6/
目覚めは苛立ちと共にあった。
「くそっ!」
鳴り続ける目覚まし時計を掴み、壁に叩き付ける。がしゃ、と鈍い音を立てて、五月十日の決まりきった時間を示す目覚まし時計は黙った。
「何なんだ――っ!」
シーツを握りしめ、噛み殺すようにして叫ぶ。
あまりに理不尽で、あまりに不条理だ。
――僕を殺しに来るのは、有栖川鎮だけではなかったのか。
思い込みだった。勝手にそう、決めつけていただけだ。むしろ、この絶望の連鎖が、その程度であって欲しいと願っていた。
「なんで、僕が殺されなきゃならないんだ……っ!」
ようやく、紡はその心の内に隠れていた想いを吐き出す。
死に対する疑念は初めから抱えてはいた。ただ、それはあくまでも、わけのわからなさに対する疑問であった。しかし今、紡の胸の中に渦巻くのは、避けようのない死に対する憤懣だ。
「ふざ、けるな!」
力任せにベッドを叩き付ける。ぎし、とスプリングが悲鳴を上げる。
もう一つ、紡の中で湧き上がる感情があった。
それは、MiRaを巻き込んでしまっていたことに対する後悔だ。
あの出来事は、既に過去にも未来にも存在してはいない。この今のMiRaには何一つ危害は加えられていない。
それでも、だ。
彼女は紡を守ってくれようとした。
それなのに、紡はその彼女が倒れるのを――されるがままに、彼女が傷つく場面を見ていることしかできなかった。
「――――ッ!」
知れず、紡は唇を噛んでいた。口元から血が流れ、顎を伝ってベッドに滴る。
どうせ
そう思っていた自分に、苛立つ。
違う。断じて違う。
何も消えてなんかない。元に戻ってなんかない。
紡の記憶だけは、はっきりと続いている。
恐怖も、悔しさも、刻み込まれている。
紡は胸に抱えていた本を掴み、投げつけた。目覚まし時計と同じような軌跡を辿り、壁にぶつかって落ちる。
「――じいちゃん、何なんだよ。何なんだよ、これは!」
あのモノトーンの女性は、はっきりと言った。「お前の祖父を恨め」と。
有栖川鎮も言っていた。「貴方はお祖父様から何かもらったりしたかしら」と。
もう疑う余地はない。
全ての元凶は、祖父の神船創一郎にある。彼が、このループを招いたのだ。
「畜生……畜生っ……!」
怨嗟の想いが、言葉となって溢れ出る。
何度繰り返せばいいのだ。何度死に続ければいいのだ。何度悔しい思いをし続ければいいのだ。死ぬことも叶わず、生きることも望めず、ただ、永遠を押し付けられる。
部屋の隅に転がっている古びた本が目に入る。
「あんなものがあるから、僕は――ッ!」
『――たぶん、考え続けなきゃダメなんだ』
声が聞こえた。
紡は、はたと顔を上げ、辺りを見渡す。だが、そこには誰の姿もない。
『――でもね、何より、初めから諦めて、できないって決めつけてしまうことが――考えを止めてしまうことが、一番怖いんだ』
また、声がした。
優しい、静かな声だ。
『――下手糞でも、誰も聞いてくれなくてもさ、きっとそれって、夢を諦める理由にはならないじゃない? それに、進もうとしないと、絶対に辿り着けない』
これは、記憶の声だ。
捨て去っていたはずの――通り過ぎた、僕の道だ。
無数の声が、頭の中で鳴り響く。
全てが良いものではない。忘れたくなるものだって――いや、その方が多い程だ。
それでも、その一つ一つははっきりとした形を持って、残っている。
『――たぶんね、どんなに遠回りでも、無駄なことってないんだよ』
「遠回りでも、無駄じゃ、ない」
声に沿うようにして、言葉を紡ぐ。
「どうして、そう思えるんだ」
紡がれる言葉は、答えを探している。
「考え、る……」
これまでに紡がれた記憶を、一つ一つ辿る。
そこに在るのは、無駄だったものなのか。
きっと、そうじゃない。
巻き込んでしまった後悔も、殺されることへの絶望も、出会うことができた喜びも、全てがあるからこそ、今こうして、考えることができている。
それは、おそらく――
『――そうやって、一歩ずつ前に進んで、成長できる』
この永遠の中にあっても、変わっていることだってあるのだ。
忘れていただけだ。見失っていただけだ。初めから、諦めていただけだ。
「……僕は、どうしたい」
紡がなければならない。
自分だけの、言葉を――
「僕は、じいちゃんの意図を知りたい」
吐き出されたそれは、紡が思うより、すぅと胸に沁み渡る。
同時に、ふっと世界が切り替わった気がした。
暗闇だった視界が、広がっていく。自分の部屋が、落ち着いて見渡せる。
ここには、これだけの選択肢がある――
「進もう」
紡は、立ち上がった。
◇
夢を見ていた。
何もない場所に、紡は立っていた。
そこには、まず紡だけがいた。次に創一郎がいた。そして、通い慣れた祖父の書斎があった。
現実感を増すように、朧だった細部へ形が与えられる。色が宿っていく。それに続いて、音が戻る。最後には、インクの匂いが満ちていた。
(これは、小学生の頃、遊びに行ったときのことだ)
理由はなく、初めから知っていたかのように、紡はそう理解した。
かりかり、と。心地よい音が、部屋には満ちている。紡はそれが、万年筆を走らせる音だと知っている。
祖父は机に向かって、小説を書いている。その表情は、優しげで、自分の記憶に在るものを描き止めるような、まるで楽しかった出来事を日記に記しているような様子でもあった。
紡は本を読んでいた。祖父の書棚から見つけた、絵本だ。
それは、何度も何度も生き返り、そしてまた死んで、最期には死ぬことができた猫が百万回生きた物語だ。
幾度となく読んだせいか、紡はその本がどこにあるのかを覚えていた。祖父の書斎に来ると、すぐにその本を引っ張り出し、祖父の仕事の音を聞きながら読むのが好きだった。祖父も、それを何も言わず、黙って見ていてくれていた。
「――紡、それが好きかい?」
机に向かったままの祖父が言った。
――そうだ、かつても同じように祖父は口にしていた。
「うん」
短く――小学生の――紡は答えていた。
「どんなところが好きなんだい?」
「えっとね、最後にね、好きなひとと一緒にいれたところ」
「そうか。そうだね」
祖父は静かに尋ねる。
「紡。その猫は、幸せだったと思うかい?」
「うん」
「どうしてそう思うんだい?」
「だってね、本当にやりたいことを、最後にやれたんだよ」
「――そうだね」
祖父はそう言って、再び仕事に戻っていた。小学生の紡も再び本へと、視線を落としている。だから、その時の祖父の表情を窺うことはできなかったはずだった。
それなのに――今、こうして見る祖父の表情は、笑っているような、泣いているような、優しく目元を緩ませたものだった。
◇
「ばあちゃん」
紡が声をかけて、祖母である弥生は振り返った。
「あら? あらあら? 紡君、どうしたの」
居眠りをしてしまうほどに市街地からは遠く離れた、海の見渡せる小高い丘の上。何度も訪れたことがあり、そしてつい先日も訪れたばかりの祖父母の家がそこにあった。その傍らにあるのは自家栽培の畑。そこが弥生の仕事場であり、趣味の場であった。弥生は手に持っていた霧吹きを置き、額に滲んだ汗を拭いながら、紡へと驚いた表情を見せた。
「ちょっと調べたいことがあって」
「そうなの? 今日、学校は?」
「自分で休みにしてきた」
嘘を吐こうかと思ったが、本当の事を言うことにした。細かな嘘でも積み上げていけば少なからず自分のストレスになってしまう。
「あら。悪い子ね」
「ごめん。でも、じいちゃんのことなんだ。いいかな、中に入って」
「あら、創一郎さんのこと?」
「うん。詳しくは今度話すよ。学校サボったから、急いでるんだ」
玄関の扉を開け、弥生に背を向けながら、紡はそんな風に言うと、スリッパに足を通すことも無く、裸足でそのまま二階へと向かった。背後で弥生が何かを言っていたようだったが、それを気に掛ける余裕はない。
祖父の真意を調べる。そのために、祖父の家に向かう。
それが、まず紡が出した結論だった。
そしてそのうえで、実家に入らないといけない以上、祖母と接触することは避けられない。ならば、祖母を荒事に巻き込まない――MiRaのようにしないためには、接触を可能な限り短くし、追手が来る前にこの場を離れるしかないのだ。
奏を通じて今日は具合が悪く病院に行ってから学校へ行くと伝えてもらうように計らってはいるが、それが鎮の足止めにどの程度なるのかもわからない。
紡は階段を一歩ずつ駆け上がるようにして登っていく。その中ごろに、外が見える小窓があった。紡は一瞬だけそこで足が止まった。
昔はここに背が届かなかった。それが、今では背伸びをする必要もなくなっている。それが、少しだけ嬉しいようで、切ない気持ちになる。
二階の突き当りに、書斎はあった。紡は息を整えながら、ノックをして、入った。
「じいちゃん、入るよ」
誰もいない部屋にその声は寂しく響いた。幼い頃からの癖なのだ。変えられないし、きっと、変えたくもない。
「……」
誰もいない書斎は胸を締め付ける寂しさに満ちていた。がらんとした室内は、記憶にあるものと違わず、それ故に、主の不在が際立ってしまっている。
ざ、ざ、と靴下の擦れる音が妙に大きく聞こえる。紡は、まっすぐ足早に進むと、窓際の机に触れた。
祖父はいつもここで何か書き物をしていた。その背中は今でも目に焼き付いている。
その記憶に在るように、祖父の椅子に紡は腰を下ろす。机の上は整理されていた。元から几帳面に整理をしていた祖父だ。亡くなった後に誰かが片付けたわけではないだろう。
紡はまず、机の引き出しを開けてみた。中には小説を書くときに使っていたのだろう、幾つものファイルされた資料が入っていた。机の上に並べて、ぱらぱらとめくる。内容もラベリングされている通りで、変わったところはない。
それ以外にも机の中には、筆記具や名刺、家族との写真が入っている程度だった。
ここには何もない。そう考え、引き出しを閉じようとした。その時、はみ出していた紙の束が目に付いた。
「……これ」
幾つもの書類や資料の中に紛れるようにして、その紙は挟まっていた。それは縦に綴じられている便箋の束だった。
「じいちゃんの手紙と同じ――」
紡はそう口にしながら、自分の鞄を開いていた。取り出したのは、古びた本と、それに添えられていた手紙だ。
手紙を並べて見比べる。間違いない。同じ便箋だ。そして、その便箋は初めの数枚が既に使われている。
「やっぱり、じいちゃんが送ってきた、のか」
紡は完全に疑っていたわけではなかった。本や手紙の筆跡はほぼ間違いなく祖父のものだったし、内容も紡へ向けられたものだった。ただ、疑念としてあったのが、どうしてあのような結果を招くものを送って来たのか、というところなのだ。
「何か他の手掛かりは……」
呟きながら、書棚や書庫を調べていく。
だが、そこにあったのも、小説やエッセイ、翻訳する前の原本など、仕事のためのものばかりだった。それらを一つ一つざっと眺めていっても、どこにも『マギア』と云う単語は出てこなかった。
紡にはいくつかの断定できる情報がある。
『有栖川鎮、そしてモノトーンの女性が神船紡を殺害しに来る』ことと、『祖父から送られてきた本に何かがある』ということだ。
それは、鎮のこれまでの行動から、そうとしか考えられないからだ。
そしてもう一つ、そこに『マギア』という単語が絡んでいるということだ。これも二人が口にしていた言葉だ。しかし、その単語自体に紡は聞き覚えがない。故に、その不明な部分である『マギア』に関する何かを、紡は探していたのだ。
「どこにも関係する言葉もない。ってことは、この本のことなのか……?」
思い返せば二人は「継いだ」とも口にしていた。創一郎から継いだと考えれば、紡にはこの本が真っ先に思い浮かぶ。
「確か、不要だ、とかも言ってたはず。じいちゃんの手紙もあるし、重要なものの可能性は確かにある。でも、それなら僕を殺す必要はあるのか……?」
マギアと呼ばれるものがこの本で、それを存在すべきでないと断じるのであれば、本を処分すればいいだけの話だ。それなのに、鎮のように本の所在すら確認せず、持ち主である紡の殺害という選択肢を取ったとなれば、その目的は変わってくる。
言い換えれば、紡自身にも、狙われるだけの理由があると云うことだ。
それは、つまり――
「――ループ」
そう考えるのが最も素直だ。
本には何かしらの秘密があり、そして、紡自身にも何かがある。この二つは間違いなく繋がっている。ループと云う形で。
本を読んだためにループが発生した。創一郎からの手紙も、おそらくはそれを示している。だからこそ、あのような前置きがされたのだろう。
故に、有栖川鎮は本を欲し、モノトーンの女性はその特性を得た紡を不要と主張した。同じ、神船紡の殺害と云う手段を取って。
「……まだ、分からないことが多い」
頭を掻き毟り、呻く。
改めて、紡は苛立ちを覚える。置かれている状況をようやく受け入れることができても、実際まだ事の進展はないようなものだ。
本は一体何なのか。
ループがもし本に因るものだとしても、どうして発生しているのか。
そして、それを止める手段はあるのか。
何より、創一郎は何の目的で、紡へと本を送ったのか。
開けた暗闇の先には、深淵が眠っている。その先に進むことを、躊躇ってしまいかねない程の。
「……とにかく、動かないと」
思考を止めないように、口にする。考えることを止めてしまっては、何も掴めない。何でもいい。とりあえず試すことだ。幸いなことに、紡にはそれができる。
ただ、一つ分かっていることがある。
それは、このまま黙っていても、鎮はやってくるということだ。いくら病院に行くとごまかしていても、遅かれ早かれ鎮はそれを不審に思うだろう。五月十日に有栖川鎮が仕掛けてきた、ということは、今日に至るまでの間に、何かしらの目星を――殺害すると決断するに至るだけの目星を既に付けているということなのだ。ましてや、空を飛べる彼女にとって、距離なんてものはおそらく意味のないものだ。
そうでなくても、あのモノトーンの女性がやってくるだろう。最悪の結果を想像するとすれば、それ以外にも第三の刺客が現れてもおかしくはない。もう、自分が狙われている事実は認識しなければならない。
つまり、時間制限がある。
無限に続くと思われるこのループでも、殺されてしまえば再び朝に戻されてしまう。要するに、行動できる時間は紡が死ぬまでの間に限られているのだ。
なら、躊躇している余裕はない。
少しでも、足掻かないといけない。
「あらあら。まるで大掃除ね」
部屋に入ってきた弥生が少し驚きながら言う。
「あ、ごめん。後でちゃんと片付けるから」
「うん。いいのよ」
「それで、ばあちゃん、何か用? 今、急いでるからさ」
わざと無視するようにして、紡は再び引っ張り出した資料へと目を通していく。見逃している可能性はある。少しでも、何かしらの手掛かりが欲しい。
鬼気迫る様子で作業をする紡を、弥生はじいと見つめていた。気に掛けないように努めていた紡ではあったが、しばらく時間が経っても、弥生は変わらずそのまま紡の様子を柔らかい笑みを浮かべて眺めており、どうしても注意が逸れてしまっていた。遂には、紡から口を開いてしまう。
「ばあちゃん、どうしたの。見てるだけなんて、面白くもなんともないでしょ」
紡のぶっきらぼうな言葉に、弥生はゆっくりと首を横に振る。
「ううん。そんなことはないわよ」
「なんで」
「だって、可愛い孫ですもの」
そう言って、弥生は破顔する。
その表情に、偽りはないと感じ取ると、紡は作業する手を止めてしまっていた。
(……そっか、今、この家には、ばあちゃんしかいないんだ)
弥生の言葉にどれほどの意味が込められていたのか、紡は完全に推し量ることはできない。ただ、祖父を亡くした今、祖母がこの広い家で一人、生活をしていると考えると、喉の奥が絞られるように、切なくなった。
「……ごめん、ばあちゃん。じいちゃんにお線香もあげないで」
「ううん。いいのよ。創一郎さんも、紡君が来てくれただけで喜んでいるわ」
それは、きっと祖母の言葉でもあるのだ。紡は、今はそれに応えることができない。それが、悔しく思えた。
「ん、ごめんなさい。紡君の邪魔ばかりしちゃって。つい、紡君を見ていると楽しくなっちゃったわ。伝えないといけないことがあったのに」
年寄りは物覚えが悪くて困るわね、と弥生はおっとりと笑う。
「伝え、って、何か、じいちゃんのことで?」
「ええ。って、あら。その本……」
「え?」
「創一郎さんの机の上に置いてある、その本。持ってきたの?」
「うん……って、ばあちゃん、これ知ってるの?」
「そうね。詳しくはどんなものかは知らないのだけど」
「知ってたら教えて欲しいんだけど」
思わず紡は被せ気味に尋ねてしまう。それをもろともせず、弥生はおっとりと答える。
「大したことじゃないのよ。創一郎さんがね、亡くなる前に何か書いていたの」
「じいちゃんが……。そ、それ以外には、何かない?」
弥生はくすり、と笑う。
「それでね、創一郎さんから頼まれて送ったの。紡君に。私が出しに行ったのよ」
「え……」
「ちゃんと届いていてよかったわ。それで、紡君は今日来たのね」
「ば、ばあちゃんがこれ……」
「私は出しただけよ。中身は見てないもの。というかね、創一郎さんが見せてくれなかったの」
弥生はすうと息を吸うと、少しだけ創一郎の声を真似して言った。
「これは、紡の為に書いたものだから他の人は読んではいけない。って」
「じいちゃん……」
「ずいぶん前から準備はしていたみたいだし、創一郎さん、自分の事を分かっていたのかもしれないわね」
それは、自らの死期を悟っていた、ということなのだろう。弥生は懐かしむように、そして寂しげに言う。
「紡君。私はよく分からないのだけど、これだけ手間をかけているものですもの。創一郎さんがちゃんと考えて紡君に送ったものだと思うわ。だから、大事にしてあげてね」
「……うん」
「あ、そうそう。ごめんなさい、また話が脱線していたわね。本当、年寄りって嫌だわ」
こほん、と弥生は咳を払う。
「紡君に言っておこうと思ってね。でも、その本の事で来たのだったら違うのかもしれないけれど」
「何かあったの?」
「ううん。今日の朝にね、創一郎さんのことで訪ねてきた方がいたのよ」
「……え?」
「女性の方でね、紡君みたいに創一郎さんのことで聞きたいことがある、って」
「それ、どんな、人――」
言おうとして、それは遮られた。玄関から鳴る、チャイムの音だった。
「あらあら。ちょっと待っていてね。今日はお客様だらけだわ。はーい」
ぱたぱた、とスリッパを鳴らして弥生は階下へと向かっていく。紡も、それに続いた。
「ごめんなさい、お待たせして。あら、あなたは――」
玄関の扉を開き、弥生が驚いた様子を見せる。
開かれた玄関から、強い日差しが入り込んでいた。その人物は、逆光に立っている。
「申し訳ない。帰る前にもう一度調べさせてもらおうと思って」
彼女は言った。灼けたような、掠れた声で。
◇
なぜ、あの女性がここに居る――
急速に動き始める思考。はたと思いついて紡はポケットの中の携帯を取り出した。
――そういう事か。
携帯電話の表示は、十時半を少し過ぎたあたりだ。計算すれば丁度当て嵌まる。
彼女はここで紡の情報を集め、そのあとで町へと紡を探しに出たのだ。だからこそ、昼過ぎに駅前で邂逅することになった。
完全に誤算だ。紡は彼女達が追ってくる前に、この場所を離れようと考えていた。それなのに、そもそも彼女がいたとなれば、それは前提から崩れてしまう。
逃げるべきか。いや、逃げ場なんてない。ここで逃げ出すのはあまりにも不自然だ。
紡の逡巡も無駄に、時間は進む。玄関では弥生が女性を案内しているところだった。
「どうぞお入りになって下さい。私はよく分からなくて、何もご協力できませんが」
「いえ、お気になさらず。こちらで勝手に調べさせていただきますので――おや、そちらの方は?」
目が合った。本能的に逸らそうとして、我慢する。無駄かもしれないが、変な素振りはなるべく見せないでおきたい。
「あら、丁度よかったわ。孫の紡です。創一郎さんのことなら、この子の方が詳しいかもしれません」
「そうですか。私は創一郎氏のことを個人的に調べている、
よろしく、とモノトーンの女性――灯人は頭を形式的に下げた。
「樋口さんはね、ええと、あら、なんだったかしら」
「フリーライターをしておりまして、創一郎氏について本を書かせて貰おうと思っています」
「そうそう。そうだったわ。やだわ、本当に最近物忘れが酷いの」
灯人は紡へ視線を向けている。表面的には笑顔であったが、紡には、観察するようでも、値踏みをするようでもあり、凍てつくほどに冷めているように見えた。彼女の狙いを知っている紡は、ぞわりと背筋が冷たくなる。
「――なるほど」
ぽつり、と灯人が言葉を放つ。
バレた。直感的に紡はそう理解した。続けて想起するのは、駅前の広場――前のループでのこと。
灯人は弥生から差し出された来客用のスリッパに足を通し、紡へと歩み寄ってくる。
逃げ出したくなる。足は動いてくれない。恐怖が感情を占めている。
ただ、紡はそれでいいと、恐怖を受け入れてもいた。
(……ここで、逃げ出すなんて、できない)
彼女はおそらく、手段を択ばない。極端に事を荒立てようとはしなくとも、目的――例えば紡の殺害――へ直線的に向かい、障害は機械的に排除する。
それはつまり、この場においては弥生を危険に晒すということでもある。
「――っ」
歯を食いしばり、既に目の前にいる、不吉な女性を睨み付ける。これが精一杯だった。
「安心しろ」
ぼそり、と灯人が紡だけに聞こえるように呟く。冷たく、感情を隠そうとしない、掠れた、紡の知っている声だ。
「アンタはアタシの事を知っているようだが、ここではどうこうするつもりはない」
「……どういう」
「そのままの意味さ」
灯人はそう言って紡の横を通り抜けると、弥生に向かって先程までの声色で言う。
「では、創一郎氏の書斎をもう一度見させて貰います。紡君、手伝って貰っていいかな」
「……はい」
二人は階段を上り、創一郎の書斎へと向かった。その間に言葉はない。ぎし、と軋む階段が死刑台に上っているような気分にさせる。窓から見える、外の晴れやかな空がとても遠い。
今日既に一度訪れていたというのは本当なのだろう、灯人はそのまま迷うことなく書斎のドアを開くとそのまま入って行く。
「さて」
紡が入ると、ドアは閉められた。がらんとして、物寂しかったはずの室内は、今では妙な緊張感に圧迫感すら覚えさせられる。
「アンタが継いでいた、というわけか。こちらから探し出す手間が省けたよ」
「……何の事だ」
「ここにきてとぼける必要はないだろ。こいつの事だよ」
あ、と息が漏れた。机の上に、本を置いたままにしていた。
「わざわざこいつを持ってくるとはね」
灯人は本を掲げる。だが、一度二度と軽く眺めた程度で、そのまま灯人は紡に向かって本を乱暴に投げた。
「ま、アタシはこんなもんどうでもいいんだが」
「あんたは、一体何が目的なんだ」
声を振り絞るようにして、紡は問う。
「それを知ってどうしようってのさ」
「……どうせ、僕を殺すんだろう」
「そうだね。アンタが望むってんなら、今すぐにだって殺ってもいい」
「その前に、理由ぐらい知りたい。理由もわからず、殺されるなんて嫌だ」
声は震えていた。それでも言わなければならない。
紡を突き動かすのは、ほんの僅かな意地と、少なくない打算だ。
ループしても記憶は継続する。なら、ここで樋口灯人の目的を探ることは無駄ではない。今の紡にとって、知ることこそが何よりも武器に成り得る可能性がある。無駄にするわけにはいかないのだ。
「……ふん。冥土の土産ってワケか」
掠れた声が、苛立たしげに放たれる。そして露骨な舌打ちが弾けた。
「まぁいい」
灯人は吐き出すように言い放つと、革ジャケットのポケットから煙草を取り出した。そして、指を強く擦り合わせると、それを咥えた煙草に当てた。じわ、と煙草の先端が焦げ、周囲に甘い香りが漂った。
「で、何を聞きたいんだ。アタシの目的かい?」
煙草を加えたまま、灯人が言う。
「アタシを見た時に身構えたから、多少は知ってるモンだと思ったんだがね」
「それは……」
紡は答えに困る。ループしていると、伝えていいものなのか、判別が付かないのだ。
「ふぅん。じゃあ、こっちから質問させて貰うよ」
「え……?」
「なんでアンタがここにいる?」
「…………」
「どうした? 答えられないのかい。そのままの意味だよ。アンタが今、ここにいるのは不自然だ。神船創一郎はマギアを隠匿していた。調べさせてもらったが、どこにもそれらしい単語ひとつ出てきやしなかった」
紡の調査結果も同じだった。直接的にマギアと呼ばれるものへ繋がるものは何もなかった。
「となれば、マギアは既に継承された、という事だ。普通の魔法使いなら自分が死ぬ前に何かしらの方法でマギアを継承させようとする」
灯人は煙を吐きながら『絶やすなかれ』と続けた。
「だからこそアタシは次の継承者のことを探ろうとやってきた。普通なら親類へ渡されるだろうから、その情報でもないかと。そこにアンタがやってきた。のこのこ、魔導書を持ってね。普通なら有り得ないのさ。隠すべきものを隠そうとしていない」
「ちょ、ちょっと待って……」
紡の頭は混乱してきていた。
「何だ。言い訳かい」
「いや、そうじゃ、なくて」
意味が理解できていない。灯人が口にした単語は何なんだ?
「魔法使いに……魔導書?」
「はぁ?」
「じいちゃんは、何者、なんだ?」
「――アンタ、何を言ってる?」
呆れたように、灯人が言う。
「アンタの爺さん、神船創一郎は、魔法使いだ」
「……は?」
意味が解らない。理解が追い付かない。
「冗談で言っている……ってわけではないようだ。成程、そういう事か」
一人納得したように、灯人は頷く。
「アンタは何も知らずに継承されたクチか。それなら合点がいく。これだけ上手く隠匿していたんだ。家族に何も言っていないのも有り得ない話じゃあない。まぁ、それだとしてもアタシのやることは変わらないんだがね」
その言葉にぞわり、とする。彼女の紡を見る目は、冷え切っていて、まるで害虫を見ているようでもある。
灯人は加えていた煙草をフィルター近くまで吸い切ると、それを素手で握りつぶした。焦げ臭い匂いが、部屋へと広がる。開いた手のひらには何も残っていなかった。
――このままでは、殺されてしまう。
彼女の中で生まれていた疑問は、おそらく解消されてしまっている。それはつまり、これ以上、彼女が紡に時間を与える必要はない。
「ま、待ってくれ」
逃げ腰になりそうななか、咄嗟に言葉が出る。
「僕の、質問にはまだ、答えてもらってない」
「……」
返事は無い。値踏みするような――これ以上時間を割くに値するかどうか、それを計ろうとしている。
「……あなたの言うとおりだ。僕は、じいちゃんから勝手に本を送られてきて、わけも分からないまま、巻き込まれてるだけだ。マギアってのも、正直よく分かってない。そこに、魔法使いだの、魔導書だの、ファンタジーに登場するような名前まで出てくるし……一体何なんだ」
震える声で、素直な気持ちを吐き出す。
逃げ出したくなる。
諦めたくなる。
だけど、目の前に掴めそうな何かがあるのも事実なのだ。例えやり直せるのだとしても、それを、見過ごすわけにはいかない。
はぁ、と溜息一つ。灯人は次の煙草を取出し、咥えた。指先でその先端を擦ると、煙が立ち上った。
「マギアは、要するに魔法だ」
「……魔法」
「世の中には、そんなモンがいくつか隠されて存在している。アンタの祖父さんが隠してたのも、その一つさ」
「じいちゃんは、何を……」
「さあね。アタシは知らない。興味だってない。アタシの目的――そうだね、教えてやるよ。アタシは、全てのマギアをこの世から消し去る。アンタも例外じゃない」
生きてれば、アンタの爺さんもその対象だった。と灯人は煙と共に吐き捨てる。
「アンタは既に体の中にマナの流れが発生している。どうせ、その本を読んだんだろう。それで、マギアを覚えちまってるのさ」
「読んだ、だけで……?」
「魔導書ってのはそんなモンだ。そもそも、マギアは概念だ。どんな形の媒体であれ、頭の中にその概念をインストールしちまえばいいだけの話になる。伝えやすいからと、本の文字媒体を取っているだけの話だ。そして一度理解してしまった概念を取り除くことなんてできやしない」
「でも、これはただの小説で……」
「だから、そう云うモノなのさ。『広めるなかれ』――魔導書は大体何かに偽装されている。アンタの爺さんが利用したのが、小説だったってだけの話だろう」
灯人は咥えていた煙草を、半分以上残ったままで再び握りつぶした。そして、つまらなそうに、言い放つ。
「他の魔法使い様は大層な理屈をこねてるが、アタシはこんなモン不要だと思ってる。マギアなんてモンが無くても、世界は十分に回ってる。だから、全部ぶっ潰す」
広げた手のひらを見せつけられる。そこには何も残されていない。まるで、初めから何もなかったかのように。
「……あ」
がた、と背中で音がした。気が付けば、背中がドアに触れていた。灯人の気迫に押されたのだと、理解する。
「さて、もういいかい。話すのに疲れた」
一歩、灯人が紡へと進む。
「アンタが望むのなら、場所を変えよう。アタシもアンタの婆さんに、孫の死体を見せたくはない」
「……分かった」
それが、紡の最後の意地だ。
これで自分が死ぬという事は分かっている。
その先に再び今日が戻ってくると分かっていても、死ぬことは怖い。それでも、それ以上に祖母を巻き込みたくはなかった。死の痛みを受け入れて尚、紡はそう考える。
後は死刑台に一歩ずつ足を進めるだけ。
それはつまり、ルーチンワーク的にやるべきことをやるだけだ。
紡と灯人は書斎を出て、その足でそのまま外に向かった。
「あら。もう帰るの? お昼の準備もしたのよ」
ぱたぱたとスリッパを鳴らして駆け寄ってくる祖母に、紡は精一杯の笑顔で答える。
「ごめん、ちょっと帰らないといけなくなって。学校サボったのがバレたみたい」
「私も一緒に失礼させて貰います。お時間を取らせました」
灯人も儀礼的にそう続けた。
「そうなの。残念ね」
寂しそうに、弥生が俯く。
「……ごめん、ばあちゃん」
「いいのよ。またいつでもいらっしゃい」
その言葉に、泣きそうになる。堪えるように、無理やり笑顔を作り、背中を向けた。
そのまま、振り返ることなく、紡は祖父母の家を離れた。
しばらく二人は海岸沿いの道を、人目につかないような場所を探して黙って歩いていた。人の姿も、車通りもほとんどなかった。ややあって、海岸に入江を見つけた。防波堤の陰になり、車道からは死角になっているようだった。
「――これから死ぬって分かってるのに、落ち着いてるもんだ」
砂浜に足を付けて、ようやく灯人が口を開いた。
ざあ、ざあ、と波が寄せては引いていく。海風が少しだけ冷たい。
「普通は抵抗するもんだがね。アタシとしてもやり難い」
抵抗するだけ無駄だろうと、紡は分かっている。この樋口灯人という女性は、駅前のあの衆人環視の中、MiRaの意識を一瞬で刈り取り、続けざまに紡を殺害した。どう考えても、紡の勝てる相手ではない。
「まぁ、いい。やることは変わらない。……何か言い残すことでもあるかい」
「……いや、大丈夫です」
やるべきことはやった。
押し寄せる死の恐怖の中で、紡はどこか落ち着いてもいた。
ざ、ざ、と灯人が歩を進める。太陽の光を浴びて、その白い髪は輝いていた。
前回のループを思い返させるその姿を、不覚にも、紡は綺麗だと思ってしまう。
「そうかい。それじゃあ」
灯人はつまらなそうに言い捨てる。おそらく次に放たれるであろう言葉は、記憶に深く刻み込まれている。
恐怖が囁く。本能が叫ぶ。
だが、紡は向かい来る灯人から目を逸らさない。
最後まで見逃してはいけない。そう決めたのだ。
永劫に続くループであっても、終わらせようと努力をしなければ意味はないのだ。なら、この場において、樋口灯人の手口を知ろうとすることは、無駄にはならない。足掻けば変えられる未来だってある。全てが同じになるわけではない。紡はそれをもう知っている。
(急いで家を出て、自分の学校に行くものと勘違いしたふりをしてバスに乗ろうとする。ギリギリだったけど、できた。たったそれだけでよかったんだ。たったそれだけで、起きるはずだった事故を防ぐことができた)
駅前で起きたスクールバスと乗用車の衝突事故。紡がバスを遅らせたことで、その事故は発生しなかった。
それは確かな手応えだ。考え続ければ、前に進むことができる証左だ。
遠く続いている海の青さが目に眩しい。空は高く、澄んでいる。忘れてはいけない。次に、この記憶も、この気持ちも持って行かないといけないのだと、強く考える。
目の前までやってきた灯人が構える。それは空手の構えに似ていた。両手を軽く前に突出し、膝を緩ませている。空手の突きはロケットの発射台に例えられることがある。それを、紡は明確に、もしくは直感的に感じ取っていた。彼女の頭の中にある発射ボタンを押せば、一瞬でそれが放たれるだろう。その結果、軌道線上にあるものは打ち砕かれるしかない。人間の頭であろうとなんであろうとかまわずに。
そして、最期の言葉を口にしようと、その唇を開いた。
「――
だが実際、その言葉は現れず、砂浜が爆発した。砂塵が舞い上がる。
「――っ!」
勢いに弾かれるように、紡は吹き飛ばされる。砂浜の上を転がり、偶然空を見上げた。
そこに、彼女はいた。
「神船君、ごきげんよう」
彼女は、世間話でもするように言い放つ。
「学校を休んで海だなんて、良いご身分ね」
箒に腰を下ろし、宙に浮かぶ。その姿は、まるで魔女そのものだ。
「なんで……」
有栖川鎮が、そこにいた。
◇
「――有栖川」
「どうしたのかしら、神船君。私の名前なんて呼んで」
砂埃が収まるのに合わせるように、鎮は空から降りてくる。
視界がクリアになった砂浜には、新しいオブジェが作り上げられていた。錆びついた自転車、ガードレール、道路標識。それらがアンバランスに突き立っている。
「どうして、ここに……」
「あら。酷い事を言うのね。同じクラスメイトでしょう。具合が悪いと聞いたから、お見舞いに来たのよ」
突き立ったガードレールの上に、有栖川鎮は降り立つ。風が吹き、その長い黒髪がはためいた。
紡の疑問の中には、どうしてこんなに早く、というものもあった。学校に来なかったとはいえ、不審に思うのはまだ時間があると考えたのだ。しかし、そんな疑念を感じ取ったのか、鎮はなんてことないように言い放つ。
「いきなり学校に来なかったら、何かがあったと思って当然よ。マギアに関わることだとすれば、あなたのお祖父さんのところぐらいしか候補もない。逃げるつもりなら、もう少しうまくやることね」
太陽の光を浴びつつ、鎮は不遜な態度で見下ろすようにして言葉を降らせてくる。滑らかに語られるそれは、この砂浜における波のように、彼女が初めからこの舞台の役者であることを示すような存在感と自然さがあった。
「それに、あなたがどれだけ理解しているのかは知らないけれど、その本は私が目を付けていたの。余所の野良犬に持って行かれるのは、気分が良くないわね」
「――大層な言い分じゃないか、有栖川のお嬢さん」
灼けた声が、波の音を破る。
見れば、目の前にいたはずの灯人は紡たちから一〇メートル以上離れた場所に立っていた。有栖川鎮という主役級の役者の登場に対しても、その存在感は決して薄れてはいない。
「どなたかしら」
冷めた口調で、鎮が言う。
「生憎、名乗る名前は持ち合わせてなくてね」
「ふうん。ではやはり野良犬と云ったところね」
「野良犬で結構。エリート魔法使いの有栖川様とは住んでる世界が違うのさ」
「なら、そのまま去って欲しいところだけど。彼は私が先に目を付けていたの」
「いや、ダメだね。むしろアタシにとっては好都合だよ。どうせ有栖川も狩る予定だった。後になるか、先になるか。違いはその程度だ」
その声色は、これまでをもってして、より冷たく、感情の無いものだった。しかし、それでいて向かう先を燃やし尽くしそうな熱量もある。向けられた当人でない紡も、その恐ろしさに震えてしまう。
「失礼。野良犬じゃなかったわ。狂犬ね――
「なんだ知っているじゃないか」
樋口灯人の口角がぐいと上げられた。
「噂に聞いた程度よ。別に興味があるわけではないわ。ただ、あなたがマギアを持っているのなら、別だけど」
「さあ、どうかな。試してみるかい」
「そうね――volatus」
鎮が短く呟き、手を振るった。宙に並べられる、無数のナイフ。遠目ではまるでおもちゃのように思えるが、それら一つ一つが殺傷能力を持っているのは、誰よりも紡が体感している。
「用意周到なことだ」
灯人は愉快そうに口角をさらに上げる。そして、跳んだ。
空を飛ぶのが有栖川鎮であれば、空を駆けるのは樋口灯人であった。足場の悪い砂浜に在って、灯人はそれをもろともしていない。
灯人のいた場所で、砂が爆ぜる。次の瞬間、彼女は一〇メートル以上の距離を一瞬で詰め、突き立ったガードレールに足を掛けていた。
「――っ」
しかし、既にそこに鎮の姿はない。箒に腰を下ろしたまま、上空に浮かび上がっていた。
「行きなさい」
そのまま鎮が眼下にいる灯人へと指を振り下ろす。まるで指揮だ。数十本のナイフが宙を踊り雨となって降り注ぐ。四方八方。灯人の逃げ場はない。
「――ふんッ」
だが、灯人はそれを避けようとはしない。腰を低く構え、空に向かって構えを取る。降り注ぐナイフに合わせて踊るように手を走らせた。
ナイフが空を切り、ガードレールを打ち、火花を放つ。
「これで終わりか? 有栖川の魔法使い」
平然と放つ灯人の手に、ナイフが握られている。足元にはその残りが転がっている。あの無数のナイフを、彼女は掴み取り、残りを払い落としていたのだ。
「いえ、まさか」
その言葉とほぼ同時に、砂浜に寝ていたナイフが跳び上がった。灯人は身を翻しつつ、手に握られたままのナイフでそれらを躱す。
火花を立てながら凶刃は再度空に上がった。そして宙で止まると、その刃を灯人へと向ける。
「成程。あんたのマギアは手を離れてからも持続するのか」
「ええ。だから、こんなこともできるわ」
刹那、砂が中空に滝を作る。突き立っていたはずの錆びた自転車や、道路標識、そして灯人が立っていたガードレールが再び宙に浮かび上がる。
突然揺らいだ足元に、灯人は再度砂浜へと飛び降りる。
「大したもんだ。これが――〈飛行〉か」
感心したように言う灯人へ、容赦なくそれらは降り注いだ。容赦なく金属同士がぶつかる、耳をつんざく破壊音が激しく周囲に木霊する。
砂煙が再び舞い上がる。太陽の光を受けて、砂は光の粒に姿を変えている。その場で、休む間も無く凶器が踊る。
まるで人形劇だ。そこに重量も質量も関係ない。鎮が手を振るうだけで、糸に操られるが如くガードレールや自転車が演技する。
「〈飛行〉は魔法の代名詞。あらゆるマギアの頂点」
紡より高い世界から、鎮は謳う。目の前の異常を、正常であると眺めている。
「――だが、曲芸だな」
しかし、灼けた声は、涼しく響く。
同時に、まるでリズムを取るような正確さで轟音が鳴った。
一度、二度、三度。まるでハンマーで地面を思い切り叩き潰したようなそれは、実際、地面を微かに揺らす。
一拍の休符。そして戻ってきたのは静寂。
鎮は攻撃の為にかざしていた手を下ろしていた。
半ば呆然とした様子で鎮が言う。
「あなた、何者」
砂浜の上、作り上げられた残骸を足蹴に、灯人は立っていた。その姿は、傷一つ負っていない。代わりに朽ちていたのは、先程まで舞台に立っていた役者たち。
「だから言っただろう――名乗る名前なんてないと」
そして、跳んだ。ガードレールだったものを踏み台に、灯人は上空の鎮へと駆ける。それは、あまりにも疾かった。
「――ッ!」
慌てて鎮もその高度を上げようとする。だが、数瞬遅い。灯人は空中でぐるりと四肢を回転させ、蹴りを放った。
「が、あッ――!」
鎮のものと思えないような呻きと共に、骨が砕けるような音が大気を震わせる。鎮は地面へ叩きつけられると、まるで放り投げられた玩具のように砂浜を転げていく。
「有栖川――っ!」
「……心配するのは、自分の身ではないの」
軽く一〇メートルは転げた鎮が、立ち上がる。だが、その動きはどこか緩慢だ。見れば、制服の継ぎ目は破れ、その頬や唇は赤く血に濡れている。美しかった髪は、砂を浴びて乱れきっている。その姿に、紡は言葉を失ってしまう。
「…………」
――これが、あの有栖川鎮なのか。
紡の中で、何かが組み替えられていく。
繰り返される日々の中、有栖川鎮は恐怖の象徴だった。考えるまでもない、彼女は自分を殺そうとしている相手であり、幾度に渡ってそれを実行した相手でもあるのだ。
しかし、この一瞬において、積み重なってきたイメージは薄れてきている。
それは単純に、有栖川鎮のみだと思っていた常識外の存在が、もう一人いたと云う事実に他ならない。
決して樋口灯人を侮っていた訳ではない。ただ、彼女の存在がどの程度のものなのか、想像が至らなかっただけなのだ。
有栖川鎮は手を触れずとも、物体を自由自在に操る。箒に腰を下ろし、意のままに躍らせるその姿はまさしく魔女だ。そしてその異能を用い、紡を追い詰め、殺害した。
一方、樋口灯人を本能的に強大なものであることは理解していても、その実、具体的な異能を紡は目撃していない。また、紡を殺害するにあたっても、彼女は花を摘むように、あっさりと紡の意識を刈り取っただけなのだ。
その二つの差は、紡の主観としては大きかった。
――しかし、それも改めなければならない。
万能と思われる有栖川鎮の力をもってして、事実、樋口灯人には未だ届いていない。そして、純粋な打撃攻撃だけで相対する魔女を地に落とした。
樋口灯人もまた、常識の外に在る存在なのだと――
「……は、はは、ははは」
思わず紡の口から笑いが零れる。
何だこれは。夢じゃないのか。
紡は自分の精神を疑いそうになった。それ程に、この場で繰り広げられているものは、常識からかけ離れている。
「これが、
最早、そう口にするのが精一杯だった。
この空間において、紡の存在はあってないようなものだ。介入できるはずがない。割り込もうものなら、視界の先に転がる瓦礫と同じ末路を辿るだろう。
ただ黙って、成り行きを見守るしかないのだ。どちらが勝利しようと、その後に死が待っているだけだとしても。
「こんなものか、有栖川のお嬢さん」
砂浜を踏み鳴らす音に混じるのは、灼けた声。
「あんまりガッカリさせないでくれ。
「――言ってなさい」
鎮は鋭く言い放つ。それは、彼女の持つナイフのような鋭利さがあった。そして、箒を砂浜へ突き立てる。
「volatus! volatus! volatus! volatus! volatus――――!!」
箒の先で文字を、もしくは記号を描くかのようにしながら、鎮は叫ぶ。そこに、これまであった冷静な姿はない。目の前の敵を倒そうとする、意志だけがある。
次の瞬間、地面が揺らいだ。まるですぐそばに在る海のように、砂が波打つ。
「行けええええええええええええええええええええええええええッ!!」
鎮は箒を回転させ、灯人へと突きつける。それはまるで、戦争の号令だ。一つ一つが意志を持った砂の粒子は、重なり大きな一つの波――否、強大な壁となって灯人を押し潰そうとする。
だが、その状況に在ってなお、樋口灯人の余裕は揺らいでいなかった。
「成程。マナを地面に伝わらせ、砂を飛ばした、か」
ひどく醒めた様子で灯人が呟く。
灯人は押し寄せる砂の壁を、面白そうに眺めていた。紡の視界から見て、灯人の姿を覆い隠すまで、その様子は変わらない。
そして――
「――だが、所詮」
灼けた声。続いたのは、炸裂音。
次の瞬間、砂の壁に風穴が開いた。砂が四散する。
「う、そ……」
「言っただろう。曲芸だと」
砂の壁を突き破り、そのままの勢いで灯人は鎮の懐に潜り込む。鎮は逃げる余裕もない。その首を掴み、持ち上げる。
「あ、がッ」
「流石は有栖川だよ。マギアもマナも質が違いすぎる」
鎮は答えない。否、答えることができない。溺れているかのように手足をばたつかせ、灯人の手から逃れようとしている。
その背後で、砂の壁が崩れた。
「ただ、アンタじゃ宝の持ち腐れだ」
「がっ、ああ、ああ」
鎮の口から嗚咽が漏れる。
「アンタじゃアタシには勝てないよ」
灯人は続ける。
「アンタは覚悟がないのさ。目的の為に、何だって――人殺しだってする覚悟がね」
「ち、が……」
「アンタ、人を殺したことなんてないだろう。いや、それ以前の問題だ。人を殺したくないって、思ってる。見てりゃあ分かるのさ。アタシみたいなとっくの昔に童貞捨てちまった人間からはね」
つまらなそうに、灯人は吐き捨てる。
「魔法使いってやつはどいつもこいつもそうだ。自分の力が偉いと思っていやがる。適当に振るっていれば、相手を屈服させられると思っていやがる」
「わ、た……し、は……」
「違うってのかい。寝言を言うなよ有栖川。寝るにはまだ早い。違わないんだよ。そんなもん、アンタが一番分かってるだろう。手を汚す覚悟も無く、同じ土俵に立つ覚悟も無い」
「ああああああッ」
灯人の言葉は次第に熱を帯びていく。伴うかのように、首を掴まれたままの鎮が悶える。見れば、その首筋は火傷を負っているように、赤く爛れている。肉の焼けるようなにおいと共に煙も立ち上っていた。
「そして最後は、マギア頼りだ。そんな奴らが生きているだけで、反吐が出る」
「あ、ああ、あ」
鎮が喉の奥から、声を漏らす。
「だから、アタシは――」
宙を泳いでいた鎮の腕が、何かを探るようにある一点に向けられる。それは、紡のいる方向だ。
紡はその手を視線で辿る。そこで、
「あ――」
目が合った。鎮も、紡を見ていた。
そこに在ったのは、恐怖だ。死を恐れるものだ。紡と同じ年の、女の子として吐き出された感情だ。
血に濡れた口が、僅かに動き――
「マギアを持つ奴ら全てを根絶やしにする」
「――――」
ごきり、と。
言葉を待たず、灯人の手は、そのまま鎮の首を握り潰した。
糸の切れた人形のように、鎮の四肢が重力に引かれ、だらりと垂れる。
「……あ」
灯人は掴んでいた手を放す。どさり、とまるで荷物のように、有栖川鎮であったものは落ちて、もう動かない。
「さて、待たせたね。次はアンタの番だ」
動くことなんてできない。
紡は、歩み寄る死神を、ただ見ているだけだった。
「――さよなら」
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