第2話 暗黒騎士と迷子捜索
「っわ、あ、ああっ」
「まずった……すいません、凡ミス……」
ずる、と腰を落とす。外からはよくわからないが、予想外の破壊音が本体の聴覚と平衡感覚に影響を及ぼしているのだという。短時間とはいえ、彼は動けない。
「いや、まずったのはこっち。タイミング悪かった」
戸叶は眉間に皺を寄せた。
リーゼロッテの情報をしきりに聞きたがる葵川に、それなら、と逆に彼女を守るよう動かせたのは戸叶だ。周囲の探偵事務所に、聞き込みを行う他所の人間がいないか探ってもらった。本人は用事のついでに東京に送り、実家近辺の動向を調べさせた。放っておいても、一番効率的なやり方で好奇心を満たすよう動く男だ。
そうして彼は、リーゼロッテの父親が……東京の大企業であるリンドー食品の代表取締役社長、鈴堂修作が彼女に何をしたのか、詳細な情報を送ってきた。要するに保護を建前とした軟禁だが、病気が病気だ。放置していれば悪化し、周囲に災厄を振りまくという最悪の事態を引き起こしかねなかったし……何より純粋に許せなかった。たとえ病んだ先細りの道でも、少しでも将来のある人間を閉じ込めておくという所業、いくら父親の愛情混じりのものとはいえ、嫌悪感を抱かざるを得なかった。
(私、本当は大学に行きたかったんです。免許も、乙種くらいまでは取って……無理、でしたけど)
いつか、過去を語らない彼女が、ぽつりとそうこぼしたのを覚えている。リーゼロッテと彼女は同じ『拒絶型』だ。過干渉に反発して逃げ出す気持ちは、よくわかった。
そうして最後に葵川は、父親は娘の居所を調査済みであり、ついには彼が自ら動くはずだという情報を得て帰ってきた。リーゼロッテ本人にはうまく言って病院に行かせ、自分が父親と話そうと、そう思っていた。だが、当人の予定外の動きに失敗に終わった。……それとも、初めから無謀だったのだろうか。自分の行動自体が保護者気取りの過干渉だったろうか。頭を抱える。
「……電話は電源切ってる。とにかく行き先押さえないと、あの子どこ行くかわかんない。結ちゃん、追いかけて捕まえて……」
「待つが良い」
戸叶が指示を出そうとした時、斉藤が立ち上がった。
「我も出よう」
リーゼロッテの脚はそう速くはないとはいえ、既に先行されている。スピードを出せる結が適任と考えたが。
「……わかった、手分けしてもらおう。八重樫さんはじゃあ、車で。斉藤くんは周りに聞き込みをして」
俺が行きたいんです、探させてください、という顔の斉藤を、制止できる気はしなかった。彼は頭を下げ、三人はドアへと向かう。
「向かった方角は北東……駅とも自宅とも違う方だね。多分動転してるから、細かく撒いてくることはないと思う」
葵川がふらふらと立ち上がり、空中にごく小さな三匹の蝙蝠を生み出した。
「とりあえず一匹ずつ、連れてって。もうちょいしたら回復するからさ」
弱々しく飛ぶそれは、それぞれの肩にそっと止まった。ドアがばたりと閉まり、事務所にはふたりが残される。
「……葵川くんには負担かけちゃったね」
いやいや、と彼は椅子に腰を落とし、片手で顔を覆う。
「……信じてもらえるかわかんないですけど」
軽く掠れた声からは、いつもの快活さは鳴りを潜めていた。
「自分と同じ病気で、しかも家に閉じ込められてた十八の女の子を見て、ちょっと手助けしてあげたいなって思うくらいの義侠心は、僕にだってあるんですよ。……逆効果だったけど」
いつも笑っているような目が、指の隙間からほんの少し真剣な色をたたえ、戸叶をのぞいていた。彼女はうなずき……少女の顔を思い浮かべる。身体中に入ったひびは、あの時確かに音が聞こえそうなほど深く割れ、表面が剥がれ落ちそうになっていた——いや。能力に頼らずともわかる。大きな目を見開き、口を歪めた、深く深く傷ついた表情。あの顔をさせたのは父親ではない。自分たちだ。
どうか、見つけて。戸叶は祈るように目を閉じた。
◆ ◆ ◆ ◆
『北東というと、水曜の巡回ルートの方だね』
「かの者は未だこの地への馴染みが薄い。知らぬ場よりは通い慣れた道を征くと見ている」
『葵川さんがやられてなきゃ楽なんだけどな……!』
蝙蝠越しの通話。裏道を行く結がぼやく。葵川の蝙蝠は、連絡能力こそ電話と似たようなものだが、本領は斥候、すなわち音による状況把握だ。これに本人の解析能力を織り交ぜることにより、緊急事態においては頼りになる支援役となる。だが、本人の回復にはやや時間が必要だ。それまでは脚で探すしかない。
『とにかく、僕は車の入れる道を、結ちゃんは脇を。斉藤くんは聞き込みをして、何かわかったら聞かせてくれ。急ごう』
四人乗りのミニバンは、みるみる遠ざかる。斉藤一人は……暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードは、それを追いかけるように走り出した。住宅街の中を突っ切り、明るく静かな通りを行く。彼の視界には、現実の風景の上に歪んだ暗い西洋風の石畳の街並みが重なって見えている。昔はひとりで、しばらく前からはふたりで通った道だ。前方に顔見知りの主婦を見かけ、急停止する。尊大に口を開こうとして、どうにか押しとどめ、『まとも』にスイッチする。
「……すみません。あの、この辺で十八歳くらいの、黒髪の女の子を見かけませんでしたか……」
すごくかわいい子です、というのは目立つ特徴なのだが、なんとなく言いづらかった。
「あら便利屋さん。今日は普通ですね。女の子は見なかったかな。人探し?」
こくりとうなずく。それから言葉を探し、ポケットからごそごそとあまり使わない名刺を取り出す。
「……俺の、友達です。見かけたら社まで連絡してもらえると助かります……」
そしてまた走り出す。速く、速くと叱咤する。
空を見上げる。晴れた春の空と重なるのは、この世界のものとは異なる星座を散りばめた夜空。誰も彼と共に眺めてはくれなかったのだ。彼女がここに来るまでは。
それから数人にすれ違い、説明をした。皆見かけなかったと首を横に振る。八重樫と結からも、連絡はまだ来ない。疾走で息は切れ、現実を直視するのに精神は疲れ果てる。幻を振り切りながら行くよりは、妄想の産物に身を任せた方がずっと楽だ。だが、彼は少々自罰的になっていた。
ごく短い間とはいえ、一番長く傍にいたと思っていた。いつも一緒に付き合ってくれていた。そんな相手のことを、自分は何も知らなかったし、何も気づけなかった。
ちっぽけな斉藤一人からも、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードからも、あまりに遠い世界の話のようで、目まいがした。
「きしのおにいちゃんだ!」
声が聞こえた。小さな子供が、彼を指差してにこにこと笑っていた。横には若い母親が少し困った顔で立っている。彼はまた立ち止まり、息を整えた。
「……すみ、すみません。人を探していて。十八歳の黒髪の女の子、です。あの、背はあまり高くなくて……」
写真があれば、と思う。リーゼロッテの写真は、一枚も手元に残っていない。
「さっき見かけた子かしら。あの、すごく髪が長い子ですよね?」
髪。先ほど、不自然に長く伸びていた髪の毛。反射的に、背筋がぴんと伸びる。見る間に、遠ざけていた妄想が彼の人格を侵食する。
「そは、いずこか」
「えっ? あ、ああ、あっちの公園で見かけました。ベンチで休憩してたみたいです」
「恩に着る。そなたの行く末に漆黒の祝福あれ!」
ばいばい、と手を振る子供にこちらも手を振り返し、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードは駆け出す。
「かの者の
『あっちか! 反対方向に来ちゃったから、待ってて!』
『了解。……社長と葵川くんを拾って行く』
ふたりの声を聞きながら、駆ける。そうだ、確か、春の初めに八重桜を見た場所だ。角を曲がっても、もう白い花はない。ただ。
公園の入り口に滑り込むと、ベンチに腰掛けた少女が弾かれたようにこちらを見た。その黒い髪の毛はざわざわと地面に垂れるまで伸び、彼女の身体を覆い尽くそうとしていた。
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