第2話 左頬

甘いのだ。無職でいいわけがない。国民は働き、税を納める義務があるのだ。無職でいいはずがない。

 それでもなお俺は俺を受け入れてくれる。世間一般ではニートだのクズだの言われるのに。

 やはり俺には親に会わせる顔がない。もし俺が部屋から出たら、二人は俺に気を遣い、優しく迎え入れてくれるだろう。だが、俺はきっとそれに耐えられない。更に自分という人間が駄目な奴だと思い、苦しむだろう。

 普通に扱って欲しい。今まで当たり前のように生活していたと思えるような扱いをして欲しい。けど、それは無理だ。自分の意志で部屋に入り、扉を閉じたのだから、そんな我が儘が通るはずがないのだ。

 今更後悔している。五年前に全てを、我が身さえもこの部屋に捨てた日の事を。

 コンティニューとリタイア。人生というゲームでの選択ミス。俺は一度転び、立てないまま、選べないまま二年を過ごし、成人式の日、素早く立ち上がり、リタイアを選択した。

 高校を卒業してから一度は就職したものの、会社の方針や先輩たちに不満を覚え、わずか三ヶ月で退社した。

「お前みたいな奴はな、プライドばっかりで駄目なんだよ。間違った事を認めず、融通がきかねえ。そりゃあ俺だってな、正しいと思った事を胸を張ってやりてえ。だがな、そうもいかねえんだよ。今の日本は正直者が馬鹿を見る。少しぐらい目をつぶらなくちゃ、生活もままならねえ。ただの社員のお前にはわからねえだろうがよ」

そんなことを社長が言っていた。

 フリーターとして、本当にやりたい職を探すために様々なアルバイトをして、親と生活していた。

 二十歳になり、新年を迎えて成人式に挑んだ。

 成人式を終え、同窓会をすることになり、中学生時代を共にした、懐かしい顔ぶれを目にした。

 話しかけてみると、一瞬誰だか分からないような顔をされたが、名を名乗ると笑いながら俺の肩を叩いた。そうして、すぐに身の上話に移った。

 結婚して育児と仕事で忙しい毎日を送る者や、難関大学に入学した者。大学生として、青春を謳歌する者。俺には周りの元友人がとても大きく見えた。自分の身の上を話すときに答えを濁す俺は、まるで周りの巨人に踏みつぶされないように逃げ回る虫ケラのように思えた。

 そして、人一倍プライドの高い虫ケラはアルバイトをやめ、家から出る事もやめ、希望を持つ事もやめた。

 再挑戦していれば、今とは全く違う人生を歩んでいただろう。取りあえず部屋に籠もる事は無かったはずだ。いや、もしかしたら。

 もしかしたら。なんて便利な言葉だろう。もしかしたら更に良い結果を出せたかもしれない。人間はいつだってそう思っている。実力以上の結果を出せたとしても、まず満足しない。満足した、なんて口では言っても欲望はわき続ける。もしかしたら、という言葉は人間の欲深さを表す便利な言葉。

 今の俺にはもしかしたらなんて言葉は必要ない。それよりも今を変える次の一手を考える事の方が重要だ。

 俺が選ぶべき選択は分かっている。分かっているのだが、選べない。そんな自分に対して苛立ちが隠せない。

 俺はいつになったら正しい選択が出来るのか疑問に思う。それと同時に、今がその時なのかもしれないと期待している。


 殴られてから二日経ち、頬の痛みも引いてきた夜、扉を叩く音が聞こえた。

 扉の方に目をやり、黙っていると静かに桃子が部屋に入ってきた。

「ちょっと話したい事があるんだけど、少しだけ聞いて」

 すでに部屋に入っているので拒否することもできず、ただ頷くだけだった。

「お父さんはバイトしながら絵描きを目指している私と比べたけど、私はあんたとたいして違わないと思うの。二十八になっても馬鹿みたいに夢を叶えるために定職にも就いていない。いつも思うの。私ってなんて駄目な人間なんだろう、って」

 そんな事はない。俺とは違う。諦めずに毎日を生きている。部屋に籠もったり、親に心配をかけたりしていない。それに夢を追い求めるのは自由で、それこそが人生なのだと思う。日々の葛藤の中で自分自身の選択に不安になりながらも、絶えず努力する。厳しくも辛いことだろうが、念願叶ったときに手にするものは想像を大きく超えるものになるだろう。もしかしたらなんて思わない、妥協無き満足。

 理屈では分かっている。だが、俺のように努力を続けられない人間の方が多い。不安と自分に対する妥協、そして周りからの目。様々な障害に阻まれる。

 思い通りなんかならない。達成出来る人間は強い意志を持ち続ける事の出来る、数少ない人間。

「だからね、もっと自信を持ちなさい。私はね、あんたはまだやり直せると思うの。大手は難しいかもしれない。けど、下請け会社や中小企業ならきっと大丈夫よ。まだまだ働き盛りの年じゃない」

 言いたいことを言い、少し黙っていたが、俺の反応がなかったからか桃子は部屋から出て行った。

「たまには一緒に晩ご飯ぐらい食べなさいよ。夜中に何を食べてるか知らないけど、あんたの分、誰が食べてるか知ってる?」

 閉まる扉の隙間から楽しそうな声が俺の耳に届いた。


 深夜十一時、親父のためらいがちなノックの音を聞いた。

「この前は悪かった。俺も嫌な事があってな。自分の子供に八つ当たりするなんて最低だと思うけど、許してくれないか?」

 親父は今までと同じように扉に話しかけてきた。親父の方が正しいのに、俺と向き合い話をしようとしてくれている。黙っていては駄目だ。

「悪いのは俺だから……」

 小さな声だが返事をした。親父は俺の声が聞こえたのか、少し照れくさそうに、ありがとうな、と言った。

「明日から仕事で少しの間、家を空けることになったんだ。だから、俺のいない間だけでも、母さんたちのこと、頼んでも良いか? 何もないとは思うんだが、何かあったときは助けてやってくれ」

「分かった。出来る限りのことはするよ」

 俺の返事を聞くと、親父は満足そうな声で言った。

「しっかりと頼むぞ。それじゃあ、ゆっくりとお休み」

 親父が部屋から離れていくと、また左頬が大きく痛んだ。


 アラームの音で目を覚ます。時刻はちょうど六時。親父が家を出るだろう時間だ。

 いつもならなかなか開けられない扉を強く押す。俺が思っているよりもずっと軽く開き、少し姿勢を崩した。

 やれば出来るじゃないか。少しだけ自分を褒めて、親父がいるだろう居間に向かって歩き出した。

 居間には親父しかいなかった。母さんも桃子もまだ寝ているようだ。親父はテレビをつけたまま新聞を読んでいた。

「おはよう」

 面と向かって親父と話すことが、なんだか恥ずかしい気がして、畳に目をやりながらつぶやいた。

スーツ姿の親父は新聞紙をそっと置き、俺の方を向いた。俺はそれに応えることができない。

「おはよう」

うつむいたまま、あいさつを終え、昔、居間にいるときに座っていた座椅子に座る。

 黙っているのもなんだか気まずくて、何か話そうと思うのだが、何を話していいの分からず、二人してただテレビのニュースを見ていた。

 様々なニュースが耳に入る静かな朝だ。世界情勢、考えるだけでもおそろしい狂った事件。交通事故。世界の中には俺の知らないところで多くのことが起きる。

「さて、そろそろ行ってくるよ」

 親父が重い腰を上げ、玄関の方に向かっていく。俺も玄関に行き、親父を見送ることにした。

 久しぶりに玄関まで出ると、俺の靴が置いてあることに驚いた。いつでも出掛けられるようにとの気遣いなのだろうか。全く嫌になる。家族が、みんなが俺に優しい。だから俺が駄目になる。だけど、それがたまらなくうれしい。

 五年間、履かれる事の無かった靴を履き、外に出て見送る。

「家のことを頼んだぞ。それじゃあ、行ってきます」

「いってらっしゃい」

 久しぶりに見た青空は俺が思っているよりもずっと綺麗だった。


 殴られてよく分かったが、俺はプライドが高いのだ。五年前に逃げてから、見返してやろうという気持ちを忘れていた。けど、今なら素直に思う。殴られたら殴りたい。やられるだけなんて耐えられない。

 いつの日か、同級生や親父を驚かしてやろうと思う。そうしたら、親父と一緒に酒を飲みたい。二日前の出来事を笑い話にして。


 今、左頬で風を感じる。 


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殴られたら殴りたい 大木佳章 @ookiyosiaki

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