤』と表記がある。二〇三号室。二階目がけて階段を登った。かんかんかん、と音が響くので、少しどきどきする。
廊下はあまり掃除がされておらず、砂埃がざらざらと散っている。二〇三号室のインターホンを鳴らし、反応を待った。中から足音がする。はい、と声がして、チェーンをかけたままのドアが開いた。
「……え」
細く開いた隙間から、いかにも意外そうな顔の暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードが顔を覗かせていた。
「あ、あの、突然失礼します。落し物を届けに来たんです」
鞄から携帯端末を取り出す。暗黒騎士はポケットを探り、はっとした顔になった。
「あ、あ、ああ……。落としてた……」
手が伸びてきて、端末を受け取って確かめる。確かに本人のもののようで、リーゼロッテは少しほっとした。
「冥府の荒れ果てた道を遠く旅して参ったのか」
「はい。あの、お知り合いから連絡が来ていたようなので。すみません、ちょっとだけ見えてしまいました」
そんなに荒れ果ててもいない、むしろ緑の多い気持ちのいい道だったのだが、それは置いておく。背後で、誰かがかんかん、と早足に階段を登っている音がした。
「連絡? ああ、左様か……リ」
リーゼロッテ、と名を呼ぼうとしたのだろうが、その瞬間、暗黒騎士が突然固まった。口を水揚げされた魚のようにぱくぱくとさせ、それからゆるゆるとどうにか持ち直す。
「り……り、
本名? 暗黒騎士に本名を呼ばれたことは、数えるほどしかない。だいたい、他の人がいて、何か『ちゃんと』しなければならない時ばかりだ。そういえば、暗黒騎士の目は泳ぐように彼女の背後を見ている。
「あ、タイミング悪かった……?」
若い女の声に振り向くと、そこには茶色く染めた短い髪の女の子が立っていた。涼しげな膝上のスカートに、華奢なサンダル。薄くメイクもしている。
『月乃:今から行くね』
多分、あのメッセージの送り主だ。
「いや、ほんとごめん、かずくん! 渡すやつ置いたらすぐ帰るから!」
「え、あの、すみません。私の用はもう終わったので、その」
あたふたとふたりで騒いでいると、暗黒騎士……斉藤は少しキャパオーバーなんだけどな、というような顔でチェーンを外した。
「……ふたりとも、入って。ここ、結構外の音が中に聞こえるから」
「いえ、私は……」
「あ、どうぞどうぞ入ってください! 私すぐ帰っちゃいますから!」
推定『月乃さん』にぐい、と背中を押された。仕方がないのでリーゼロッテは、二〇三号室……魔城ヴァルガラールの狭い玄関にそっと足を踏み入れた。
中はあまり広くない1Kの部屋で、片付いているというよりは物が少ない。全体的に暗い色の無地のインテリアばかりで、本棚の代わりにカラーボックスが置かれ、箪笥ではなく衣装ケースが積んであった。
そして意外に思えるほど、暗黒要素がない。ファンタジーものらしき漫画がやや多めなくらいだろうか。趣味の少ない若い男の人の部屋、という感じだ。
リーゼロッテと『月乃さん』が通されたローテーブルの前に座ると、斉藤は台所で小さめの冷蔵庫を開けた。
「……麦茶しかないけど」
「お構いなく……」
「私ほんともう帰るからいいよ?」
「うるさい」
今まで聞いたこともないような口調で斉藤は『月乃さん』をあしらう。そこには妙な気安さがあるような気もした。
変な緊張感がぴんと張り詰めた中、マグカップと透明のグラスに入れられた麦茶がテーブルに置かれた。斉藤は少し不機嫌そうな顔のままどかりと腰掛けると、困ったように頭を掻いた。
「……妹」
『月乃さん』を示して、彼はぽつりとそれだけ言った。
「あ、斉藤月乃です。すいません、なんかお邪魔しちゃって」
ぴょこんと茶色い頭が下げられた。明るくて元気そうな……なんというか、すごく普通のかわいい女の子だ。リーゼロッテと同じくらいの年頃だろう。目元の二重の感じが、言われれば斉藤によく似ている。リーゼロッテも衝撃冷めやらぬままに会釈をする。
妹、そう、妹。暗黒騎士に妹がいたって、何もおかしいことはない。なんだかとても不思議な気分だが、ともあれ妹なのだ。
「で、同僚の……鈴堂さん。携帯を落としたから届けてくれた」
「あ、あの、いつもお兄さんにはお世話になっています」
「……多分勘違いをしてると思うけど、その、彼女とかじゃないから」
斉藤に釘を刺され、えー、と月乃は声を上げる。なんだか少し残念そうだ。そこそこ兄妹仲は良さそうだし、妹本人も悪い子ではなさそう、というのがざっくりとした印象だった。
ただ。リーゼロッテは不思議に思う。妹さん、暗黒騎士の……妄想の件は知っているのかしら。
「なんだあ。お母さんに報告しようと思ったのに」
「なんで」
「かずくん、全然浮いた話ないから心配してるんだよ。まあ、会社にお友達がいたってだけでも喜ぶと思うけどさ」
「別に、親喜ばせたくて友達作ってるわけでもないし……」
なんだか、違和感があった。今日の斉藤はやけに喋る……『普通に』喋る。暗黒騎士モードとも、普段のぼそぼそした喋り方とも違う。どこにでもいそうな、少し内気なお兄さん、という塩梅だ。家族を前にしているからだろうか。でも。
「かずくん大丈夫ですか? ちゃんとお仕事できてます?」
月乃は少し疑わしげにそう尋ねてくる。
「えっと、はい。みんなすごくお兄さんを頼りにしてるんですよ」
これは本当なので、はっきりと答えておいた。荒事に巻き込まれた時には、暗黒騎士の剣ほど頼れるものはないのだ。
「なんか未だに信じられないんですよね、特殊警備とか。昔、私が公園でいじめられた時なんですけど。かずくんがこっち来るから、喧嘩でもするのかと思ったら、手を引っ張ってダッシュで逃げ出すんだもん」
「なんでそんなどうでもいいこと覚えてるんだよ」
四歳違い、と聞いた。例えば九歳と五歳とかの頃だろうか。そんな小さな頃の思い出を共有している相手がいるのは、一人っ子のリーゼロッテには少しうらやましい。
「……そっちはちゃんと勉強してるの」
「してますー。今日だって講義に出て、試験勉強して、さらに配達までするんだから働き者だよね」
「月乃があそこの大学に入るって知ってたら、家、ここにしなかった……」
「まあいいじゃん。で、これこれ。お母さんから。まあ……いつものだけどさ」
紙袋を取り出す。中からは、紙箱がいくつか。見覚えがあった。健康食品の類だ。
ネットの口コミで広まった、SMEの症状に効くと噂の。
「……うん」
斉藤は、ほんの少し引きつったような笑顔でそれを受け取った。
「……ありがとう」
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