第2話 暗黒騎士と影絵芝居
やがて、カレーのいい匂いは家中にぷんと広がった。換気扇から外に出ていって、道行く人のお腹を空かせているかもしれない。りんごのサラダもドレッシングがつやつやとしてとてもおいしそうだ。
ご飯の前にはちゃんと手を洗った。リーゼロッテさんがサラダを、暗黒騎士の人がカレーを運んでくる。美羽はスプーンとお箸を用意した。ふたりより多い人数でご飯を食べるのは、お正月にお祖母ちゃんの家に集まった時以来かもしれない。
「いただきます」
ひとりで、いざ饗宴を、なんて言っている暗黒騎士の人は放っておいて、軽く吹いて冷ましてからぱくりとカレーを口に入れる。ルーの味と香りがとろりと口の中に広がる。少し熱いけど、火傷するくらいではない。
お父さんのカレーとも、お母さんのカレーとも少し違う味なのが不思議だった。ルーの種類か、それとも作り方が途中でどこか違うのだろうか。またスプーンを口に運ぶと、煮込まれた鶏肉がほろりとほどけた。
あ、チキンカレー。
お父さんのいつものカレーは豚肉で、たまに奮発したって言って牛肉を買ってくる。美羽は豚肉の方が好きだな、なんて思いながら美味しくいただくのだけど。
チキンカレーは、お母さんの味だ。もう食べられない、お母さんの手作りの味だ。
「美羽ちゃん?」
隣に座るリーゼロッテさんが、慌てた声で美羽の顔をのぞき込んだ。どうしたんだろう、と思ったら、頰がひんやり濡れているのに気づいた。
「どうしましたか。大丈夫ですか」
ティッシュの箱が目の前に差し出される。美羽はすんと鼻をすすりながら、それを受け取った。ぐしゃぐしゃと顔を拭く。
「お母さん」
涙もだけど、声も頭とは関係なく勝手に出るんだなと少し驚いた。
「お母さん、お母さんに会いたい……」
家からいなくなって、もう一年以上にもなる。顔をはっきり覚えているかも少し怪しい。あの頃、お父さんは多分、すごく我慢をしていたのだと思うけど、時々耐えきれなくなるみたいにお母さんの悪口を言っていた。お母さんは、それくらいの悪いことをお父さんにしたのだと思う。そして、美羽を連れずに出ていってしまった。仕方のないことだ。でも。
ぎゅっ、と温かい手が美羽の手を握った。背中にぽんぽん、ともう片方の手。リーゼロッテさんが、優しく美羽に寄り添っていた。
柔らかい、いい匂いがした。女の人の匂い。お母さんとは違うけど、ふわっとした素敵な匂いだ。
美羽の
「平気ですか」
「うん」
うなずく。少なくとも、さっきまでみたいなわけのわからない悲しみの波は去っていた。
「もう大丈夫ですよ、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様」
う、うむ。と少し
美羽は今度は本当におかしくなって、くすりと笑う。
「笑うでない……いや、いいけど……その……」
もごもごとキャラが崩れる。その様子がまたなんだか面白くて、口を押さえてくつくつと笑う。暗黒騎士の人はぼんやりした目つきのまま頭を掻いて、まるで普通のお兄さんみたいに困った笑みを浮かべた。
そこからは、ずっと楽しかった。三人で居間でトランプなんかして遊んだ。暗黒騎士の人は七並べにとても弱くて、リーゼロッテさんは神経衰弱が苦手。美羽はばば抜きをするとつい顔に出てしまう。少しずつ進んでいく時計を見ないふりして、ひたすらに遊んだ。普段は叱られるけど、戸棚からチョコバーのたくさん入った袋を持ち出して、こっそり食べたりなんかした。
九時くらいになって、そろそろお風呂を洗わないと、とリーゼロッテさんが立ち上がった。心臓がどきんと跳ねる。
「お風呂、入らないとだめ?」
「そうですね、ちゃんと綺麗にしないと」
「お姉さんたちも入る?」
「それはちょっと……お客様のお家ですし」
そっか、と時計を見た。あと一時間。そしたら、ふたりは帰ってしまって。美羽はひとりで眠らないといけなくて。
あ、やだな。つらいな。ずんと胃が重くなった気がした。お父さんからはさっきメールが来て、大丈夫、元気にしてるって返してしまった。
どうしよう。心臓の音が響く。みんな、美羽を置いていってしまう。お母さんの時のことを思い出す。
みんな、美羽を置いていってしまう。
「美羽ちゃん?」
リーゼロッテさんが美羽の顔を不思議そうに見つめる。心の底がざわついた。駄目だ。帰らせてしまっては、次いつ会えるかもわからないのに。
「帰っちゃ、やだ」
「別れは生ける者の
暗黒騎士の人が異変に気づいたように飛び退いたのと、美羽の影が突然四方に伸びたのとは、ほぼ同時。ふたり両方は無理だった。でも、リーゼロッテさんの影には、美羽の影がするりと重なる。
「え?」
ぽかん、とした綺麗な顔が、じわじわと焦りの色に染まる。
「リーゼロッテ!」
「う、動けません」
美羽の方を見て少し屈んだ体勢で、リーゼロッテさんはぴたりと動きを止める。お母さんの時と同じだ。
美羽の影が物や人の影と重なると、しばらくの間相手の動きを止めることができる。そう教えてもらった。お母さんを止めてしまったのをお父さんと、役所の人とに怒られてしまった後のことだ。
それからたくさんのことを勉強して、今も勉強中で、多分、これもきっと怒られる。
でも、仕方がないじゃない、と思った。
美羽を置いていくみんなが、悪いんだから。
◆ ◆ ◆ ◆
リーゼロッテは固まった身体をどうにか動かそうとするが、彫像のようにぴくりとも動かない。かろうじて、表情と口が動かせるくらいだ。
九条美羽が
暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードは、おそらくひと時も気を抜いていなかったのだろう。影が飛び出した瞬間、離脱に成功した。自分が情けないと思う。未熟だと思う。だが、ともかくこの状況をどうにかしないといけない。
九条美羽の力は、自分の影を操る力。影が重なった対象の動きを止めてしまう。今のリーゼロッテのように。射程はそれほど長くない。時間も限られている。ただ、効果時間はその場に伸びる影の数に反比例するのだという。先ほどは四つの影が伸びていた。きっとすぐに解けるものではないのだろう。
暗黒騎士は、影の射程から離れ、隣の部屋の入り口辺りに立っている。手には、借りてきたDVDのパッケージとチョコバーの袋。彼の力は触れたものを剣と化す力。武器にするつもりなのだろうか。でも。
(美羽ちゃんを斬るわけには、いかない……!)
多少暴走しているとはいえ、まだ人を傷つけたわけではない。ましてや子供だ。剣で本気で斬りつけるなど、ただの過剰防衛になってしまう。本人も迷っているのだろう。黙り込み、何事か考えている様子だった。
「美羽ちゃん、やめましょう。また遊びに来ますから」
「お母さんもそう言ったけど! 全然来ない! まだいっぺんしか会えてないよ!」
気が
「我もリーゼロッテと同じく、動きを止め
「……うん。今日はね、お父さんが帰って来ないから、ずっと起きてても怒られないんだ。ひとりで起きてるのは怖いけど、一緒なら大丈夫。またトランプやろうよ」
引きつったような顔で、浮かれたような
「夜の闇を友とする
「何言ってるかわかんない!」
ざ、と影が伸びる。ソファの上を駆け、ダイニングへと走る。床に落ちる影を避け、飛ぶように暗黒騎士の姿が走る。リーゼロッテは振り向くことができない。ただ、途中からは音だけが彼の無事を知らせてくれた。
「九条美羽。我が力を見せてくれようぞ」
ヒュッ、と風を斬る音が聞こえた。何か紙のようなものがばさりと落ちる音も。
「これこの通り、我が手が触れし物は、呪わしき悪逆の刃、暗黒瘴気剣ドラグザルディムカイザーとなる。かような文明の恵みも」
多分、今剣になっているのはさっきのDVDパッケージだ。でも、どうしてわざわざそんな説明をするのだろう。そして、あえて剣を作り出す意味って。
まさか。
「我が侍女に危害を加えしこと、許し難き罪悪。我が執行するは正義にあらず。大いなる力持つ者にのみ許されし
「待ってください、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様」
遮るように叫ぶが、熱を帯びた声は止まらない。影を避けるように動きながら、ダイニングから彼女の元へと近づいてくる。
「斬り刻むのに良い的ができたわ」
待って。やめて。頭の中で悲鳴を上げながら、リーゼロッテはぴくりとも動けずにいた。おそらく、暗黒騎士は、本気で九条美羽に攻撃を仕掛けようとしている。
「ここで散れ。九条美羽」
誰か。この人を。
止めて。
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