第6話 暗黒騎士と防犯対策

 三〇五号室。大友の部屋。ドアには鍵がかかっていない。暗黒騎士はそのまま乱暴に引き開ける。


 大友は顔を青くして震えながら、廊下の先のダイニングの壁に寄りかかっていた。目の前には黒い服装の男性。右手の爪が二の腕の長さくらいにまで鋭く伸びている。病者ペイシェント。目には正気の色。暴走じゃない。多分、能力を使った強盗か何かだ。玄関先には花瓶が割れて転がり、昨日見かけたかわいらしい桃色のスイートピーが、濡れて床に力なく落ちていた。


 ああ、まさかの悪い予想が、それもさらに嫌な方向に当たってしまった。リーゼロッテは玄関のドアの前でおろおろと立ちすくんでいた。瞬間、目の前に座り込んだままの大友の姿が現れる。遠隔移動テレポートで逃げたのだろう。


「通報」


 買い物袋が床に置かれる。短い言葉が暗黒騎士の本気を示しているようで。大友の肩をささえて外の廊下を下がり、慌てて電話を取り出した。マンションの名前を必死で思い出しながら警察へと連絡をする。


「我が知己をおびやかす不逞の輩。逃してはおけぬな」


 すみません、ええと、事件です。人に危害を加える病者ペイシェントが。はい。ええと、瑞野の……駅の北側の、『リバティ小中居』三〇五号室前。はい。


「我は暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード。この暗黒瘴気剣ドラグザルディムカイザーにてなます切りにしてくれるわ!」


 あの、私『トカノ特殊業務社』の者で。はい、そうです。今同行の人が対処をして……。


 男がドアから廊下へと飛び出し、長く伸びた爪を構えて突進した。合わせて後退した暗黒騎士は、リュックサックから取り出したダンボール剣を構える。


 何を馬鹿な真似を、と男は思ったろう。


 彼は、暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードを知らない。その力を知らない。


 きん、と鋭い音が立ち、男がのけぞった。爪の一撃が弾かれたのだ。続けて、暗黒騎士が踏み込み、剣を振るう。再び武器がぶつかり合う音がして、騎士と敵とは磁石が反発し合うようにぱっと距離を置いた。次いで突き出された爪の刺突。今度は、はたはたと地面が血に濡れた。


 パーカーの肩が裂ける。痛みをこらえた歪んだ顔で、暗黒騎士は横に斬撃を放った。爪の一撃は真っ向からそれを受け止め、ダンボール剣を弾き飛ばした。がらん、と金属のような大きな音を立て、剣が床に転がる。


 暗黒騎士は慌てず、二本目の剣――下に置かれた袋から取り出した、蛍光灯のパッケージを構え、素早く振るう。危険を感じたのだろう。転ぶようにして男が避ける。手すりに身体がぶつかり、どさっと音を立てた。


 次の瞬間、リーゼロッテと男のくらい目がぴたりと合った。狙われているのだ。こちらに、来る。


 大友を連れてエレベーターまで逃げるべきか、と考えた。だが、老婦人の瞬時の行動は逆だった。それまで支えられて震えていたのが嘘のように数歩分移動テレポート。リーゼロッテをかばうように両腕を広げたのだ。


「『散華惜心・ヴラド=アガルファリア』」


 暗黒騎士が剣を振り抜く。盾となろうとした老婦人の肩越しに、漆黒のマントの幻が、ばさりと広がった。


 爪が二本、信じられないほどもろく切り飛ばされた。落ちた爪先が地面を傷つけ、さらに返す刃が手の甲を斬り裂く。喉が詰まったような声を上げたところに、一撃。今度は肩を掴み、鳩尾みぞおちに膝蹴りを。


 それで終わりだった。男は見る間に崩れ落ち、軽く痙攣をする。リーゼロッテは顔を蒼白にしたままの大友の顔を覗き込んだ。へなへなと腰を抜かしたように座り込むが、放心はしておらず、冷えた手で彼女の手をぎゅっと握ってくる。


「ありがとうねえ、ありがとう……」


 つぶやく声がか細くて、リーゼロッテは軽く老婦人の背中を撫でた。危なかった。もう少しで、助けるはずの相手を逆に危険に晒すところだったのだ。


「こちらこそです。無茶はなさらないでください……」


「……もう夢中で。とっさだと遠くまで移動テレポートなんてできないものなのね」


 そういえばそうだ。最初の時点で外に出て、通報なり近隣に助けを求めるなりできたのでは、と思う。それも今だから言えることだが。


「爪に驚いてわけがわからなくなってしまって。助けに来てくれてようやく動けたの。本当に助かりました」


「そなたは戦士にあらぬ身、十全に力を発揮せざるとしても無理はない」


 男を拘束しながら、暗黒騎士が言う。


「ただ……その、玄関はチェーンかけてください。誰でも入れちゃ駄目です……」


 『斉藤くん』が釘を刺すようにぼんやりと続けた。うんうん、と大友はうなずく。これからはちゃんとしてくれるといいんだけど、と思った。


「暗黒騎士ナイトヴァルザーブレード様」


 リーゼロッテは立ち上がって、裂けたパーカーの肩、軽く血のにじむあたりにそっと触れた。ほのかな熱が、傷をやがて癒すだろう。


「助けていただき、ありがとうございました」


 少し大仰なくらいに頭を下げる。最初疑ってしまったばつの悪さもある。暗黒騎士ごっこにきちんと乗ることくらいしか、すぐにできそうなお礼とお詫びは浮かばなかった。


「我は騎士。そなたは侍女。そなたが仕え、我が庇護することは当然の務めである」


「そうなんですか」


 暗黒騎士は自らの肩に触れ、少し痛そうに顔をしかめる。そして、こっそりと秘密を打ち明けるような声で、こう言った。


「そなたなしでは、我が真の名を呼ぶ者は誰もおらぬがゆえ」


 あ、と口から何かがこぼれそうになった。なんとなく、軽い気持ちで乗った暗黒騎士ごっこ。ただ楽しいとばかり思っていた、けれど。


 この人にとっては、もっと何か、切実な……自分自身に関わる大事な儀式なのかもしれない。あの時の彼女のように。


 多分、嬉しかったのだ。この人は。自分が考えていたよりもずっと、ずっと。


「私もです」


 少し泣きそうになりながら、リーゼロッテは微笑んだ。


「私も、あなたに名前をいただきました」


 リーゼロッテ・フェルメール。奇妙な、おとぎ話のような名前。でも、大切な自分だけの新しい名前だ。


 自分は自立がしたくて家出同然に逃げてきた身で、先のことは全くわからなくて、頼れるのは社長と、おかしなことばかり言う自称暗黒騎士くらい。飛び込んだ仕事は危ないことも時々あって。


 でもいい。今はそれでいい。大友さんを助け起こしながら思った。


 もう少し、この人についていきたい。そう思ったのだ。


 様子を伺っていたのだろう。近くの部屋のドアが、こわごわと開く。遠くから、パトカーのサイレン音が聞こえてくる。やがて拘束されたままの男は警官に確保されていった。




「さて、思わぬときを経たが、ひとたび我らが拠点へと戻るとしよう。……む」


 警察の聞き取りを終えると、もう昼をとっくに回っていた。リーゼロッテのお腹がきゅうと音を立てたのが、どうやら聞かれてしまったようだ。


「その前に腹を満たさねばならぬか。儚き人の身とは難儀なものよ」


 暗黒騎士は、人ではない設定なのかな、と思った。まだまだ知らないことがたくさんありそうだ。


「かの道の先に……ええと、美味しいパン屋があるので……」


 買っていってすぐそこの公園で食べよう、と誘われた。


「公園があるんですか」


「うむ。花咲ける世界樹がそびえし風雅な地よ」


 また若干解読に時間がかかったが、今の季節で花というとやはり桜の木だろうか。


「お花見には少し遅いのが残念ですね」


 暗黒騎士ナイトヴァルザーブレードは蛍光灯のパッケージを取り出して、剣のように行く手を指した。


「何の遅いこともなかろう。見よ、リーゼロッテ」


 角を曲がった瞬間、満開の真っ白な花と、瑞々しい若い緑の葉が目に飛び込んできた。開花時期の少し遅い、八重桜だ。花びらはちらちらと風に揺れて舞う。


 まだ、間に合うんだ。


「宴はこれからぞ」


 ああ、とまぶしさに目を細める。何もかもがかみ合わないと、そう思っていたはずなのに。


 この土地が、この仕事がきっと好きになれるような、そんな予感が、リーゼロッテの胸に、はらりと白い花になって咲いた。


 彼女の……どこか欠けたところだらけの彼らの物語は、音を立てて動き出す。

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