恋慕モラトリアム

ゆあん

あいつと俺の他愛もない話

 先生が投げたチョークが頭に直撃したのをきっかけに、クラスの連中がくすくすと笑い始めた。


 頭髪についた白い粉を落としながら見渡せば、その生意気な目と合った。口元を押さえて肩を震わせているその姿を見て、俺は舌打ちした。

 

 あいつの名前は久我美紗くがみさ


 俺は彼女が嫌いだった。



 あいつと出会ったのは三年のクラス替えの時だ。俺と同じ名字の生徒がいる、と噂には聞いていたが、同じクラスになったことに驚いた。久我という名字の人口は決して多くない。その采配に教師共の悪意を感じた。


 それからと言うもの、良いことがまったく無い。


 教師陣はしばらくの期間、俺とあいつを区別せずに呼んだ。ありふれた名字なら警戒するところだが、久我と来ればまさかクラス内で重複しているとは思わないのだろう。

 久我という名字が呼ばれたら真っ先に手を上げ、「先生、どちらの久我でしょうか」と聞き返すのはあいつの役目だった。容姿も成績も人望も俺より上のあいつがそれを担うのは自然なことだった。


 あいつは恵まれた容姿をしていた。すらっとした佇まいは男からも女からも人気があったし、それを鼻にかけるような事もしない。クラスの人気者の条件を持ち合わせていた。


 気がつけば久我という名字はあいつの物になっていて、俺が名指しされる事は無くなっていた。俺は別になんとも思わなかった。むしろそれが平穏快適とすら思っていた。


 それが今日に限って知らない振りをしたのだ。おかげで油断した俺はいらぬ恥をかく羽目になった。三学年になって半年も経つのに未だに名簿を見ながら名指しする英語教師は、クラスに久我が二人いることに今も気が付いていないだろう。


 クラスの連中はそれが面白かったのか、帰りのホームルームで担任に面白げに報告していた。調子に乗った生徒が「二人は実は兄妹だったりして!」といらぬ発言をしてクラスをさらに沸かせている。高三にもなってそんなことではしゃげるなんて幸せな連中だな、と溜息をついた。


 そんなクラスの連中を黙らせたのは他ならぬあいつの声だった。


「久我くんと兄妹になるのは嫌」


 俺は窓の外を見つめるしか無かった。



 ある日、あいつと俺が日直になる日があった。登校すると、クラスの黒板の隅に並んだ久我という字に相合い傘がかけてあった。ニヤつくクラスの連中の視線を感じて犯人を問いただそうとしたが、あいつがクラスに入ってきたのを見て、俺は黙ってそれを消した。


 その日の授業中、俺の机に紙切れが投げ込まれた。開くと「仲直りのきっかけにと思って」と書かれていた。俺は裏返して「気にしてない」と書いて後ろのやつに回した。


 あいつと俺はほとんど口も聞いたことがない。ただ名字が同じだけ。仲直りもクソもなかった。始まってもいないものは、壊れない。だから気にならない。



「いいよ、後は俺がやっとくから」


 いつのまにか教室にはあいつと俺の二人きりだった。俺は黒板消しを持って背伸びするあいつにそう言い残し、ゴミ袋をしばって背中に担いで教室を出た。できるだけあいつと一緒に居たくなかった。その為なら残った仕事を一人でやるのも苦じゃなかった。


 しかし教室に戻るとあいつはまだいた。後手を組んで見つめている先には並んだ久我の名字があった。


「まだいたんだ」


 俺は教壇から日誌を取り出して書きなぐった。なんでまだいるんだよ。やり辛くてしょうがなかった。


「ねぇ、ここ、相合い傘書いてなかった?」


 唐突にあいつがそんな事を言った。俺は振り向いてあいつが指差すそこを見た。消し方が甘かったのか、なぞった跡がうっすら残っているような気がした。俺は黒板消しを握りしめると手早く消した。


「気のせいじゃないか。気にしないほうがいいよ、そういうの」


 再び日誌に向かうが、全く集中出来なかった。



 それ以来、増々あいつの行動が目につくようになった。

 授業での名指しはサバイバルのようだった。呼ばれたあいつがそのまま引き受けるのか、スルーパスをしてくるのか、時には俺が先んじて立ち上がることすらあった。俺とあいつは久我という名字をめぐって争っていた。


 だが不思議と勉強には集中出来た。あいつには負けていられない。よくわからない競争心が俺のやる気を駆り立て、学んだ内容が驚くほどスムーズに吸収されていった。


 そんなだから、大学受験試験も好調だった。家路につくとまず何よりも先に自己採点した。難関だったが、それは大いに期待できる結果だった。


 そして春。

 俺は志望大学の合格発表掲示板の前にいた。自分の番号が書いてあった。


「合格おめでとう」


 その声に振り向くと、あいつが立っていた。


「なんでここにいるの?」


「私もここを受験したから。第一志望で。ねぇ知ってた? この大学受けるの、学校で私達だけなんだよ」


 その手に掲げられたメモ用紙には番号が書いてある。俺はまさかと思って振り向き、掲示板にその番号を見つけた。


「これからもよろしくね。これ、私の番号。戦友は一人でも多いほうがいいでしょ」


 メモ用紙を裏返せば携帯番号が書いてあった。


「俺の事嫌いだったんじゃないのかよ」


「私そんなこと言ってないよ」


「兄妹になりたくないって言っただろ。そういうことなんじゃないのか?」


 お前の発言のせいで、クラスの皆が気を使っていたんだぞ。


「違うよ。だって兄妹になっちゃったら、友達って関係、できないじゃない。あと恋愛も」


 風が吹いた。髪とスカートを押さえる仕草がやけに眩しかった。


「紛らわしいし、これからは名前で呼ばない? 私は美紗。 それじゃあ、いつ電話してきてもいいから。またね、啓太けいた君」


 あいつはそう言って人混みに消えていった。俺はもう一度手渡されたメモ用紙を見た。俺の名前とあいつの名前に相合い傘がかけてあった。


「意味わかんねぇよ」


 俺は彼女が嫌いだった。

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