終章 暗黒騎士、春に謳う

最終話 暗黒騎士の夢現回帰

 斉藤一人さいとうかずとの住む地域は、ターミナルの瑞野駅から私鉄でふたつ離れたところにある。アパートが古いせいもあり、中心部より家賃が安く、実家からは少し遠い。いつもであれば半分眠りながら鈍行列車に揺られていくのだが、今日は目を覚まして外の風景を眺めていた。窓の向こうには桜の木がちらほらと、淡い薄紅の花をこんもり咲かせている。


 次は瑞野、とアナウンスがかかる。立ち上がってリュックサックを背負った。中には肌身離さず持ち運んでいる『れんごくの書』と、何代目になるかわからない、ダンボールの暗黒瘴気剣ドラグザルディムカイザーが収められている。『れんごくの書』は先日コピーをした写本だ。劣化してちぎれかけたオリジナルは、部屋の棚に眠っている。


 朝は少し荒い人の波に押されながら歩く。彼の視界には、二年前に建て直された近未来的な銀色の駅舎と、薄暗く湿った深淵の迷宮が二重写しになっている。時々誰かにぶつかりかけては現実に戻り、軽く頭を下げる。


 広くもないコンコース奥には市のマスコットの小さな銅像があって、そこが待ち合わせ場所だ。着いたと連絡を送るべきか、待つべきか、少し逡巡する。文面を打ちあぐねているうちに、『着きました』と向こうから連絡が来た。返事を返すべきか否かでまたおたおたと、視線を端末と通路との間で彷徨わせる。新年度に向けて気を引き締めねばならないというのに、心は途方に暮れて……浮かれている。


 急行電車から降りた人たちが、こちらに向け歩いてくる。その間からひょこりと、小柄な影が飛び出す。黒髪を肩より短いボブにして、活動的なパンツスタイルは、以前より似合うようになったろうか。白と水色のストライプのシャツが爽やかだ。


「お久しぶり……一年ぶりです」


「……うん」


 顔を合わせたら、言いたいことがいろいろとあった気がする。少なくとも格好いい暗黒騎士として、ようやく復帰した後輩を導いてやろうとそう思っていたのだが、全部忘れてしまった。


「私、帰ってきました」


 一年の間に、いろいろとあったのだとは聞いていた。お父さんとケンカしちゃいました、と伝えられたこともある。その文面に添えられた桃色の花の絵文字には、ようやくちゃんと言い返せたんですよ、という誇らしげな気持ちがこもっているようにも思えた。リーゼロッテ……鈴堂小夜はしばらく親元を離れ、叔母の元で暮らしていたと聞く。再指導と研修の結果、ひとつ上の乙種免許を取り直し、他にもいくつか資格を勉強中なのだそうだ。


「……今日は休みだから。社長に引っ越し周りいろいろ付き合ってやれって、言われてる……」


「なんだかご迷惑おかけしてすみません」


 遠慮がちに小さくなる。連絡は取り合っていたとはいえ、しばらく離れていた影響はどうしても拭えない。そのうちにまたきちんと打ち解けられるだろうか。


「……俺が、やりたくてやって……うーん」


 頭を掻き、それから意を決して姿勢を正した。


「何を躊躇ためらうことがあろうか、リーゼロッテ。そなたは我が侍女であるからして、我が庇護を与えるは当然の摂理である!」


 隣でスポーツ新聞を読んでいた男性が、びくりと震えた。


「そなたは何も言わず、我に忠義を尽くし……時に、笑みを見せてくれればそれで良い」


 リーゼロッテは応えるように目を細め、遠い山の雪解けのような笑顔を浮かべる。ああ、この顔がずっと見たかった、と思った。


「はい、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様……でも」


 何事か付け足しがあるらしい。なんでも聞くつもりだった。なんだっていい、話がしたかった。


「私、夢があります。まだしばらくは侍女でいたいですし、お姫様も素敵でしたけど……。でも、でもいつか、あなたみたいに強くて格好いい騎士になって、一緒に戦う夢です」


 ごく真面目にそんなことを言う顔を見て、ああ、いいな、と思った。


 いつかふたりで、踊るように刃を交わした。あの時の高揚を、今度は背中合わせに感じることができたら。それは、きっと何よりも素晴らしいことだろう。


 彼女の夢は、その時、彼の夢にもなった。


「……それは良いな。我が蒼穹の高みまで追って来るが良い。待っているぞ。リーゼロッテ」


「はい!」


 暗黒騎士主従はしばし笑い合い、そしてゆっくりと歩き出す。


「まずは新たなる城を確かめねばなるまい! 秘された扉を開くしろがねの鍵は」


「はい、しっかりと持っております」


「城の主への供物も忘れるでないぞ」


「大家さんと、お隣と、あと下の部屋の方にお菓子を用意しました」


「うむ。終焉の暁には外つ国にて花の宴と参ろうぞ」


「今年はお花見ができそうで嬉しいです。新しいお家の近くには、桜並木もあるんですよ」


「上々! 征くぞリーゼロッテ!」


 道を曲がろうとしたところ、パーカーの裾を思い切り引っ張られた。


「暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様! 行き先は東口のバス停です!」


「えっ、あれっ、間違えた……会社はいつも西口だから……」


 欠けたところだらけ、妄想に満ちたふたりの遊戯は続く。その旅路も、また。


 詩人には語られぬ、決して公には記されぬ暗黒の騎士の物語。その呪われし伝説の記述は……きっと春の青い空の下、穏やかに流れていくのだろう。

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