第5話 暗黒騎士と幻想円舞

 リーゼロッテの背後には、錦木結にしきぎゆいがゆらりと立つ。眼前には彼が……暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードが。やがて、足音がして角から八重樫やえがしが現れた。


 暗黒騎士は、息を吸って、吐く。


「……ふたりとも、少し、下がっててもらってもいいですか」


「え?」


『何言ってんの斉藤くん!』


 蝙蝠越しに、戸叶とかのの声がする。


「……ほんの少しだけ、ふたりきりでやらせてください。お願いします……」


 リーゼロッテが、手を差し出してくる。爪が来るかと身構えたが、一撃は届かなかった。三十センチほど伸びた手の爪を、彼女は不思議そうにまじまじと眺める。いくら再生すると言っても、限りがあるのだろう。それならば、対処はできる。


「わかった。私らは被害を防ぐ方に回る。でも、なんか危なくなったらすぐ手ぇ出すからね」


 結がうなずく。八重樫はやや狼狽うろたえた。


「そうは言っても……」


「言っても聞かないじゃん、こいつら。好きにやらせとくしかないよ」


 斉藤一人は深く頭を下げ、顔を上げた時にはまた暗黒騎士に戻る。獰猛な笑みを浮かべ、彼は告げた。


「聞いたか、姫! 我らが一騎打ちである。尋常に勝負せよ!」


 ダンボールの暗黒瘴気剣が、ぴたりとリーゼロッテの心臓に向けられる。リーゼロッテはとても嬉しそうに、遠足の前の子供のような顔で笑った。



◆ ◆ ◆ ◆



 前に踏み込むたびに、リーゼロッテのドレスの裾が揺れる。金色の猫の目は、きらきらと光を反射して輝く。突き出した腕は軽く避けられ、斬撃で破れたドレスはすぐに修復される。ふたりは道端で、幾度も交錯し、傷つけ合い、笑い合った。


 まるで、ふたりきりでダンスを踊っているみたいに。


 楽しい、楽しい、なんて楽しい時間。


 ずっとこんな風に遊びたかった。あなたもきっとそうでしょう?


 無言の言葉には、もちろん返事はない。でも、きっとそうだと思い込む。怒りと不信はまだ彼女の中にある。でもそれは喜びと一緒にとろとろと溶けて、幼い無邪気な闘志に変わってしまったようだった。


 爪は、もうこれ以上伸びない。だから、斬られないよう素早く右手を振り抜く。暗黒騎士も、わざと剣を爪に当てずにいるのではないかしら、と思った。なぜ? きっと、できるだけ長く戦い続けるため。ふたりでずっと、踊り続けるため。どちらかが片方を仕留めるまで。


 泣きそうな顔で笑った暗黒騎士の顔に、一瞬だけ漆黒の兜が見えた。



◆ ◆ ◆ ◆



「……え、あれ?」


 錦木結は、目をこすって不機嫌に眉根を寄せる。気のせいだろうか。見えた気がしたのだ。斉藤の顔に、漫画か何かみたいな、黒い兜が。


 今はもう見えない。ただの冴えない若者が、ごっこ遊びのようにダンボールを振り回しているだけだ。それでも、真剣なのは知っている。リーゼロッテをどうにかしようと、必死で戦っているのだ。


 きっと、本当の意味であの子を助けられるのは斉藤だけだ。だから、絶対に邪魔はできない。



◆ ◆ ◆ ◆



 暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードは、自分が少しずつ追い込まれつつあるのを感じた。彼には疲労が積み重なるが、相手は治癒能力の持ち主だ。戦いながら、少しずつ傷を癒している。……無茶なやり方だ。きっと戻ってから、苦しい思いをするだろう。


 リーゼロッテと打ち合うと、息が詰まるほど悲しいのに、なぜだかとても楽しくて、何度も涙がこぼれそうになった。ずっとこうしていたかった。でも、どんな時間もいつかは終わりを迎えるのだ。遊び終わった子供は、家に帰らねばならない。


 帰りたくない、と心のどこかが弾ける。


 横薙ぎの大きな斬撃は、後ろに跳んでかわされた。道端の標識が代わりにすぱりと斬り倒され、大きな音を立てて転がる。ああ、始末書だ、と思ったその意識がゆっくりと、少しずつ、どこまでも深く暗い淵に呑み込まれていくのを感じた。



◆ ◆ ◆ ◆



 八重樫徹は目を疑う。斉藤一人の姿に重なるように、鴉のように黒い鎧兜姿の騎士が見えたのだ。儚い幻のように現れたそれは、平凡な青年の姿と明滅するように移り変わる。そして彼の立つ足元は、ざわざわと灰色の石畳に変化しつつあった。


 戦うふたりの向こう側に立つ結が、やはり驚愕した顔でこちらを見ていた。


 瞬間、稲妻のような速度で突き出された腕が、ダンボール剣の柄を強く打った。剣が、弾き飛ばされる。ダンボール剣はくるくると宙を舞い、アスファルトを斬り裂き刺さったところで、くにゃりと力なく折れ曲がった。結が手に取ろうと飛びかかるが、暗黒騎士は爪に頰を切り裂かれながら制止する。


「良い! 捨て置け!」


「って剣がなくてどうやって戦うのさ!」


「案ずるな、娘。そこな男!」


 暗黒騎士はどん、と背をコンクリ塀に預ける。八重樫は動いていた。ダンボール剣が飛んだ瞬間、その場にある最もものに向かって。


 切断された、標識に。


 鎧兜の幻が、不意に確かな現実感のある視覚へと変わる。斉藤の顔は隠れて見えない。石畳の風景は辺りに広がり、当たり前の日本の街並みを、夜の闇と見知らぬ星座と魔法の灯りに震える、古い欧風の景色へと変えつつあった。


 八重樫は手で触れて力を伝え、『軽くした』鉄の棒を握ると呆然とその様を眺める。そしてはっと我に返ったようにうやうやしく標識を掲げた。斉藤の能力が何らかの形で暴走しているのではないか、という考えがちらりと頭によぎるが、彼は幻に呑まれた。


 暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードに、最強の武器を捧げる。そんな狂気じみた思いが、砂浜の波のように八重樫の心を染めた。



◆ ◆ ◆ ◆



 暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードは、片手で武器を受け取った。ずしりと腕に響く重さだが、長剣としては十分振るえる。大儀であった、と彼はつぶやいた。男は爪を避けて後ろに下がり、丁寧に礼をする。


 暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードの握る得物は、全て暗黒瘴気剣ドラグザルディムカイザーと化す。それは、ふるき『れんごくの書』にも記された、絶対の真理だ。無限の時間とはいかないが、まだ戦える。


 より長大になった剣は、爪の間合いの外から振るうと一撃でリーゼロッテのドレスの胸元を裂く。髪の毛はざわざわとうごめくが、修復された跡はレース編みのようにどこか頼りなく、薄く、白い柔らかな肌を透かしている。


 力が弱まっている。もうじきだ。暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードは、鎧の音を響かせ前に進む。


 同時にふわり、とリーゼロッテも歩を詰め、姿勢を低くして暗黒騎士の懐に飛び込むと、爪を振るうことなく彼をかき抱いた。


 全身から、生命の力が抜けるような感覚が暗黒騎士の全身を襲う。戦いで受けた傷の痛みが、やけに重く感じる。次の瞬間、彼は突き飛ばされ、無彩色の石と漆喰の塀に背中をぶつける。鎧が激しく金属の音を立てた。


『斉藤くん、斉藤くん! 病院にお父さんは預けたから。すぐにそっちに行く! 頑張って!』


 透明の蝙蝠が飛び回り、切羽詰まった女の声を届ける。彼は、ぼんやりとその報告を聞いた。


 斉藤、斉藤一人。


 確かに聞き覚えのある名だが、誰のものだったか、と考えながら。

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