怪傑紅百合武者 第一話

めがみこうご

第1話 紅百合武者参上!

野に咲く一輪の可憐な紅百合。

それは鬼百合などとも呼ばれ、その美しさにもかかわらず強い毒を持っていると言われている。

この物語は、太平の江戸時代末期、とある藩の不穏な動向に燦然と立ち上がった、紅百合のごとく姿美しき若者の活躍の始末記である。


江戸。

吉原。

某郭の座敷。

一人の美しい花魁が三味の音に合わせて華麗な舞を見せていた。

その場にいる他の芸者たちから歓喜の声が上がった。

「きゃーー。由良様すてきーー」

「綺麗—————」

「いよっ。花魁!!」

「なんか女のあたいが見てもぞくぞくするぐらいいい女じゃないか」

「男にしとくにゃもったいないよ」

「侍にしとくには…だろ」

「あーあ。あたいもこのぐらい美形に生まれてりゃあね。」

女たちの会話に合わせて、ほろ酔い加減の若武者、東馬藩嫡男の要が花魁に声をかけた。

「由良之丞。お前本当に美形だなぁ」

「要。もしも俺が女だったら、嫁にしたいか?」

舞いながら要に答えた美花魁は、実は、磐華藩の第六男の由良之丞である。

上に5人の兄のいる磐華藩では、第六男という者には期待も感心もない。それをいいことに由良之丞は江戸遊学ということで、江戸巣鴨村(現大塚駅付近)にある下屋敷住まいで遊び呆ける毎日だ。

そんな中、剣術道場で、隣の藩、東馬藩嫡男の要と知り合いになり、同い年ということもあって親しくなった。そして、時々要を連れ出しては、一緒に遊びまわっている。

由良之丞は生まれながらの美男子である。

街を歩けば十人中十人、女どもは振り返るほどだ。

体もどちらかといえば華奢で細身である。

時に女かと見間違えることさえある。

それで、時々、廓の座敷で戯れ、女装をして見せる。

そして、これがまた男なら誰でも引き込まれそうないい女に変身するのだ。

「俺じゃなくても、誰が見てもそう思うだろうさ」

要が盃を干して言う。

「そうかあ。俺も田舎の小藩の六男坊。ただの穀潰しだ。いっそのこと女形にでも鞍替えしようかね」

由良之丞が裾をシュっと畳に擦りながら回る。

「そうなさいよ。そしたらあたいたち、毎日お芝居見に行くからさ」

三味線を弾いている女がそう言った時、座敷の襖が思い切り開いて、若い芸者が一人、真っ青な顔で飛び込んできた。

「た、助けて!」

「きゃあ」

女たちが飛び退る。

するとそこに、酔っぱらった武士が抜き身刀を手に入って来た。

「おい!女!よくも逃げやがったな」

逃げ込んできた女は要の後ろに回る。

要が女に尋ねる。

「いったい何があった?」

「あのお侍がひどく酔って私をぶつんです」

女の話が聞こえたのか、酔っぱらい武士が喚いた。

「女郎の分際で俺を馬鹿にするからだっ!」

「馬鹿になんかしてない…。ただ飲み過ぎは体によくないって…」

「おい!若造!その女をこっちに渡してもらおう!」

抜き身をぎらつかせながら、男が要に詰め寄った。

「そ、そんなこと言っても、この女、怪我してるじゃないか。それに嫌がってるし…」

「何っ!貴様、斬られたいかっ!」

「ちょ、ちょっと、暴力はいけませんよ」

「うるさい!邪魔立てするなら斬る!」

酔っぱらい武士が、刀を両手に持ち替えてかまえる。

要は青くなった。

東馬藩嫡男で正規の剣術道場に通っているとはいえ、決して剣術が得意とは言えない。むしろ十人中八人には打ち負かされるほどだ。真剣の勝負などしたこともなければ全く腕に自信がない。

要が色をなくしている中に、女の格好をした由良之丞が立ちふさがった。

「なんだあ。貴様」

酔っ払い武士が吠えた。

「おやめなさいよ。ここは天下の吉原だ。そんな物騒なもんを振り回すところじゃないんだよ」

「何っ!愚弄すると女とて斬り捨てるぞ」

「へーーー。やれるもんならやってみな。そんななまくら刀、子どもだって斬れやしないよ」

「女郎————」

酔っぱらい武士は顔を真っ赤に怒らせながら、由良之丞に斬りつけた。

その瞬間、由良之丞は、振り下ろされた刀をくぐり酔っぱらい武士のふところに入り込むと、襟首をつかんで一本背負いで投げ飛ばした。

さらに素早い身のこなしで、倒れた酔っぱらい武士に当て身を食らわせる。

酔っぱらい武士は意識を失った。

「ふん。馬鹿が」

「つ、強い…」

要が呟いた。

「さ、飲み直そうぜ!今夜は要の江戸遊学最期の夜だ。酔いが醒めちまった。ぱーっと行こう!」

由良之丞が気絶した酔っ払い武士を廊下に転がすと景気のいい声で言った。

「きゃーーーー。由良様素敵ーーー!」

女たちが由良之丞にまとわりつく。

「要。お前が国に帰ったらさびしくなるよ」

由良之丞が要に盃を傾けながらしんみりと言った。

「俺だって帰りたくないさ。でもしかたない。兄がふたりとも相次いで死んだんだから…。でなきゃ、三男坊の俺だって、のんびり江戸でお前と遊べたんだ…。それを急にお家の跡継ぎだなんて…。なんだか実感ないよ」

「長男が川で溺れて、次男が食あたりか…。お前の家、呪われてんじゃねえか?」

「やめてくれよ。由良の丞」

「ま、そうは言っても、東馬藩主になれるんだ」

「自信ないよ」

「お前なら大丈夫さ。剣の腕はからっきしだめでも、お前はきっといい藩主になれる。おれが補償するよ」

「由良の丞…」

「ま、そんなしめっぽい顔すんな!お前の東馬藩と俺の磐華藩はすぐ隣。またちょくちょく会いに行くさ!」

「うん。俺たちは親友だ!」

目尻に涙を浮かべた要の顔を見て由良之丞は満面の笑みを返した。


一ヶ月後。

磐華藩江戸下屋敷。

朝靄が立ち込める中、由良之丞はこっそり裏木戸から由良の丞が朝帰りしてきた。

親友の要が国許に帰って江戸にいなくなっても、由良之丞はあいも変わらず遊び呆けていたのだ。

昨夜も廓で女たちと騒いでいた。

屋敷の裏木戸を抜け、庭の池の後ろを回り込んで自分の部屋に戻ろうとした時、ふと目を上げるとそこに険しい顔をしたお蘭が立っていた。

お蘭は、磐華藩非公式の忍び「霧風組」の棟梁の娘で、国許を離れて遊学中の由良之丞を守るためと、江戸の様子を磐華藩主に報告するために、江戸屋敷に出入りしていたのだった。

「由良之丞様っ。また、朝帰りですかっ!」

「お蘭!」

「なんですか!六男とは言っても磐華藩藩主のご子息が、毎日毎日酒と女遊びとはっ。まるで絵に描いたような道楽息子じゃないですかっ」

「朝っぱらからそうどなるなよ。そんでなくても二日酔いで頭ががんがんするってのに!」

その時、お蘭が由良之丞の化粧に気づいた。

「また女形のまねごとなんかしてぇ…」

「いや、このところ、女たちがやってくれやってくれってうるさくてね…」

「もーーーー。恥ずかしくないんですか!侍が女の格好なんかして!」

「そう言うけど、これでけっこういい女に化けられるんだぜ。お蘭なんかよりもずっといい女にさ」

お蘭のこめかみに血管が浮き出るのと手裏剣を由良之丞に投げつけるのとが一緒だった。しかし、由良之丞はそれを軽くよけて、ふわりと飛んでお蘭の頭上の木の枝に登り、そこに腰掛けた。

「二日酔いでも、私の手裏剣をよけるぐらいの身のこなしはできるようですね」

「身のこなしだけじゃないぜ。ほら」

由良之丞の右手にはいつの間にかお蘭のかんざしが握られている。

「私のかんざし…。いつの間に」

「磐華藩非公式の忍び『霧風組』の棟梁の娘にしちゃ、まだまだ修行が足りねえな」

お蘭が顔を真っ赤にしてくやしがる。

そこに、お蘭の部下のくノ一がどこからか現れ、お蘭の前に屈むと、胸元から一通の書状を出してお蘭に渡した。

「国許からの火急のお知らせでございます」

お蘭は書状を受け取ると素早く文字に目を滑らせた。

読み終わるとお蘭は由良之丞に言った。

「父からの書状でございます。由良之丞様をお連れして急いで磐華藩に戻るようにと」

「国へ帰れと?」



数日後、由良之丞とお蘭は磐華藩の小那濱城にいた。

磐華藩は南東北の小藩で、東方は海に面している。

小那濱城は海岸沿いの切り立った岩の上に建つ小城である。

城の中にいると打ち寄せる波の音が響き、カモメの声も聞こえる。

のどかで爽やかな城であった。


由良之丞は城に着くとすぐに藩主の信正の元に顔を出すように言われた。

藩主信正は由良之丞の兄である。

年の頃30後半。由良之丞とは一回り以上も上である。

磐華藩主として、落ち着いた風貌をしているが、由良之丞と同じ鼻筋の通った美男子である。

由良之丞は信正の前に着座すると、恭しく頭を下げた。

「兄上におかれましては、ご健勝なによりにござりまする」

「そう固くなるな由良の丞。お前、江戸ではかなり豪気に暴れてるようだな」

真面目な顔で信正は言った。

「……」

由良之丞はなんと答えていいか戸惑った顔になった。

「お蘭からの報告で聞いておるぞ。吉原百人切りとか、やくざと杯をかわしたとか、浅草ではお前の女形芝居に檀十朗がお前を手込めにしようとして逆になぐられたとか…」

「し、してませんよ、そんなこと!」

由良之丞は慌てて否定するが、全て見通されていると感じた。

「ま、どうでもいいが、そんなお前の豪気なところを買って、ひとつ頼みがあるのだ」

「頼み?」

「隣の東馬藩の新しい藩主、胤利どのはたしかお前と親しかったな」

「胤利?あーー要のことか。あいつ胤利様におなり遊ばしたか…」

「実は知っての通り、胤利どのの姉というのがわしの妻 お優なのだが、最近、東馬藩内になにやら不穏な動きがあると言うのだ」

「不穏な?」

「お優が申すには、胤利どのの二人の兄が、藩主になられて間もなく、相次いで命を落としたのは、実は何者かに暗殺されたのだというのだ」

「暗殺?!」

「うむ。お優は以前から二人の死に疑いを持っていてな。それで『霧風組』の忍びを使い、胤利どのと密かに連絡をとったのだ。するとつい数日前に、手傷を負った霧風組の忍びが、必死の思いでこの書状を運んで来た」

そう言って、信正は、血の付いた書状を由良之丞に投げてよこした。

「そこに、新しい藩主が相次いでなくなったのは、東馬藩筆頭家老 猫嚢栗(ねこふぐり)権左衛門とその部下 戸黒宗兵衛、そして宗兵衛のひきいる『影走組』の姦計によるものだと言うのだ。そして、気弱な胤利どのに圧力をかけ、猫嚢栗の娘 桔音(きつね)と夫婦にさせようと画策しているという」

「東馬藩乗っ取り?」

「うむ」

由良之丞は書状を開き、信正の言葉を聞きながら目を走らせた。

「書状には、私に助けに来てくれと書いてありますが」

「お前の強さと女装の特技を生かして、東馬藩に来てくれと……な」

「なんだこりゃあ!胤利の奥方として輿入れって!」

「桔音殿との縁談を断る口実だ」

「ええ?」

「それと、胤利殿の身辺警護のためでもある」

「ちょっと待って下さいよ。まさか、兄上は私に?」

「お優もひどく心配してな。もしもお前が磐華藩主の妹として胤利殿のもとに輿入れしてくれれば、百人力なのだが…」

「えーーーーーーーー」

由良之丞は耳を疑った。

「そ、そうは言っても、私たちには妹などいないことは…」

「いや。わからんだろう。実際、当家の男子が末っ子のお前、六男まであることさえ、藩中でも知らん者があるぐらいだ」

「まさか?俺が磐華の六男だと知らない家臣が?」

「六男ともなれば、だれも気にとめぬものなのだな…」

「がーーーーーん!!!!!」

「ま、そういうわけだ。兄であり磐華藩主の頼みだ!胤利殿のもとに輿入れしてくれっ!」

「………」


所は変わり、ここは磐華藩の隣国、東馬藩。

猫嚢栗権左衛門の屋敷は城下町の一等地にずっしりと建っている。

その広大な屋敷の庭で、権左衛門は池の鯉にえさをやっていた。

猫嚢栗の後ろの縁側に、戸黒宗兵衛が控え、藩主胤利の婚儀についての報告をもたらした。

その報告に猫嚢栗が顔色を変えて戸黒の方を振り返る。

「何?胤利殿が磐華藩の娘と?」

「百合姫様というお名でございます」

「百合…。聞いたことがないのお」

「婚儀は半年後。婚儀に先んじて、百合姫とお付きの者たちが城に入られると…」

「城入りはいつじゃ?」

「明後日」

「なんじゃと!急に!いったい…」

「胤利さまの姉上からのお計らいとか」

「磐華藩主奥方のお優さまか!?」

「二人の兄の死を疑っておるな…」

「それにしても、胤利め。筆頭家老のワシに相談もなく話を決めおって…」

「これで桔音さまとのお話はなくなりましたな」

「ひ弱な藩主と思うて、二人の兄のような手荒なまねはひかえてやったというに…。かくなる上は…」

猫嚢栗が険しい目で思案する。

「そう思い、かの者を呼びましてございます。こちらへ…」

戸黒が招くと、一人のあやしい男が廊下を渡り戸黒の後ろに控えた。

「闇斬り右京か?」

「………」

右京が沈黙のうちに軽く頷いた。

戸黒があごで右京を指しながら言った。

「以前我が藩に入り込んでいた女忍び二人を、こやつは見事に片付けました。この度も、こやつならぬかりなくやりましょう」

「先の二人はあまりにも容易すぎました。闇斬りのわざを使うまでもなく…」

「まあ、良いではないか。事を荒立ててご公義沙汰になっては御家取りつぶしとなるやもしれぬ。あくまでも事故…あるいはせいぜい不審死…ぐらいで殿が命を落とされるようにせねばな」

「委細承知。お任せを」

「百合姫との婚儀まではまだ間がありまする。姫がお城入りしたとしても、いくらでも機会はありましょう。わが配下の『影走組』もおりますれば」

戸黒が淡々と猫嚢栗に言う。

「まかせたぞ。戸黒。右京」

「はっ」


それから二日後、百合姫に女装した由良之丞は、お蘭を始め磐華藩『霧風組』のくノ一たちをお付きの召使いに仕立てて東馬藩白馬城に入場した。

そして、早速城の大広間で、胤利と再会した。

胤利は藩主となっても相変わらずひ弱で自信なさげな風貌で、上座について待っていた。

そこに、侍女に化けたお蘭にひかれ、由良之丞それらしく静々と入って来た。

由良之丞のあまりの美しさに、胤利の下座に座っている猫嚢栗、戸黒、その他家臣たちの口から驚きの声がもれる。

「こ、これは美しい…」

「このような美女が、隣国におったとは…」

猫嚢栗も戸黒も由良之丞の美しさに、思わず感嘆の声を漏らした。

由良之丞は視線を落としながらゆっくりと胤利の前に座した。

「百合にございまする」

由良之丞がしなやかに頭を下げる。

「苦しゅうない。おもてをあげられよ」

おもてをあげると由良之丞は胤利を見てウインクした。

それを見て胤利も嬉しくなる。

「信正殿から聞いておると思うが、弟の由良之丞殿とは江戸遊学時代に親しくてな。そのころにはよく一緒に遊んだものじゃ」

「まあ、兄上と!江戸での武勇伝など、ぜひ物語りいただきたいものでございまする」

「うむ。そうじゃ、明日わしは鷹狩りの予定じゃが、どうじゃ姫、一緒に行かぬか」

「私もおつれくださるのでございますか?」

「この様子では明日もよい天気であろう。狩り場の景色でも眺めながら物語りしたいものじゃ」

「楽しみでございますわ」

「うん。うん」


白馬城内にある家老部屋に戻った猫嚢栗は、脇息に持たれながら薄ぼんやりと宙を見つめて呟いた。

「うーむ。信正殿にあのような美しい妹があったとは…」

猫嚢栗のつぶやきに、戸黒が思った。

(桔音どのとは月とスッポン…だな)

と、急に思い立った猫嚢栗が戸黒に尋ねた。

「ところで、明日の手配はできておるだろうな」

「はっ。早速手配致しました。それはぬかりなく…」

「右京にか?」

「はい。殿は鷹狩りにて誤って落馬なされ、あわれ命を落とされまする。百合姫とのご婚儀もお流れになるかと…」

「そうか…。東馬藩もお世継ぎが絶えるか…。そうなると…」

「どなたかをご養子にとられるとか…」

「おお、そうじゃな。養子な」

「いかがでしょう。根墨藩よりご養子をいただいては?」

「おお、そうじゃそうじゃ。根墨藩の筆頭家老はわしの義兄であった。そして根墨藩主の側室は義兄の妹…。正室はお子に恵まれず、側室には幸い男子が二人おる。そのご次男か?」

「さすれば猫嚢栗殿の甥にあたる方を…」

「わしの甥…。戸黒、おぬしもよく頭がまわる男よの。ふふふふふふ」

「くくくくく」


翌日は快晴であった。

いつもの鷹狩りの狩り場は、かすかにそよ風が吹いて、鳥のさえずりさえ聞こえる。

その狩り場を東馬藩の家臣たちが馬の背に乗り走り回っている。

草原の小高い丘に胤利の陣がひかれている。

幕の張られた陣内の床机に胤利と百合姫が腰掛けてそれを眺めている。

馬を駆っている家臣団を見ながら、要が由良之丞に問いかけた。

「奴らは本当に狙って来るだろうか?」

「必ず来るさ。あいつらがこの機会をのがすものか。どうだ、要、怖いか?」

「そりゃあ、怖いよ」

「相変わらず正直だな。そういうところがお前らしくて、俺は好きだよ。ま、心配するな。要。俺がお前を守ってやる。そのためにここまで来たのだ」

「由良之丞…」

「やつらは俺がかよわい女だと思い込んでいる。それがやつらの誤算さ」

「お前が来てくれて本当に助かるよ。恩に着る」

「ばか言うな。お前が助けを必要とするなら俺はいのちをかけるぜ」

「ありがたいよ」

「とはいっても、まさか江戸での女形遊びが役に立とうとはなあ」

「なかなかいい女だぞ。どうだ、このまま男である事を隠して、わしの妻にならんか?」

「????!!!!」

「わははははははははは。冗談冗談。そんな顔するなって!」


そんな胤利の楽しそうな様子を、猫嚢栗が遠くから見つめ、眉間をしかめた。

(何も知らずに高笑いなぞしおって。まあ、それも今のうちだけじゃ)

猫嚢栗がそんなことを考えていると、そこに家臣が胤利の出馬を求めてやって来た。

胤利が床几を蹴って立ち上がる。

「さて、じゃあ行って来るぞ。百合姫」

「あい」


胤利は小姓の寄せた馬にひらりとまたがると、数名の家臣を引き連れて馬を走らせてゆく。

江戸遊学時代はちょっと頼りのない要だったが、自藩に帰って家督を継ぐと、なかなかの名君振りであった。

馬の手綱をキリリと引き絞ると、胤利は獲物を追って森の中へと入っていく。

ひんやりとした空気に触れ、緑の香りを吸い込むと、獲物の気配がより一層短に感じられる。

胤利がふと気がつくと、共の者たちの姿がない。

(しまった。罠か?)

そう思った瞬間、目の前に男が一人、ゆらりと立っていることに気づく。

胤利は手綱を引いて馬を止めた。

「何やつ?」

胤利の問いに、男は静かに答える。

「闇斬り右京。訳あって殿のお命、頂戴つかまつる」

言うが早いか、右京は刀を抜いて胤利の馬に切りつけた。

その刃はほんの少し馬の鼻頭を傷つけた程度だったが、馬はその恐怖で棒立ちになった。

あっと言うまもなく、胤利が振り落とされる。

猫嚢栗と戸黒の指示により、胤利が鷹狩りの最中に事故で落馬し命を落とすと言う状況が出来上がろうとしていた。

ところが、実際はそうはならなかった。

胤利が投げ出されて地面に叩きつけられると思ったその刹那、何者かが現れ胤利を受け止めたのだった。

「貴様!誰だ!」

右京が叫んだ。

見ると、真っ赤な鎧を着て顔を隠した武者が胤利を抱えて立っている。

「俺か…。俺の名は…そうだな…」

そう言って鎧武者は足元に咲く紅百合を見ながら答えた。

「紅百合武者…とでも名乗っておこうか」

「紅百合武者?」

「近頃、東馬藩主のお命をねらう不逞の輩がいるという。そいつらから殿をお守りし、悪を成敗する可憐な紅百合。それが俺だ」

「うむむ…」

「貴様の影で糸を引くのは筆頭家老猫嚢栗だな?」

「………」

「言わぬか。だろうな」

「紅百合武者だろうが何だろうが、邪魔な者は排除する。そして俺は胤利殿のお命をいただく!やっ!」

そう言うと右京は軽く地を蹴って紅百合武者に向かい刃の切っ先を突き入れた。

キンと鋼のぶつかる音が響き、紅百合武者の刀が右京の刀を弾いた。

火花が散る。

刀をはじかれた右京は、そのまま体を回転させ、今度は紅百合武者の斜め下から切り上げた。

しかしその時は、すでに紅百合武者はその場にはいない。

軽々と宙に舞い、間合いを取って着地。そっと胤利の体を地面に下ろした。

そして、それまで片手で構えていた大刀を両手に持ちかえて右京と対峙する。

隙のない紅百合武者に、右京がニヒルな笑みを浮かべる。

「なかなかやるな。紅百合武者とやら。面白い。俺も闇斬りのわざを使いたくてうずうずしていたところだ…。受けてみろ。秘技『闇斬り』を!」

そう言って右京は、刀を顔の前に縦に構えると何か呪文のようなものを小声で唱え始めた。

すると闇が辺りを包み、紅百合武者をも包み込んでゆく。

紅百合武者の目から右京の姿が闇の中に吸い込まれて行き、何も見えなくなる。

「闇が…。やつの姿が見えない??」

紅百合武者がつぶやいた時、いきなり右京のやいばが襲って来た。

(はっ)

とっさにかわしたが、左腕に血が流れ落ちてくるのを感じる。

間一髪でよけた時に、傷を負ったようだ。

(くそっ)

狼狽する紅百合武者に向かって、右京の声が闇の中から響いた。

「ほお、わしの剣をかわしたか。なかなかやる。だが、次はかわせるかな?ふふふふふ」

再び呪文を唱えるような右京の低い声が紅百合武者に届くと、またもや闇が渦を巻いて百合武者を包みこんでんで行く。

(どこだ…)

紅百合武者は必死に目を凝らして闇の中に右京をさがすが見つからない。

さすがの紅百合武者もあせりを覚えてきた。

(だめだ。このままでは…)

(闇斬り右京はこの闇で俺を不安にさせ、あせらせて、その心の乱れに乗じて攻撃してくるつもりだ)

(このような時こそ心を安定させなければ…。そして神経を研ぎ澄ますのだ…)

そう考え、紅百合武者は刀を構え直し、目を閉じる。

鳥の声、川のせせらぎ、森の木々をゆらすそよ風の音が聞こえている。

その時、右京の足が草を踏む音が聞こえる。

かさっ。

それは紅百合武者の左斜め後ろからのものだった。

「そこだ。必殺剣鬼百合香嵐!」

喝を入れながら、紅百合武者は振りかぶりながら体を回転させつつ膝を折って身を沈めた。

そして、流れるように腕を右に振り下ろしていった。

するとその闇の先に確かな手応えを感じた。

「ぐはっ」

右京だ。

紅百合武者の一刀が、みごと右京の首を横からはねていた。

鮮血を吹き出しながら首の飛んだ右京の体が前のめりに倒れる。

かっと目を見開いた右京の首が、紅百合武者の後ろに飛び、ころころと地面に転がった。

「ふうっ」

紅百合武者が右京の骸をながめながら緊張を解いた。

そこに、意識を回復した胤利が駆け寄ってくる。

「紅百合武者とやら、お主…。由良之丞か?」

紅百合武者が、かぶっていた兜鎧をはずすと、そこには笑顔の由良之丞があった。

そんな由良之丞を見て、胤利も笑みを浮かべた。

爽やかな風が、森の中を吹き抜ける。

遠くで胤利を呼ぶ家臣の声が聞こえた。


翌日、猫嚢栗の屋敷では、相変わらず池の鯉に餌をやりながら戸黒の報告を受けていた。

「あの右京が斬られるとはのぉ…」

「遺体のそばにこのようなものが…」

戸黒が猫嚢栗に一枚の紙を渡す。

そこには「紅百合武者参上。殿のお命お守りいたす」と書いてあった。

「紅百合武者だと?」

猫嚢栗が眉をしかめながら訝しんだ。

「あの闇斬り右京を倒すほどの腕前。ただ者ではないかと…」

戸黒の評価に猫嚢栗もうなづく。

「一体何者なのだ…。紅百合武者とは…」


その頃、白馬城の奥座敷では、由良之丞が脇息に持たれてお蘭に語りかけた。

「これで猫嚢栗もしばらくは手が出まい」

「油断はできません。戸黒の配下の『影走組』もおりますれば…」

「影走だか犬走だか知らねえが、やっつけてやるさ」

由良之丞は笑いながらお蘭の手を取る。

「それにしてもこんなところでこんな格好してちゃ、女遊びもできやしない。しゃーない、お蘭でも抱くしかないか…」

「まあ!お蘭でもとはなんですか!お蘭でもとは!」

お蘭が頬を膨らませながら由良之丞の腕をつねった。

「いてててて。そこは右京に斬られた傷が…」

「ふん!」

お蘭が、いい気味と思いながらそっぽを向いた。


第一話 完





































































































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