第6話 暗黒騎士と斉藤一人
急がないと。触れたコンクリート塀がちりちりとノイズを発して、灰色の石を積んだ低い壁に変わりかける。ざらりとした平坦な感触は変わらない。幻だ。空も、きっとそう。彼女は斉藤が以前、一度だけあり得ない星空を見せたことを思い出す。
幻の中心にいるのは、きっとリーゼロッテ……鈴堂小夜と、斉藤一人。きっと、彼にまつわる何かしらの暴走現象なのだと察しはついた。
透明の蝙蝠に何度も呼びかける。ややあって、結の上ずった声が帰ってくる。
『やばい……どうしよう、まゆみさん。あいつ、本当に暗黒騎士になっちゃった』
◆ ◆ ◆ ◆
リーゼロッテの黒いドレスの裾が、大きく裂かれた。繋ぎ合せようとしても、もうほとんど力が残っていない。下はスニーカーなのが、合わなくて恥ずかしいな、と今さら思った。
黒い鎧兜の暗黒騎士。手にしていた標識は、もう鋭く不吉な意匠の剣にしか見えない。少しずつ、いつもの感情が帰ってくる。ああ、なれたんだ。本物に、とそう思った。心がほんのりと温かく、しっとりと寂しく湿った感触になった。不思議と疑問は抱かなかった。
暗黒騎士の呼吸はよく見ていたから、だいたいわかる。特に、今は傷ついているからなおさらだ。相手が踏み込む刹那、最後の力を込めて腕を伸ばす。鎧の継ぎ目を鋭い爪が深く突き刺そうとした。瞬間。
『結ちゃん!』
ざ、と辺りから一斉に透明の蝙蝠の群れが舞い上がった。同時に腰に衝撃。結が彼女に抱きつくようにして、動きを止めている。蝙蝠はリーゼロッテの顔に、肩に、胸に、降り注ぐようにぶつかっては弾けた。痛い。傷を負うほどの威力はないが、目を開けられないくらいに痛い。潰れていく端末の痛みを受けたのか、蝙蝠越しに葵川の悲鳴が聞こえた。ごめん、とその声は、最後にひとつつぶやいて消えた。
痛みが止まり、ようやく目を開ける。目の前では暗黒騎士が、無慈悲に剣を振り上げていた。その太刀は、彼女の細い首筋を——。
「『宵闇斬華・ザイルズ=ラグ=ウェヴリオン』」
——首の周りにぐるりとまとわりつく、黒髪の束をふつりと断ち切った。ほんの微かに赤い筋が、白い肌に残る。
ドレスと化していた髪の毛が要を失い、ばらばらと地面に流れるように落ちていく。黒い水たまりのような跡が地面を汚した。後にはざんばらな髪をして、あちこち無残に破けた普段着姿の女の子が座り込んでいる。裂けたカットソーの胸元を隠す。急に恥ずかしさが込み上げてきた。身体中がずきずきと痛いのは、きっとずっと無理をしていたせいだ。
ラプンツェルの、呪いは解けた。
頭の中を探る。私はリーゼロッテ・フェルメールで、鈴堂小夜。大丈夫。覚えている。自分が何をしたのかも、ちゃんと。まだ少し頭は熱に浮かされているけれど、元に戻ったのだ、とわかった。拒絶が和らぎ、どっと押し寄せる、津波のような後悔と懸念。一時の激情で、ちゃんと話もせずに大事な人たちを傷つけてしまった。
彼女は保健センターで再指導を受けるだろう。もしかしたら、警察に呼ばれたりもするかもしれない。父親の元には戻らなければならないだろうか。そこだけはどうにかならないものか、と思う。
顔を上げると、暗黒騎士は威厳に満ちた姿のまま、マントを風になびかせている。空は薄く紫色を帯びた夜に覆われ、仄かな灯りに浮かぶ町は鈍い色の背の低い建物が立ち並ぶ。何かの映画で見たような景色。
これが、この人がずっと見ていた世界なのだ、とすぐにわかった。荒涼として、寂しくて、でもきっと、魔法とか冒険とか戦いとかそういうものが確かにある、幻の世界だ。
「良き戦であったな、リーゼロッテ……いや、姫?」
「どちらでも、お好きな方で構いません」
リーゼロッテは差し伸べられた手を取り、立ち上がる。その手は、やはり硬質な
「我はまた放浪の旅へと出る。ひとつところに長居をしすぎた。厳しい旅路になろうが、そなたはともに来たるか」
目頭が熱くなった。断る理由があるだろうか。あんなにひどいことをした自分を、この人は許してくれるのだ。
「はい。もちろんです。暗黒騎士——」
「斉藤くん!」
突然、鋭い声がリーゼロッテを遮った。戸叶が道の向こうから、つかつかとこちらにやって来る。耳を押さえてふらふらとした葵川が、塀に寄りかかるようにして後ろに続いた。
「だめ。だめよ。そっちに行っちゃだめ。リーゼちゃんも。帰って来なさい。どこにも行かないで」
暗黒騎士が、兜に隠された視線をじろりと戸叶に向ける。
「我が道を遮る者、暗黒瘴気剣ドラグザルディムカイザーにその首を断たれる覚悟はできておろうな」
「首を切るのはあたしの立場でしょ。社長だからね。いいよ、別に暗黒騎士でいるのは。でも、あなたは斉藤くんでもあるでしょう」
「知らぬな」
戸叶社長は、眼鏡の奥で泣きそうな顔をしていた。心のひびが見えるという目は、今の自分たちをどう見ているのだろう。冷たく重たい鎧の下を、見透かしているのだろうか。
足元を見下ろす。リーゼロッテ・フェルメール。彼女の名前。でも、鈴堂小夜もきっと自分の名前だ。己を捨てようとした報いは、己に返ってきた。暗黒騎士も……『斉藤くん』も、きっとそうなったら、とても後悔する。
リーゼロッテは、そっと両手を胸元に重ねた。
「暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様……斉藤くん」
彼は、殻に篭った自分を引き戻してくれた。今度は私が、この人を助ける番だ。自分と同じ轍を踏ませてはいけない。その道は——
「一緒に、どこまでも旅をしましょう。私に世界を教えてください。……まずは、この町内から」
「……え?」
鎧兜のイメージがぶれて、きょとんとした顔の青年が見えた。
「私、まだこの町に知らないこと、知りたいことがたくさんあるんです。……すぐには戻ってこられないかもしれないけど、必ず。必ずまたここに来ます。だから」
ふたつの顔を行き来するのは、片方だけでいるよりもつらく苦しいことかもしれない。斉藤一人を引き戻すことは、また彼に重荷を背負わせることになるのかもしれないけれど。
彼女の大好きな友達は、いつでもふたつの道の境界を危なっかしく、でもとても格好良く歩いていたのだ。それを信じたい、ずっと見ていたいと思うから。
信じさせてくれたのは、彼自身だから。
「また私と遊んで、斉藤くん」
だから、約束をしよう。
「……うん」
ぼろぼろで傷だらけの青年から、はにかむような、子供みたいな笑顔が返ってくる。鎧兜の幻は、柔らかなその表情に溶けるようにして消えていった。
辺りの風景がみるみる蜃気楼のように薄れて、晴れた空と当たり前の住宅街に戻っていく。斉藤一人が日常を過ごし、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードが駆け、鈴堂小夜が不安げに訪れ、リーゼロッテ・フェルメールがそぞろ歩いた、あの風景に。
戸叶社長が駆け寄り、ぎゅっとふたりの肩を抱き締めた。結もほっとした顔で目尻を拭い、八重樫が体勢を崩しかけた斉藤を支える。葵川は少し離れたところから、どこか照れくさそうな顔で皆を見ていた。
「いろいろわからないこと、聞きたいことはあるけど……今は、帰ろう。そんで後でゆっくり話そう。まずは怪我した人は病院に。それから、特にリーゼちゃんは大変だよ」
戸叶が強いたように明るい声を上げた。リーゼロッテは素直にうなずき、深く頭を下げる。
「はい。……皆さんには、本当にご迷惑をおかけしました」
「幸いお父さんも重傷ではなかったし、意識もはっきりしてるから。これからが正念場だよ。ふたりきりでなくていいから、ちゃんと話してから身の振り方を決めないとね。あたしが抜け駆けしたのは良くなかった」
「僕が首突っ込んだせいもあるんで、社長の責任だけでもないでしょ」
葵川が珍しく殊勝なことを言う。
「うわ、どういう風の吹き回し?」
「いや、そういうこと言っとくと賞与の査定に色がつくかなって」
「つくわけないじゃん!」
結が笑って、なぜか八重樫を肘で突く。八重樫に支えられた斉藤も揺れて咳き込むように声を立てて笑い、リーゼロッテも微笑んだ。
もし許されるなら、きっといつかまた、ここに帰ってこよう。そう心に決めながら。
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