第3話 暗黒騎士と宵闇変化
リーゼロッテ、と聞き慣れた声がした。暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードが、公園の入り口からゆっくりと近づいてくる。
リーゼロッテは逃げようと思い、立ち上がろうとして自分の髪を踏み転びかける。何をやっているのだろうと思った。走るうちにどんどん長くなっていった髪の毛は、もう彼女の高くもない身長を軽く超している。引きずって走るのもきっと骨だろう。
「わ、私」
もう何も信じられないと思った。暗黒騎士だって同じだ。みんな揃って、自分を騙そうとしているのだ。きっとそうだ。
「来ないで!」
叫ぶ声にも構わず、暗黒騎士は進む。そうして、リーゼロッテの手首を強く掴んだ。爪もいつの間にか鋭く伸びている。猫のように顔を引っ掻いてやろうかと思った。でも、できなかった。
「話を聞かせよ。リーゼロッテ・フェルメール」
手を放し、すとん、と暗黒騎士はベンチに腰掛ける。座面は昨日の雨で軽く湿っており、彼は自分で座っておいて少し嫌な顔をした。
「永劫の刻を費やそうとも構わぬ。聞こう。我が物語もそなたに語らん」
「……もう、全部知っているのでしょう」
父親に閉じ込められていたこと。逃げ出してここに来たこと。名を隠して会社で働き、そして今父親が追いかけてきたこと。
「そなたの口からは聞いておらぬな」
「私」
何を話せというのだろう。
「そなたの物語を語るが良い」
淀んだ目が、それでもまっすぐにリーゼロッテを見つめていた。その目を見た瞬間、口から花びらがこぼれるように、言葉がはらはらと漏れる。
「王子様に、憧れていました。いつか私を連れ出してくれると、なんとなく思っていて、でも、本当に閉じ込められた時に助けて、逃してくれたのは叔母さんとお手伝いさんで、逃げたのは自分ひとりで、何より役に立ったのはお母さんが遺してくれた通帳で、ああ、そうなのかなって思いました。おとぎ話通りに行くわけがないんだ、って」
まだ、心は何もかもを拒絶している。でも、聞いてもらいたいという気持ちには抗いがたかった。
「そうして、この町で私、ひとりの騎士に出会いました。社長とあなたと、みんなに助けてもらって、私、ようやくひとりで歩けるのかなって思っていました。とても心細かったけど、とても楽しかった。何も知らない塔の中の女の子じゃなくて、ただのひとりの
誰かの足音が近づいてきた。公園の入り口を見ると、そこには父親が立っていた。上等のスーツは着崩れて、汗を拭きながら近づいてくる。
ああ。
「でも、やっぱり、みんな嘘だったんですね」
「小夜」
やっと見つけた、という顔で、父親は破顔する。隣の暗黒騎士には目もくれていない。鈴堂小夜は唇の端を軽く上げた。
きっと今のも時間稼ぎ。私を引き止めて父親と引き合わせようとしたのだ。蝙蝠に焦って何か報告しているみたいだけど、全部茶番。
私は何も信じない。
「良かった。さあ家に帰ろう。寂しかったのだろう。大丈夫、チロルは元気だし、話し相手を雇ったっていい。何もこんなところでわざわざ働かなくたっていいんだよ。……」
父親が、ゆっくりと自分の胸を見下ろした。じわじわと赤く染まるシャツと、そして、そこに突き刺さった鋭く長い、細い剣のような、爪。
「小夜」
ああ、こんな力を持った人と一度戦ったな、と思った。彼女の爪は、あの時の強盗の爪よりも脆く、簡単にぱきりと半ばで折れてしまう。
それでも指よりも長いくらいに残った爪をぼんやり見た。伸びろ、と思うとまたすぐにするすると生えてくる。
父親が地面に膝をついた。暗黒騎士が何か叫びながら彼女の肩を掴むが、声は遠い。突き飛ばしてやった。
音が遠い。髪が、ざわざわと伸びる。それはいつの間にか絹の布地のように身体にまとわりついて、やがて形になる。腰から上は身体にぴったりとして、下は足元を隠すくらいに長く裾を引き広がった、闇の色のドレス。
黄金に光る宝石が、胸元と裾に色を灯した。細い瞳孔を持つ、猫の瞳だ。
リーゼロッテは裾を軽く持ち上げ、優雅に一礼をした。暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードは途方に暮れた顔で、そんな彼女の変貌を見つめていた。
◆ ◆ ◆ ◆
「斉藤!」
結が公園に駆け込んでくる。そして、漆黒のドレスを纏ったリーゼロッテの姿を見、一歩後ろに下がった。
「リーゼちゃん……?」
ああ、と暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードは息を飲む。知っている。この存在自体が禍々しい気を放つもの。ひどく傷つき、何もかもを傷つけずにはいられない、自分たちの成れの果て。
背中から剣を抜く。ダンボール製の……彼の何より大事な相棒、暗黒瘴気剣ドラグザルディムカイザーを。既に彼女は己の父親に傷を負わせている。良心という抑止力は、もう働かないと見て良かろう。
結が駆け寄り、倒れた鈴堂修作の身体をかばうように立ちはだかる。大きな目を細めて、リーゼロッテがにこやかに笑う。自分に向けられたその笑顔がとても好きだったことが、なんだか遠く思い出された。
なんでこうなるんだ、と思う。一番起きて欲しくないことが起こってしまう。いつだって世界は彼に厳しく、斉藤一人は無力だ。教室の隅っこで、独りきりでノートに落書きを繰り返していた、あの頃と何も変わらない。
左肩に鋭い痛みが走った。長い爪が伸びて、彼を襲ったのだ。爪はすぐにへし折れて地面に転がる。リーゼロッテが、首を傾げながら自分の白い手を見た。結は掴みかかろうとするが、伸びる爪を警戒して間合いを取りあぐねている。
自分はもう、傷つけても構わない側に入れられてしまったのだと、それが悲しかった。
誰か、と思う。誰か俺を……いい、俺はいいから、大事なあの子を助けてくれ、とひりつく気持ちで思う。
助けてくれ、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード。孤高にして高潔な、たったひとりの彼のヒーロー。それは……。
それは。
(俺だろう?)
暗くねじ曲がった心の奥底に、小さな火花が弾けた。それは、一瞬のうちに燃え広がり、内心を狂気の炎で満たす。弱い心を鎧で覆う。
(俺が、俺が助けないで誰が助けるんだ。俺が暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードなのに、一体誰を頼るつもりだったんだ)
いつだってその鎧は、彼に勇気をくれた。頼りない心に、征くべき道筋、則るべき規範、伝えるべき言葉を示してくれた。
今こそ、その力に身を任せる時だ。
逡巡はただの一瞬。世界が戻ってくる。公園の風景に、荒野のビジョンが広がる。彼は剣を高く掲げた。息を吸い込み、声を張り上げる。彼は信じる。その名を。己が己につけ、彼女が呼んでくれた、ただひとつの
「我が名は暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード!」
リーゼロッテが目を瞬かせた。結は、あいつまたやった、という顔をしている。
「邪道に堕ちし我が侍女よ。その禍々しくも美しき姿、我が隣を征くに相応しい……だが」
ひゅん、と振られた爪を、軽く斬りさばく。強度は弱い。どうにか間合いを詰め、本体の心を砕くことができれば。
「これも我が業よ。少々腕試しがしたくなったぞ。そなたの力、我が剣に叩きつけよ!」
暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様。リーゼロッテは目を細める。闇の色のドレスが、ざわりと揺らめいた。
「あなたを、信じていたのに」
「我は今も変わらずそなたの
だん、と結が踏み込む。暗黒騎士に気を取られていたリーゼロッテは、反応が遅れた。振られた爪をかいくぐり、低い姿勢のタックル。リーゼロッテは振り切るようにひらり、とドレスの裾をなびかせて宙を舞う。
着地地点には、暗黒騎士が剣を構えて待っている。広がった裾を切り裂くが、浅い。いくつかの猫の目と、髪の毛がばらばらと落ちるだけだ。
「変わってしまったのは、そなたの方ではないか、リーゼロッテ……いや」
暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードは、哀惜を込めてつぶやいた。
「宵闇の姫君よ」
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