暗黒騎士斉藤くんの家族カルテ

第1章 暗黒騎士、愛馬を駆る

第1話 暗黒騎士とタイムカード

 いつの間にかつむっていた目をおそるおそる開くと、フロントガラスは蜘蛛の巣のように無残にひび割れていた。ものすごい衝突音が、まだ耳の中に残っている気がする。


 飛び跳ねかけた身体は、シートベルトががっちりと掴まえている。そのせいで腹は痛かったが、大きな怪我はなさそうだ。横にいる、双子の弟の正樹が不安げにもぞもぞと動く。こちらも無事らしい。弘樹はほっとして前座席の両親に声を掛けた。


「お父さん、お母さん」


 返事はない。


「お父さん、お母さん?」


 返事はない。だらりと垂れ下がった腕が後ろから見えた。


 ふたりで顔を見合わせてシートベルトをぱちんと外す。外はだんだん騒がしくなる。ぐったりと動かない両親の顔を覗き込んだ瞬間。双子の記憶と意識は、同時に途切れた。




◆ ◆ ◆ ◆




 月曜の朝から荷物が届いたせいで、バスを一本逃してしまった。早足で歩いていたリーゼロッテ・フェルメールは、まぶしい陽の光にふう、と息を吐く。梅雨明けはまだのようだが、雨はめっきり少なくなった。朝とはいえ肌をじんわり焼くような暑さ。それでも微かな風が彼女のボブにした黒髪を揺らす。


 バス停から少しだけ歩いたところにある雑居ビル、その一階が彼女の職場だ。『トカノ特殊業務社』と書かれたガラス戸を開けると、中では数人の従業員が始業前の準備をしていた。


「おはよう、リーゼちゃん」


 奥の席の戸叶とかの社長、長い髪と眼鏡、スーツ姿の女性が笑いかけてくる。ぺこりとお辞儀を返した。


「おはようございます」


 壁の時計を見ると始業七分前。焦るほど遅くはなかったようだ。




 リーゼロッテ、というのは本名ではない。彼女は生まれも育ちも日本で、戸籍名を鈴堂小夜りんどうさよと言い、当然社会的には鈴堂の名を名乗って生きている。だが、以前家出をし、名を隠して暮らした時期の影響で、なんとなくずっと仕事関係ではリーゼロッテ、というおとぎ話めいた名前で呼ばれ続けているし、自分でもこの呼び名をとても気に入っていた。


 この職場——ストレス性変異脳症、SMEと呼ばれる病気を抱えた人々の営む、小さな会社が、リーゼロッテは心から好きだった。そして。


「そういや斉藤くん、今日はちょっと遅いね」


 始業時刻二分前の時計にちらりと戸叶社長が目をやった瞬間、ガラス戸が勢いよく開いた。


「……遅参、した! 我……我を乗せし運命さだめのうねりが、その途上にて、歩みを止めしがゆえに」


 飛び込んできたのは、額に汗を浮かべたまだ若い青年。無地のTシャツとよれたジーンズ姿で、肩で息をしている。


「バスが遅れてしまったそうです」


 リーゼロッテが通訳をすると、青年は少し嬉しそうに笑った。


「まあ、ギリギリ大丈夫だからとりあえずタイムカード押しなさいね」


 社長が促す通りに機械にカードを入れると、始業時刻ちょうどの刻印がされる。なんとなく自分のことのようにほっとして、リーゼロッテは青年にいつも通りあいさつをした。


「おはようございます。暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様」


「うむ。そなたも息災で何よりである、リーゼロッテ」


 彼女の自称あるじにして名付け親である青年、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード……本名、斉藤一人さいとうかずとは、大仰にうなずいて応える。


 先週も普通に会ったのに、君ら仲良しだよね、と社長が呆れた顔でつぶやいた。




 SMEは、過大なストレス負荷がかかることで脳機能の一部を変質させる病気だ。発症した患者——病者ペイシェントは概ね精神にいくらかの影響を受け、そして様々な形の特殊な能力を手に入れる。現代病として知られており、暴走した病者ペイシェントによる犯罪行為や外からの差別、社会復帰などに関して大きな問題にもなっているのが現状だ。


 戸叶社長もリーゼロッテも、そして暗黒騎士——斉藤一人もこの病を患っている。特に斉藤は『妄想型』と呼ばれるタイプで、自分を暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードと呼ばれるファンタジー世界の住人だと半ば思い込んでいた。


 リーゼロッテからすると、それを一様にただの夢想と片付けるのには抵抗があるのだが、世間的にはそう診断されている。とはいえ、彼はぼんやりした目の奥に妄想を抱えつつも、日々元気に地域の病者ペイシェントにまつわる様々な業務、特殊警備に勤しんでいる。


 およそ一年前、家出をしたリーゼロッテはこの職場に初めて足を踏み入れ、暗黒騎士と共に町内を駆け——そして間違いを犯し、それを正された。一年間のブランクからこの春に復帰し、ようやくまた仕事に慣れてきたところだ。山あいの地方都市・瑞野での時間は穏やかに過ぎていた。




「はい、そしたら今いる人にちょっと今後の連絡があります」


 戸叶が改まった声を出し、机上にタブレット端末を取り出した。画面にはターミナルである瑞野駅近辺の地図が表示されている。リーゼロッテ、暗黒騎士、営業の葵川が集まる。戸叶は地図を少し縮小し、二駅分ほどのエリアを見せた。


「ここが駅で、ここがうちの会社ね。で、ここに医大があります」


 瑞野駅から二駅離れた辺りに、大きく緑色に染まった地域がある。国立神ヶ谷医科大学瑞野キャンパス。リーゼロッテは足を踏み入れたことはないが、存在は知っていた。駅前によく学生らしき同年代の人を見かける。


 我が城の近辺であるな、と暗黒騎士がつぶやいた。そうなのか、と地図をじっと見る。この辺は学生向けの安めの賃貸が多くあったはずだ。城は多分ない。


「この医大に今度新しい研究棟が作られる予定なんだけど、そこにSME研究の偉い先生が来ることになってるのね。特に子供のケア関連では権威なわけ。付属病院の方でも診察をするようになるらしい——まあ、葵川くんはこの辺もう知ってるよね」


「そりゃ知ってますけど」


 いつも笑っているような目をした、二十代半ばの青年が軽く首を傾げる。葵川肇あおいがわはじめ。営業担当で、極度の知りたがりで調子が良すぎることを除けば社交的で話しやすい相手だ。


「この先生、専門が専門だからすごく人気なわけね。病者ペイシェントの子供がいる家族とかが、この辺に引っ越して来るケースが増えると思うのよ。というか、既に少し増えてるらしいの。ってことは、関連トラブルも増えると予想される」


「戦の兆しか」


「……戦闘状況になる可能性もなくはないね。避けたいけど、子供は暴走しやすいし」


 ふう、と息を吐いて戸叶は指で地図に円を描いた。リーゼロッテは以前世話をした時、感情に任せて襲撃をしてきた子供を思い出す。その後は元気に暮らしているそうだと話を聞き、ほっとしたものだが。


「そういうわけで、うちと医大と保健センターとで話して、パトロールとか訪問とかの範囲を広げることにしたのね。だから主に斉藤くんとリーゼちゃんの仕事が増えると思うの。まずは今週からざっと見回りをお願い」


「えっと、それって」


 今までのパトロール地域の倍ほどになるのではないか、と思う。何もない時の見回り自体はのんびりしたものだが、手が回るだろうか。


「うん、そのままだと絶対大変。手分けするとか、人を増やすのも考えてるけど、その前にちょっと案があってさ」


 戸叶は黒縁の眼鏡を軽く押し上げた。


「補助金を出すから、自転車買わない?」


「自転車、ですか」


「そうそう。もちろん乗れたらだけど。で、いっそ個人所有にするし、通勤とかにも使っていいってことにする。うちの建物、裏に自転車置き場あるんだけど、ずっと空いてるんだわ。大家さんに話もしたし。どう?」


 いいんじゃないですか、と葵川が楽しげに言う。リーゼロッテも、なんとなくわくわくする気持ちでうなずく。数年乗ってはいないが、少し練習すれば問題はないだろう。自室のあるアパートにも駐輪場があったはずだ。暗黒騎士だけが少しぼんやりとした顔で瞬きをしていた。


「……自転車……」


「そ。自転車。大丈夫? 斉藤くん自転車わかる?」


 そこまで曖昧ではないと思うのだが、彼は時折、現実世界と自分の世界の言葉のすり合わせに時間がかかることがある。


「……馬……」


「いや、自転車」


 戸叶の念押しを振り切るようにして、暗黒騎士は遅れて顔を輝かせた。


「なるほど。騎士たる者、それ相応の乗騎が必要であるな」


 大丈夫かな、と戸叶はリーゼロッテに心配そうな視線を投げかける。


「我が闘争に潰えぬ脚を持つ、逞しき荒馬を所望する。さすれば真の終焉の刻まで共に灰の大地を馳せることとなろう」


「はい。頑丈ないい子が見つかるといいですね、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様」


「リーゼちゃんの飲み込み力は本当にすごいよね……」


 戸叶は、そうだった、基本的にこの子暗黒言動肯定派だった、というような顔になる。


「社長、ばっちりです。駅前の大きめのサイクルショップ、ちょうど今セールしてます!」


「葵川くんもさあ、勝手に席に戻って検索してないで斉藤くん対策してよ!」


 もういいや、とりあえず今日はまず三人で自転車見に行って、と諦めた様子で戸叶は締めた。当の暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードは、ちらりとリーゼロッテを見る。


「晴れやかな顔であるな、リーゼロッテ」


「え? はい」


 どんな種類があるのかとか、どんな色がいいかとか。大きめの買い物をするのはとてもわくわくする。自立できた、という気がするからだ。


 それに、少し暑いけど、日差しの明るい良い季節だ。坂道の少ないこの街をあちこち走るのは、とても気持ちの良いことに思えた。


「私も、いい馬が見つかるといいなと思います。一緒に乗りましょうね」


「うむ」


 暗黒騎士が穏やかな顔でうなずくのがなんだか嬉しくて——リーゼロッテは、朝の荷物のことなどすっかり忘れてしまっていた。

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