第7章 騎士と姫の円舞曲

第1話 暗黒騎士と事変勃発

 斉藤一人さいとうかずとは、薄明かりにゆっくりと目を開けた。カーテンの隙間から、早朝の光が差し込んでくる。時計はまだ起床予定より二時間は前を指している。いつどんな日でも彼の眠りは浅く、夢ばかり見ている。


 布団から上体を起こし、広くもない部屋を眺める。漫画の詰まったカラーボックス、乱雑に安物の服が収められた衣装ケース。それから、手を伸ばして枕元に置いた古いノートをめくる。背表紙はだいぶ前にボロボロになったので、セロテープで何度か補修した。複製を作ることも考えるべきかもしれない。


 『れんごくの書』と表紙にはマジック書きの装飾文字がある。彼が小学生の頃に作った創作ノートだ。絵入りのキャラクターや世界の設定と、途中で途切れた本編小説。設定は途中から、お気に入りになったひとりの敵役のページが続く。


 暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード。漆黒の鎧兜とマントに身を包んだ謎の騎士は、いつでも幼い一人の心のヒーローだった。ひとりで過ごすことが多かった子供時代。そこからなんとなく心の成長に失敗し、ぼんやりといつの間にか大人になって、世間に適合できず、静かに心を病み、決定的に壊れてしまっても、なお。


 一年と半年ほど前。単調な仕事と、将来の展望のなさと、そしてそんな悩みを人とうまく話せないことに疲れ果てていた彼は、ふとしまい込んでいたノートを部屋に見つけた。その瞬間、斉藤一人は自分が暗黒騎士であることを、馴染めない周りの何もかもを一度放り捨ててしまった。それでも、社会は彼に向けて粘ついた腕を伸ばす。振り切るために、彼はまた夢を見る。


 斉藤一人は目を閉じる。彼は信じる。己の妄想を、幼い夢を。世界は歪む。ノートの中の落書きの世界を、彼は歩み始める。


 次に目を開けた時はもう、彼は暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードで、居室は石造りの魔城ヴァルガラールだ。少なくともこのひと時は、彼の夢想を否定する者は、誰もいない。


 子供の頃のままの顔で、暗黒騎士は笑った。



◆ ◆ ◆ ◆



 リーゼロッテは、ゆらゆらとバスの後部座席に揺られていた。行き先は駅から少し先の総合病院。戸叶とかの社長にやんわりと検査を勧められたのだ。おかげで半休まで取れてしまった。早く終わったら、帰りに近所でちょっと美味しい昼ごはんでも食べようかしら。少し得した気すらする。


 バスの窓を見る。薄く映った自分の顔が、リーゼロッテをじっと見つめていた。


 この髪の毛、おかしくはないだろうか。リーゼロッテは、肩より少し短いボブの毛先を軽く手でいじる。


 少し前のことだ。休日の朝目を覚まして、洗面所の鏡をのぞき込むとぎょっとした。彼女の黒い髪が、鎖骨の辺りまでいつの間にか伸びていたのだ。


 またか、と思った。家にいた頃、発症直後にもこんなことが起こって、当時セミロングだった髪は勝手に背中まで伸びた。瑞野に移ってからは落ち着いていたのだが、また同じことになるとは思わなかった。


 彼女の能力は主に治癒に使われるが、突き詰めれば身体の回復力や新陳代謝に働きかける力だ。こうして髪や爪などの末端の成長が促進されることはあり得る、というのが保健センターの見解だった。


 そもそも、この病気の症状については、十人十色すぎてなかなかわかっていないのだという。表面に現れた能力を、対症療法的に分類していくしかできないのだ。一度診断されたものと違う能力だと後からわかることや、途中で変化することすらあるのだという。


 取り急ぎ美容院でカットして、帰りに鋏を買った。また髪が伸びたとして、いちいち外で切っていたら大変だし、怪しまれる。自分でどうにかしようと思った。それから三度ほどセルフカットを試したが、幸い周囲に疑われた様子はない。社長の勧めも、こちらの病院にかかっておいた方がいいよ、という程度のものだったし。


 とはいえ異変は異変であるから、ちょうど良いタイミングだ。本名を外で広めたくはないが、かといってみすみす狂者ルナティックに自分からなりたいわけでもない。


 この髪、放っておいたらどこまで伸びるのかな、となんとなく思った。昔読んだ童話の『ラプンツェル』を思い出したのだ。塔の中に閉じ込められて育った美しく長い髪の毛の女の子は、やがて忍び込んできた王子様と出会い、つらい別れを経て外の世界でハッピーエンドを迎える。昔お手伝いの人に読み聞かされて以来、なんとなく好きだった物語だ。その頃、彼女には家に閉じ込められ、縛り付けられている自覚がなかったのだけど。


 まつ毛を伏せ、駅前の風景をなんとなく見つめていたリーゼロッテの目に、駅舎の入り口辺りに立つ男性の姿が飛び込んできた。


 この辺りでは珍しい、ごく上等のスーツ。ほんの少し白髪が混じった髪。上品で優しい、そのくせどこか威厳のある表情。


 男性は紙の地図を広げながら、何やら電話で話をしているようだった。


(お父、さん)


 鈴堂修作りんどうしゅうさく。彼女の——鈴堂小夜りんどうさよの実の父親が、そこにいた。


 血の気が引く音がした。反射的に停まったバスから飛び出そうと思ったが、むしろそれは鉢合わせの可能性がある、と思い直す。父親はバスターミナルと反対方向に歩いていく。こちらには気づいていないようだ。それなら……それなら、このまま同じバスで会社に向かった方がいい。小さく身体を縮め、手を握り締めた。


 きっと社長や暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードなら、私のことを守ってくれる。リーゼロッテ・フェルメールとしての私を。早く、早く着いて、と心臓の鼓動に合わせて心の中でつぶやいた。




 閉まるバスの扉を背に、リーゼロッテは駆け出す。遅刻をしかけた日だって、こんなに急いで走ったことはない。ただ、無性に誰かに助けて欲しかった。安心しなさい、と言って欲しかった。


 駐車場やいくつかの雑居ビルを通り過ぎ、『トカノ特殊業務社』のガラス扉の前にたどり着く。中には従業員が全員揃っているようだった。葵川が立って何か話している。東京出張から帰って来てたんだ、と思いながらドアを引き開ける。


「だから鈴堂氏は今、こちらに向かってる——そろそろ到着した頃合いかもしれないですね……。え」


 葵川が振り返った。戸叶社長ががたん、と立ち上がる。結が、八重樫がハッとした顔でこちらを見る。暗黒騎士が少し遅れて目を丸くした。


 なんで。


 なんで、この人たちが父親のことを知っているのだろうと思った。何も言えずにリーゼロッテは立ちすくみ——顔を引きつらせ、そうして事務所に背を向けた。


「ちょっと待ってリーゼちゃん、その髪……!」


 社長の声が追いかけてくる。髪は、またいつの間にか肩過ぎまで伸びて揺れていた。でも、そんなことはもうどうでもいい。


 走った。走ってできるだけ遠ざかろうと逃げた。裏切られた、と思った。葵川の東京行きは、きっとこのためだったのだ。私のことを父親に知らせて、きっと社長もそれを知っていて、社長だけじゃない、八重樫も、結も、それから、きっと、暗黒騎士も。


 『拒絶』が起こっているのを感じた。精神が、全てを締め出そうとしている。それまでの信頼感が強ければ強いほど、反動も大きくなるのだという。たとえば、たったひとりの父親を捨てて、遠くの町に逃げてしまうほどに。


『リーゼちゃん、落ち着いて。逃げることないよ。大丈夫』


 葵川の声が耳元でした。透明の蝙蝠が、はたはたと飛んでいる。追いかけてきたのだ。人好きのするその響きが彼女にはいかにも恐ろしく、ただの浮ついた甘言に聞こえた。リーゼロッテは、手を伸ばす。蝙蝠を握り潰す。


 手応えもなく、その羽はちぎれて消えた。

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