第3話 暗黒騎士とトワイライト

 月乃はほんの少しだけ眉を動かしたが、何も言わずに立ち上がった。


「じゃ、私帰るね。本当、お邪魔しちゃってごめんね」


「……鈴堂さんも」


 斉藤は健康食品の箱を傍に置き、妙にまっすぐにリーゼロッテを見た。


「外が暗くなる前に、帰った方がいい。この辺、最近不審者が出たりもしたから」


 その顔は、なんだかすごく気を張っていて、つらそうに思えた。少し残って話をしたい気持ちもあったが、きっとひとりになりたいのだろう。多分、客人がいる間はずっと、この人は楽にはなれない。


 外に出て、階段を降りながら、リーゼロッテはずっと考えていた。この家は、魔城ヴァルガラールとして紹介されたかったな、と。あの何もない空間も、きっと暗黒騎士の言葉の魔法で、薄暗い、石造りの堅固な城塞に見えてきたのに違いないのだ。鈴堂さん、と他人行儀に呼ばれるのは少し寂しかった。自分がまだまだ客人扱いなのも。侍女なのに。


 リーゼロッテが階段の陰に停めていた自転車の鍵を開けていると、あ、と月乃が立ち止まった。


「チャリで来てたんですか。あー……」


 ちょっと考える様子を見せてから、うん、と彼女はうなずく。


「あの、ちょっと押して歩いてもらってもいいですか」


「え?」


 話がしたいんです、と真剣な顔で月乃は言う。マスカラで縁取られたその目には生き生きと光があったけれど、やはりどこか彼女の兄とよく似ていた。




「あの、ぶっちゃけるんですけど。かずくん、めっちゃ無理してますよね」


 夕暮れの近い、少しだけ冷えた歩道を歩き出してすぐに、月乃はそう切り出してきた。リーゼロッテは心臓がさっと冷えるような気持ちになる。斉藤は、明らかに暗黒騎士の顔を家族には押し隠していた。それを自分が明かしてしまうことは、許されるのだろうか。


「えっと、どう言えばいいかな……。かずくん、前はあんな話さなかったんですよ。本当にずっと黙ってて……で、急に家出てって、病気になって、少しその、不安定になって、落ち着いたと思ったらああいう風に……なっちゃって」


 身振り手振りを織り交ぜながら、月乃は一生懸命に語る。


「あのクッキーもそうなんですけど……あれ、効かないでしょ? 治るなんておかしいし」


 看護学科、と言っていた。だとすれば、SMEの病状や、療法についてある程度知っていてもおかしくはないだろう。


「……保健センターから今日、健康食品の誇大広告に気をつけるよう通達が来てました」


 うんうん、と月乃はうなずく。SMEは長期の療養とストレス源からの隔離により寛解……症状や能力が一時的に弱く抑えられるようにはなるとされている。だが、またストレスに晒され続ければ再発の危険性はある。投薬やカウンセリングは対症療法でしかなく、根本的な治療法はまだ見つかってはいない。食品で完治するはずがないのだ。


「私もそう言ってるんですけど、お母さんが聞かなくて。それはいいんだけど、かずくんまでおかげで良くなった、みたいなこと言ってて。そんなはずないんですよ。だって、いっつもきつそうだし……実家には帰って来ないし」


 『ひったくりに注意』と破れた張り紙が貼られた電柱の前で、月乃は立ち止まる。風で、並木がざわざわと揺れた。


「お仕事の時、どうですか。なんか言ってませんでしたか。まさか、もっと悪くなりそうだったりしてませんか」


 ええと、と何からどう話すか迷いに迷う。大丈夫ですよ、お兄さんはいつも元気に暗黒騎士として、ダンボールの剣で地域の皆さんを守っています。あ、私はその忠実な侍女です、だなんて、ふたりの大事な誇りは、きっと他人には理解の範疇外だろう。


「あの、確かにお兄さん、今日はいつもより大変そうでした。でも、普段はもっと自然にしてますから大丈夫だと思います。検査も受けてるみたいですし」


 そんなことくらいしか言えない。月乃は目を伏せた。


「……ならいいんですけど」


「仲が良いんですね」


 ずいぶん心配している様子に、少し安心する。斉藤は家族とあまり折り合いが良くないのかと思っていたが、少なくとも妹とはそれほどでもないのかもしれない。リーゼロッテの荷物のことでつらそうにしていたのは、多分母親からの健康食品の話を重ねていたのだろう。


 ふたりとも、似た悩みを抱えていたのだな、と思うと、少し皮肉で面白かった。


「……そう見えます?」


 だが月乃は初めて、少しだけ薄暗い陰を帯びた顔になった。


「そんなでもないんですよ。……なかったんです。病気する前は本当に全然かずくん、家族とも喋らなくて、友達もいなくて。私も、お父さんやお母さんも困ってたけど放っておいてたんです。家を出てから、倒れたり暴れたりするくらい大変なことになってたってわかって初めて、みんなやっとまともな家族のふりを始めたんですよね」


 ゆっくりとまた歩き出しながら、もっと早くちゃんとしてれば良かったのかな、と振り返るように語る。その様子を見ると、それでもやはり月乃は、兄との関係を大事にしたいと考えているように思えた。


「暴れたんですか」


「ちょっとね。よくわかんないこと、いっぱいわーって喋って……すぐ治まりましたけど。おかげでお父さんとお母さん、まだ怖がってるんです」


 リーゼロッテは少し黙って思いを巡らせ、そして心を決めた。


「私、一度ひどく暴走をしてしまったことがあります」


 月乃の目が瞬いた。


「あ、そっか。鈴堂さんも病者ペイシェントなんですもんね」


「ええ。でも、その時はあ……お兄さんが助けてくれて」


 一年と少し前のこと。思い返すと、今でも胸が熱くなる。つらく、苦しく……でも温かい、大切な思い出だ。


「最初に会った時もそうでした。斉藤くんは、ずっと私のことを守ってくれて……だから、ええと、すごく優しくて強い人なんだと、そう思っています。それは多分、病気をしたからではなくて、前からずっとそうだったんじゃないかって。だから難しいことかもしれないけど、見守ってもらえるといいな、と」


 おかしな話だな、と思う。月乃の話からすると、斉藤は病気になって、暗黒騎士になって、初めてまっすぐに人と話せるようになったようだった。リーゼロッテだってそうだ。SMEになった影響で、父親の支配を脱して外に逃げ出すことができるようになったのだ。


 発症して良かった、とはとても言えない。嫌なことだってたくさんある。暴走した時はたくさん人に迷惑をかけたし、拒絶癖は時折厄介な反応を起こし、食べられなくなったものや行けなくなった道がいくつかある。他の人たちだって苦労はたくさんあるだろう。自分は良くても、外からの差別もある。


 でも、それでも病を抱え、彼女らはどうにか生きている。


病者私たち病者私たちなりに、ちゃんとやっているんです」


 月乃がすん、と鼻を鳴らして何か言おうとした。少しは伝わったろうか、と思ったその瞬間だった。


 どん、と道を走ってきた男が月乃の背を突き飛ばし、鞄をひったくった。月乃はバランスを崩して大きくよろけ、路面にごろりと転がる。痛、とうめき声。リーゼロッテは瞬間、自転車で追いかけるべきか、月乃を助け起こすべきか逡巡し、結局月乃の方に駆け寄った。その間に男は遠ざかっていく。しまった、警察、いやその前に治癒を、と混乱しながらも脚を押さえる月乃に肩を貸す。


 次に、ごう、と黒い風が彼女の横の車道を通り過ぎた。


 それは、黒いクロスバイクに……否。漆黒の愛馬ザラドルーグに騎乗した暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードで、ギアをめちゃめちゃに上げたのだろう。物凄いスピードで男を追いかけ、追いつき、先回りすると車体を蹴倒すような勢いで下車し、鞄を抱えた男に体当たりをする。


「……かずくん?」


 脚をひねったらしく、よろよろと立ち上がった月乃がつぶやく。暗黒騎士はしばらくもみ合うと、どうにか相手を取り押さえたようだった。月乃がひとりで立てそうなのを確かめると、リーゼロッテも警察に電話をかけながら駆け寄る。


「不遜の者めが。その思い上がりを恥じよ」


 腕をねじり上げながら高らかに叫ぶ。その時、彼の周りには確かに不吉な夜が渦巻いていた。


「この暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードの名に連なる者を害そうなどとは、百の年月としつきを経ても許されぬ烙印を背負うことと知れ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る