第2話 暗黒騎士とサイクルショップ
駅前の『サイクルショップイワセ』は二階建てで、外には安価なシティサイクル類がセール品として並べられていた。リーゼロッテがしげしげとそれらの色やかごの大きさなどを比べていると、葵川が手招く。
「ああ、その辺よりもうちょい上を見た方がいいよ」
「上ですか」
二階を見上げると、そうじゃなくて、と笑われる。
「この辺なら補助金の範囲で安く買えるけどさ、どうせならある程度いいものも見てみた方が良くない?ってこと」
なるほど、と思う。そもそも、自転車というものの相場がいくらくらいなのか、リーゼロッテはよくわかっていない。
「例えばですよ、お客さん。こっちのロードバイクなら軽量で持ち運びも楽々、何より速度はばっちり……」
「上にも程があろう。我が侍女にむやみなものを勧めるでない」
壁に飾られた中から、やたらと細いタイヤのスタイリッシュな自転車を突然セールスし出した葵川に、暗黒騎士が珍しく割り込む。
「我らが目的は伝令にあらず、あくまで
「あれ、ヴァルちゃんはもっとごついやつが好き? そしたらこっちかなあ……」
売り場を移動しながらちらりと値札を見る。ゼロが五つ並んだ数字に軽く目を見張ってしまった。独り暮らしを始めてから、これまでのリーゼロッテの金銭感覚は一般より少し浮世離れしていたらしい、と思い知ることが多かったのだが、それにしてもこの自転車が高価なものだということはよくわかった。
風のように走るのは格好いいけれど、自分向きではないかもしれない、と見送ることにする。リーゼロッテは、マウンテンバイクの前で何やらやり合っているふたりを追いかけた。
なぜか詳しい葵川による
「ああ、リーゼちゃん。この辺とかおすすめだよ。どうぞどうぞ」
折りたたみ自転車を興味深げに見ていた葵川が、かわいらしい色合いのクロスバイクの並びを指差す。あ、見た目好きなものが多いな、といそいそとそちらを見に行った。
「……あのさ。さっきの、気にした?」
少し考え込むような顔で、葵川は言う。
「何がですか?」
「や、いきなりめっちゃ高いやつを勧めたところね。僕、思いつくとすぐいろいろ言っちゃうからさあ」
首を傾げる。何か問題だったろうか、と少し考え、そして思い至った。葵川は、彼女の家の話をしているのだと。
リーゼロッテ——鈴堂小夜の実家は、かなり大手の食品会社だ。主に菓子を生産しており、まあ、家も裕福な部類に入るだろう。彼女は家を出てひとりで暮らしてはいるが、引越しの際には実質的な保護者である叔母経由で実家からの援助をある程度貰っている。
不甲斐ないことだ、とは思うが、まあそれはそれだ。目的は最終的な自立。負債は後から返せば良い。
葵川は多分、そんなリーゼロッテの微妙な心理を軽く踏みつけるようなことを言ってしまったのではないかと、気にしているのだろう。言うなれば、家がお金持ちなんだから、これくらい買ってもらえるんじゃないの?なんて意地悪なニュアンスを受け取られていないか、心配しているのだ。
「別に全然気にしてませんよ」
心から思っていることを伝える。そんなひねくれた受け取り方をするような子だと思われている方が心外だ。だが、葵川は時折、彼女に対しては似合わない遠慮をすることがある。
ずっと気にしているのだろう。一年前、リーゼロッテを傷つけたことを。彼女の暴走と……狂化を招いてしまったことを。
周囲を傷つけた彼女の過ち。それは誰のせいでもない、自分自身の未熟のせいなのだと思っている。思い出すとまだちくちくと胸が痛いが、それでも過去だ。
リーゼロッテは目を上げ、まっすぐに相手の顔を見た。
「ならいいんだけどね」
葵川は眉を八の字にして笑うと、ちょうど階段を登ってきた暗黒騎士に片手を上げてまた別のコーナーを眺め出した。
軽い自家中毒を起こしているような人だな、と思う。頭が回りすぎるのかもしれない。そのうちいつでも普通に、遠慮なしに話せたらいいんだけど、と思う。それから——今朝届いた荷物のことを、思い出してしまう。少し苦い思いを噛み締めながら、リーゼロッテはしばらく上の空で自転車を眺めていた。
ややあって、ひょいと顔を上げる。すぐ横のコーナーで、暗黒騎士が微かな声で唸ったのが聞こえたからだ。
「どうかなさいましたか、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様」
近寄ると、暗黒騎士はうむ、とうなずくが、その目は一台の自転車を見つめている。視線を追ったリーゼロッテは、ああ、なるほど、と思った。
フレームは落ち着いたつや消しの黒。いくつか見てきたクロスバイクの中では、少しがっしりとした印象だろうか。ハンドルやタイヤも太さがあり、そのくせ重たそうな感じは受けない。
格好いい自転車だな、と思った。いかにも暗黒騎士が好きそうだ。当人は主に値札を見つめ、頭の中でいろいろと計算をしているようだった。下のロードバイクのように驚くほどの高価ではないが、それでも多少勇気のいる値段ではある。
「素敵ですね」
「……うん……」
かなり悩んでいるのだろう。暗黒騎士モードが剥げてしまい、素の無口な『斉藤くん』になってしまっている。
「貯金……少し下ろして……ううん……」
「あっ、お客さんお目が高い!」
葵川が首を突っ込んできて、これは中くらいのモデルで、でもこのレベルがこの価格帯で買えるのはなかなかお得なのだとかいうことを、なぜか店員顔負けの接客でとうとうと述べ出す。素を突かれた暗黒騎士は目を白黒させながらその弁舌を聞いていた。元来は気が弱い方なのだ。
目の端に、ふと澄んだ水色が目に入る。雨が晴れた後の空のようなそのフレームの色に、リーゼロッテは引き寄せられた。
結局軽く試乗をして、不思議なくらいに軽い車体に驚いて、少し悩んで。リーゼロッテは水色の、暗黒騎士はあの黒のクロスバイク、葵川はなんだかずいぶん車輪の小さい折りたたみ自転車を買った。聞くと、前から欲しくて下調べをしていたのだという。それで別のジャンルにまでやたらと詳しくなっていたのがどうにもおかしくて、この人らしいと思う。
「自分ひとりだと、気になってもいくつも買ってらんないじゃん。だから今日は買い物欲が発散できて良かったよ」
「私たちは身代わりですか……」
まさか自分の欲しい自転車を安く買うために、社長をそそのかしたのではあるまいな、などと少し思ってしまった。
暗黒騎士は店員が整備をしている間、ずっと下を向いて黙り込んでいた。少し無理のある買い物をして、落ち込んででもいるのではないかとリーゼロッテが心配していると、彼はやおらがばっと顔を上げる。
「……ザラドルーグ」
「え?」
「我が乗騎に名を授ける。地を割る蹄のザラドルーグ。暗黒騎士の愛馬に相応しき器よ」
ああ、それをずっと考えていたのか、とリーゼロッテはほっとして顔をほころばせた。と同時に、自分も何か真似をしたくなってくる。自転車というものはなんとなく生活の相棒という感じが強くて、とっておきの名前をつけたくなるのはよくわかる。
暗黒騎士の真似で、何か格好いい名前。それとも、自分で考えたかわいい名前。いろいろと考えたけどなかなか浮かばずに、リーゼロッテは課題を、頭の中の保留の箱にそっと入れておいた。
その日の昼は、三人で自転車を漕ぎながら帰った。葵川の折りたたみ自転車は車輪の径が小さいせいでよく遅れたし、逆に暗黒騎士のザラドルーグは先行しすぎて追いつけなかったりもした。
それでもその後ろ姿は、小石を蹴立てて力強く駆ける黒い不吉な馬上の騎士に見えて、後ろを行くリーゼロッテは、いつまでも追いかけていたくなったのだ。
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