巡る春に咲く

風希理帆

巡る春に咲く

 三年前の春、あの人に出会った。

 二年前の春、あの人が卒業した。

 一年前の春、あの人と彼女が出会った。


 今年の春……。


 ふわりと、花びらが膝に落ちた。指で触れると、刺すような冷たさを残してあっけなく消える。季節外れの、三月の雪だった。まるで去っていく冬が、最後の抵抗を示しているかのような……。

 寒いはずだと思った。川沿いの公園には、人気が全くない。濁った川面と同じような民家、その向こうにそびえ立つ山々を、ベンチに腰掛けて何時間も見ている。……いや、見ているんじゃない。ただここにいるだけだ。

 景色が、景色として目に入ってこない。まるで川や家や山が、靄に覆われているように現実味がなかった。手足は冷え切っているのに、立ち上がるのも面倒臭い。いっそのことこのまま、ここで凍死してしまおうか……。

「志歩」

 首を動かすと、公園入口に兄の雄飛ゆうひが立っていた。

「風邪引くぞ」

 笑ったつもりが、白い息が漏れただけに終わる。前に向き直ると雄飛が、砂利音を立てて近づいてきた。

「……引いてもいい」

「お前はよくても、こっちが困るんだよ」

 ぶっきらぼうな声と共に、何か頭に掛けられる。視界の端に垂れてきたのは、家に置いてきた私のマフラーだった。

「お前にまで何かあってみろ。母さん、壊れちまうぞ」

 俯くと、前髪が視界を塞いだ。去年お父さんが亡くなって、お母さんは毎日仏壇に手を合わせている。さっきより強い風が吹いて、雪片が次々と舞い落ちてきた。

「ほら」

 強引に立たされ、手を引っ張られて公園入口に向かう。

 雄飛の後頭部は、茶髪と黒髪がまだらになっていた。パティシエ修行をしていたパリから、この春帰国したばかり。日本での働き口も決まって、休み中スウェット姿でぐうたらしている。パリジャンになって帰ってくるぞって、行く前に言ってたくせに。

 でも、私に言えたことじゃないから、家に着くまで一言もしゃべらなかった。


 三年前の春、中学校を卒業した私は、隣町の高校に入学した。

 私達の住んでいる県は、山脈の裾野に広がっている。亡くなったお父さんは登山が趣味で、それに影響された私は高校で山岳部に入った。ちなみに雄飛は、お父さんが採ってきた木苺や山桃を調理する方に惹かれて、高校卒業後にパティシエを目指した。

 山岳部に入った私は、高野たかの先輩に出会った。当時三年生で、体力とリーダーシップを兼ね備えた男子部長。部の男女比は男子の方が勝っていたけど、女子の中で一番人気のある先輩だった。

 昔からそそっかしい所がある私は、しっかりした人を好きになる癖があった。最初の頃すぐにばてていた私を甘やかさず、それでも最後まで一緒に登ってくれる先輩のことを、いつの間にか好きになっていた。必死にダイエットをして、もっと自分に自信が持てるようになったら告白する。ずっとそう決めていた。

 しかし、三週間前。部室を訪ねてきた先輩が、みんなの前で結婚の報告をした。相手の人は大学の、インカレサークルで知り合った女性らしい。照れながら先輩が語った話によると、人当りも良くて容姿も華やかな、私とは正反対の女性のようだ。

 先輩にお祝いの言葉を言った時、私はうまく笑えていただろうか。あの日から、視界に靄がかかったようになって何も見えない。思考力も判断力もなくしたまま、私は高校を卒業した。


 毎日、朝が来て夜が来る。

 春休みだというのに、私は寝て起きて、たまに外に出るだけの生活をしていた。こんな状態で、大学生になれる自信がない。地質学を勉強したくて入った、先輩と同じ大学。先輩とキャンパスが違うのが、今は救いだった。

 毎晩ベッドに入ると、決まった問いが頭に浮かんでくる。……一体、何が悪かったんだろう?

 私が凡人すぎること? もっと早く告白しなかったこと? この三年間は無駄な三年間だったの?……考えても考えても、答えは出ない。代わりに涙が溢れてきて、明け方に睡魔が襲ってきて昼に目が覚める。そんな昼夜逆転した生活が続いていた。


 四月に入ったある晩、ベッドの上で寝返りをうっていると、ふいに階下から物音がした。

 最初は家鳴りかと思ったけど、違う。明らかに、誰かが歩き回っているような音だ。机の上の時計を見ると、針は午前二時を差そうとしていた。

 お母さんは泊りがけの仕事でいないし、雄飛は既に眠りについているはずだ。足音を立てないように階段を降りると、音は一階の廊下の先、リビングから聞こえてきていた。廊下を進んでリビングを覗くと、キッチンに立っていたのは、見たことのある後ろ姿だった。

「……どうしたの」

 ドアを開けて声をかける。振り返った雄飛の頭は、茶髪じゃなくて、短く刈り込んだ黒髪になっていた。

「髪、切ったの?」

「昨日の夕方から切ってるよ」

 呆れたような顔をして、雄飛が手にしていたボウルを置く。格好もきちんとしていて、ぱりっと糊のきいたシャツに、パステルカラーのエプロンをつけていた。腕まくりした手で並べているのは、卵、薄力粉、砂糖、ケーキ型……。

「ケーキ、作るの?」

 こんな時間に、と言いかけると、雄飛が手にぱんとゴムベラを叩きつけた。

「どうせ眠れないんなら、今からやろうと思って。このままじゃ俺もお前も駄目になる」

 瞬きをした私の前で、雄飛がケースから卵を取り出し始めた。卵を割り、掌に中身を移動させて、白身だけボウルに落としていく。次々と、信じられないほどの速さでそれをやってのける姿を見て、改めてプロなんだということを実感させられた。

 それにしても、「『俺も』お前も駄目になる」ってどういうことだろう。ぼんやり言葉の意味を考えていると、目の前に泡だて器が突きつけられた。

「手伝って」

「え?」

「卵白の泡立て。できるだろ」

「……」

 仕方なく、泡立て器を受け取る。プラグをコンセントに差し込み、白身が入ったボウルに入れてスイッチを押すと、ガリガリとボウルがこすれる音が響いた。徐々に泡が立ってきたところで、雄飛が横から砂糖を入れる。ガリガリという音がザリザリ、ジャリジャリという音に変わった。

「ひっくり返しても、落ちてこなくなるまで混ぜて」

 そう言うと、雄飛はハンドミキサーを手に取って、別のボウルに溜めた黄身を撹拌し始めた。二つの器械が卵を混ぜる音が響いて、キッチンの中がかなりうるさくなる。白身と黄身を別々に混ぜる様子を見て、あるお菓子が頭に浮かんだ。

「もしかして、シフォンケーキ?」

「気づくの遅え」

 雄飛が笑って、自分のボウルにも砂糖を入れる。懐かしくて、微かに笑みがこぼれた。シフォンケーキは家族全員が好きなケーキで、真っ先に雄飛が得意になったお菓子だ。しばらくすると雄飛がミキサーを止めて、カンカンとボウルの淵を叩いて黄身を落とす。

「そっちも、もういいよ」

 白身がメレンゲになっていることを確認して、雄飛が小さなボトルを手に取る。中には淡いピンク色の液体が入っていて、よく見ると花のようなものも浮かんでいた。

「それ、何?」

「桜リキュール」

 雄飛が計量スプーンでリキュールを量って、十分に撹拌した黄身の中に入れる。さらに、桜パウダ――桜の花を粉末にしたものと、食紅や薄力粉も量り入れて混ぜ始めると、あっという間に黄身がピンクに染まった。

「桜のシフォンケーキなの?」

「珍しいだろ。メレンゲを三分の一、別のボウルに分けて」

 慌てて、ボウルとゴムベラを手にする。私がメレンゲを分けきったところで、雄飛がまたミキサーを止めた。三分の二が入ったボウルを私から受け取って、ゴムベラでピンク色の生地の中に入れる。

「気を付けて」

 思わず、声が出る。シフォンケーキはふわふわした食感が特徴のケーキで、その軽い食感を出すには、メレンゲ泡を潰さずに生地と混ぜる必要があった。たしか昔の雄飛は、よく失敗して悔しそうにしていたけれど……。

「心配無用」

 鮮やかな手つきで、さくさくと切るように雄飛がメレンゲを混ぜ込んでいく。十分に混ぜきったところで、ケーキ型に生地を注ぎいれた。後は温めておいたオーブンに入れて、三十分ぐらい焼くだけだ。ほっと一息ついて、私はキッチンの椅子に座った。

 目の前のシンクで、雄飛が調理道具を洗い始める。一息ついたついでに、何だか眠くなってきたような……。

「おい、ここで寝るなよ」

「出来たら、起こして……」

 呟いて、私はテーブルに突っ伏した。シンクの水音が、徐々に遠ざかっていく……。


 ゆらゆらと浅い所を漂っていた意識が、ふっと何かをとらえた。……この香ばしい香りは、コーヒー? そして、甘いのは……? どこかで嗅いだ事のある、芳しくて優しい香り……。

 ゆっくりと目を開けると、ぼやけた机の上にコーヒーカップが置かれていた。目を擦りながら体を起こすと、「お。起きた」と声がする。

「自力で起きるなんて、食い意地張ってんな」

 机の向こう側には、呆れ顔をした雄飛。その手のお皿の上には春色といった感じの、淡いピンク色をしたケーキが乗っていた。「起きたなら食べて。感想が聞きたい」そう言って雄飛が、お皿とフォークをこっちに持ってくる。

 一瞬ダイエットのことを考えたけど、失恋したことを思い出して苦笑いした。フォークを受け取ってケーキを口に入れた瞬間、ふわっと華やかな香りが鼻の奥に広がる。……甘酸っぱい桜の香りだ。噛むたびに桜の酸味と、小麦粉の甘さとが混ざり合って、まるで口の中に春が広がっていくようだった。

「……美味しい」

 もう一口、ケーキを食べる。

もう、どんなに食べても太っても、誰のことも気にする必要はないんだと思うと、何だか涙が溢れてきた。こんなに悲しいのにケーキは美味しくて、それもまた切ない。ぼろぼろ泣いている私の前に座って、「涙じゃなくて感想が欲しいんだけど」と、雄飛がデリカシーのないことを言う。

「黙っててよ……」

「まあ、ろくに食ってない奴でも食べられるって事は分かった。味はどう?」

「え? 美味しい、けど」

「ああ、質問が悪かった。甘さについて訊きたいんだ」

「甘さ……」

 改めてケーキを口に入れる。別に黒糖や蜂蜜を使ったわけじゃないから、何のくせもない、すっきりした甘さだ。

「いつものお菓子と、何も変わらないよ」

「じゃ、これは普通に使えるって事だな」

 そう言って、雄飛が引き寄せた砂糖の袋には「果糖」と書いてあって、思わず二度見する。

「果糖? 上白糖じゃないの?」

 普通、ケーキなどのお菓子には上白糖などの白砂糖を使う。でも、果糖というのは初めて聞いた。見た目は全く、白砂糖と変わらないけど……。

「結晶果糖っていって、穀物のでんぷんを酵素で結晶化させたものなんだ。普通、白砂糖は真っ白にするために、栄養分や不純物を取り除くけど、これはそういうことをしていないから、自然のままの状態に近い。体内で消化されやすいから体にいいんだ。健康志向の人達の間では徐々に知られてきてる」

「そうなんだ……。フランスで知ったの?」

「『ノワイエ』を辞めてから、いろいろ調べた」

 ぽつりと雄飛の言った言葉に、私は眉根を寄せた。確か『ノワイエ』は、フランスで雄飛が修行していた店の名前だ。

「辞めた? 認められて、送り出されたんじゃないの?」

「シェフと喧嘩して辞めた」

 雄飛の言葉を聞いて、私は頭が真っ白になった。

「待ってよ。じゃあ、日本での働き口が決まったっていうのは」

「あれは本当。ただ、今までとは違う作り方を勉強しに行くんだよ。一年前ぐらいから、白砂糖やバターを多用しない、体にいい菓子を作りたくなってきたんだ。『バターも砂糖も山ほど使うのが伝統の味だ。弱い味じゃ売れないぞ』って、シェフには反対されたけどな」

「……そうだったんだ」

「でも、日本に帰ってきたら、これまでの数年間は何だったんだろうって落ち込んだりもした。それでこの春は、何にもやる気になれなかったんだ」

 そこでやっと、「眠れない」「『俺も』だめになる」という言葉の意味が分かった。まさかこの春、雄飛も落ち込んでいたなんて。何と言っていいか分からないでいると、「そんな目で見んな」と苦笑された。手を伸ばした雄飛が、桜リキュールのボトルを引き寄せる。

「……実はこのリキュールは、親父が植えた桜の木から作ったものなんだ。電話で相談を受けて、一年前に俺が提案した」

「え?」

 ボトルを受け取って、中の液体を見つめる。確かにお父さんは生前、山林伐採を気に病んで植樹事業に携わっていたけど、それはなかなか上手くいってなかったはずじゃ……。

「あんな禿山に根付くわけがないって言われて、ずっと難航してたのに、去年花が咲いた記念に作ったんだよ。……本当に良かったよな、死ぬ前に咲いて」

「そんな……。早く言ってよ。もし知ってたら、もっと味わって食べたのに」

「まだ残りがあるって。それで、何で俺がこれを作ったのか、何を言いたかったのかって言うと」

 ちょっと気まずそうに、雄飛がそっぽを向いて咳き込んだ。だけど、もう一度視線があった時、真剣な瞳に目を奪われる。

「上手くいかなかったように思えても、無駄な経験なんかないって俺は信じたい。自分のことも、お前のこともだ。余計な世話かもしれないけれど」

 瞬間、顔が強張る。何のことを言っているのか分かったからだ。「……雄飛に、何が分かるのよ」睨みつけると、なぜか複雑な表情をされた。「……こんなことまで言うのかよ」と言いながら、雄飛が頭を掻きむしる。

「急に、帰国することを決めたから……好きな人には、何も言えなかった」

 言葉と、辛そうな表情に息を飲む。困惑とは裏腹に、どうでもいい疑問が零れた。

「……フランス人?」

「フランス人」

「つきあってたの?」

「片思い」

 下っ端につきあってる暇なんかない、と呟いて雄飛が立ち上がる。残りのケーキが乗ったお皿を持ってきて、甘い香りが一層強くなった。

「お互い上手くいかないな。でも、親父みたいに、最後の最後まで頑張ろうぜ」

 言いながら、雄飛がケーキを一切れ摘まんでかじりつく。「うん。美味い」と言って、ケーキを咀嚼する姿を見ていると、「お前も食え。空腹だから鬱っぽくなるんだよ」ひょいと、お皿に次のケーキを乗せられた。優しいピンク色を見ているうちに、新しい涙が滲んでくる。自分も辛かったのに、雄飛は私のことを心配してくれてたんだ。

「雄飛」

「ん?」

「……ありがとう」

「何が?」

 ケーキを食べる雄飛の頬が、微かに赤く染まっていて、私は泣きながらケーキを口に入れた。いつか私も……私達もこんな風に、綺麗な花を咲かせることができるだろうか。涙を流すことしかできないまま、私は桜色のケーキを食べ続けた。いつの日かきっと、巡る春に咲くと信じたかった。

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