第5話


 あの時の流緒の口づけは、まるで毒のように紗羅をさいなんだ。

 絡みつく細い舌が、口の中を這いずり回り、思い出せば食事ができない。目をつぶれば、陶酔に身をゆだねた一瞬を思い出し、眠ることができない。

 苦しみのあまり、紗羅は起き上がることもできなくなった。

 何か悪い病に付込まれたのかも知れない。その後、激しく発熱し、意識が混濁するときすらあった。

 国が存続の危機にあり、しかも国民の希望であった紗羅である。時期が時期だけに病状は伏せられた。

 珠耶は本当に紗羅が死ぬのかと心配した。

 紗羅は何度かうなされて兄の名を呼んだが、流緒にはけして伝えぬように……と、言い続けた。

 流緒に会いたくないのは、彼が恐ろしかったからかも知れない。

 だが、苦しむ姿を人に見せぬようにと育ってしまった紗羅の強がりだったかも知れない。それとも、やつれた姿を流緒に見せたくなかったのかも知れない。

 とにかく、紗羅は完全に流緒を避けた。

 数日後、熱が落ちついた頃、紗羅は毅然と立ち上がった。

『私が寝込んでいては、この国はだめだわ』

 そう言いつつも、紗羅は立ち上がるのが苦しいほどに弱っていた。

 なんと濡羽色の髪は失われていた。まだ少女だというのに所々に白いものが混じっていた。頬も落ち、目も充血で真っ赤になった。

 これでは、民人の前に姿を見せられまい。彼女は染め粉で髪を染め、素顔を隠す濃い化粧をした。

 その痛々しい体で、紗羅は流緒に手紙を書いた。そして、父王に進言し兄を追放した。

 珠耶は、正直驚いた。

 あれだけ、兄と慕っていた流緒を、異形の者として追放するなどとは。確かに、禍の元とも思われている王子を追放すれば、すこしは民の希望も繋がるかも知れないが……。

 だが、はっきりと紗羅は言った。

『これ以上、流緒をこの国の犠牲にはできない』




「あの紗羅様が、すっかり打ちひしがれて床に臥せるとは……。そしてあれほどの容姿の変化は、信じられませんでした。最初は……国存亡の危機でありますから、さすがの紗羅様も気丈ではいられないのだろうと。そう思いました」

 珠耶は、それでも変化のない滝の――滝の中にいるであろう竜人に向かって語り続けた。

「あの時……紗羅様は、初めてあなた様のことを【兄様】とは呼びませんでした。それで、私も気がついたのです。紗羅様の本心に……」




 聡明な紗羅は知っていた。

 沙地の国には、敗北が迫っている。風輪の支配下に下るのは時間の問題であろう。そうなれば、王族の行く末は決まっている。

 忌み嫌われようが、流緒は沙地の国の第一子であり、王子である。何かと邪魔になる王族の男を、風輪は必ず処分するだろうと。

 だから、そうなる前に兄を――いや、愛しい男を逃がしたのだ。

 そして、案の定……風輪は王を殺した。

 表向きは自殺としたが、実際は惨殺である。泣いて命乞いする王を、紗羅の目の前で切り刻んだ。

 父親を殺された少女は、恐怖を知り、さぞや従順になるだろう……風輪はそう考えた。そして、まだ若い紗羅を女王として添え、実質的に沙地の国を支配しようとしたのだった。 

 しかし、わずか一年で、風輪は紗羅を見くびっていたことに気がついた。

 紗羅は傀儡でありながらも、風輪の思い通りになる女王ではなかったのだ。風輪からの締め付けに対しては、断固として抵抗を示し、国民の前にあっては、無理に作った美しい笑顔で希望を振りまくのだった。


 婚姻による和平――それは、竜神の末裔たる王家に、風輪の王家を組み入れることである。

 実質上の沙地王家の崩壊。国の他国支配を意味する。

 だが、再び戦えば勝ち目は少なく、多くの犠牲が出るだろう。

 王族として民の平和を望むならば、結婚を受けるしかない。

 ――そう思おうとしても思いきれない。

 紗羅は、自らの罪深さに震えた。自らの身さえ犠牲に捧げれば、誰も傷つけることはないのだ……と思おうとしたのだが。

 ――実の兄に、恋心を抱くとは愚かしいにもほどがある。

 しかし、あの日を境に自らの気持ちに気がついてしまったのだ。流緒を守りたく思うその本質に。

 まるで生まれたときから決まっていたかのように、紗羅は流緒に惹かれたのだ。

 お互いがお互いの欠けているところを持ち、共に生きることでひとつの者となれる存在。

 なのに、常に光の下で生きてきた紗羅は、自らの邪な思いを受け入れられず、禁忌を犯すことを恐れたのだ。何も捨てるもののない兄のほうは、まっずぐに紗羅を見つめていたというのに……。


 ――怖くて……応えられなかった。

 そして今、こうして遠く離れて存在している――。


 紗羅は、日々、流緒を思い、唇の感触を思い出し、そして……抱きあいひとつになる二人を想像した。

 流緒の舌先が、紗羅のあらゆところを這い回る。内からも外からも、絡みつくように。その甘美な感触に紗羅は瞼を下ろす。口元から吐息が漏れるころ、瞼で隠された目は竜人のように裏返る……。

 が。甘い夢はそこで覚める。酷い違和感。そして嫌悪。

 この甘美な世界に他の見知らぬ男という異物を組み入れることは、紗羅には不可能だった。

 国と恋の狭間で、紗羅が死以外の選択を考える余地はなかった。


 その夜、紗羅は【竜神の末裔】の血筋をひく者の名簿を焼き捨てた。

 紗羅が死んだ後、同じ運命を引き継ぐものが現れるかも知れない。王族さえ見つからねば、竜神伝説を恐れる風輪は王位を継ぐ方法を持たない。風輪の自由にはならないだろう。

 その行為をいぶかしむ珠耶たち付き人が下がった後、紗羅は自室の大鏡の前に立った。

 結い上げている髪のかんざしを外す。さらりと髪が肩に落ちる。

 かつて、濡羽色の髪といわれた髪は、老婆のように白いものが混じった。染めて染めて……押し隠そうとしても、もう隠すことはできない。

 群青の目には赤い血の色が混じり、綺羅星が浮かぶこともない。この闇にあって希望のひとつも見出せない。民に希望を与え続けた紗羅だったが、紗羅のためには残っていなかった。

 流緒と別れて二年が過ぎていた。

 芳しくない戦況と幽閉同然の日々のせいか、日に当たることのない紗羅の肌は青白かった。

 だが、鏡に写ったその顔を見て、紗羅は微笑んだ。

『流緒……』

 まるで、その顔は……竜人にでもなったかのように見えたのだ。


 ――最後に、もう一度会いたかった……。


 紗羅はかんざしを首筋に当てた。

『あなたが背負ってくれていたものは、こんなにも重かったのね』

 チクリ……と首筋に痛みが走る。それを押し込める前に、紗羅は目をつぶった。

『私には、耐え切れない』


 ほんのわずかな差だった。

 かんざしが紗羅の首深く刺さるのと、珠耶が慌てて奪い取るのと。

 ほんのわずかな差で、運命は後者を選んだ。

 あまりにもおかしな紗羅の態度に、不安を感じて珠耶たちは戻ってきたのだ。数人の付き人が紗羅を組み押さえた。珠耶は怒鳴った。

『紗羅様、なりません!』

『離しなさい! 死なせてください!』

 体力に勝る付き人たちに押さえ込まれ、あっけなく紗羅は屈した。だが、口だけは抵抗を試みていた。

『私は沙地のためにも死ぬべきなのです! 風輪の王家に支配の正統性など与えたくもない!』

『紗羅様! 我々は堪えます。堪えますから……紗羅様も……』

 口々に誰もが叫ぶ。それは、風輪の支配に屈しても、どうにか民を守ろうという付き人たちの気持ちなのだろう。

 だが、紗羅には、死ななばならない別の、本当の理由があった。

『私には、堪えられません』 

『流緒様はいかがするのです?』

 突然、珠耶が竜人の名を出した。

 その名を聞いて、紗羅ははっとした。

 珠耶には、この気持ちが知られているのでは? などといぶかしみながらも、平静を取り繕うとした。

『何のことです?』

 珠耶のほうといえば、まさかとは思った反応に、心を痛めていた。

『これは沙地の国のことです。王族の存亡に関わる事態です。お一人で抱える問題ではございませぬ』

 紗羅が落ち着いたようなので、珠耶も一呼吸置いた。そして、紗羅の首に布を当て、止血した。

『唯一のお身内となられた流緒様に、何の救いも求めぬのはおかしいではありませぬか? ましてや、流緒様はこの国の王子であられますのに』

 その時の紗羅の表情を、珠耶は忘れられないだろう。

『流緒を……兄様を、王族と認めてくれるのですね?』

 花が咲いたような、ほっとした笑顔。

 よもや、と思ったが。

 紗羅を救えるのはもう流緒しかいないと、珠耶が悟った瞬間だった。

 珠耶は苦い思いを押し隠し、何度も何度もうなずいた。他の者たちも涙を流しながら、そうだそうだ、と同意した。

 兄の名に頼る珠耶の態度が、かたくなな紗羅の心を軟化させたのだった。

『紗羅様、十の日、いや、七の日だけお時間をください。明日、翼竜をこっそりと出します。有志を募り、必ずや、流緒様に』




「紗羅様はあなた様を愛しているのです」

 確信したくはなかったが、口に出せば出すだけ、その言葉は真実を帯びた。

「ですから、私はこのようにして恥を忍んで……あなた様のご慈悲にすがるために参りました」

 流緒が説得すれば、紗羅は死なずに風輪の王子と結婚するだろう。

 我が子のように愛しい紗羅を、そして沙地の国の女王を失わずに済む。

「王宮に戻り、紗羅様を……お救いしてください」

 懇願しながらも、珠耶の中で、ふつふつと悲しみがわいてくる。


 ――なぜ、このような忌まわしいことが……。

 相手は竜人なのに。実の兄であるのに。


 紗羅が愛せば愛するほど、紗羅を不幸にするだろう竜人が憎かった。

 そう、珠耶は竜人を恐れていた。嫌ってもいた。

 そして、沙地の国の誰もがそうだった。

 その気持ちは、一日二日で変わるものではない。

 だが、紗羅を説得し思いとどませることができる者は、もうこの竜人しかいないのだ。

 心にもないお世辞でも侘びでも何でも言うつもりだった。命で償ってもいいと思った。

 ただ、他の男に身を委ねるならば、死を選ぶ……と誓っている紗羅の気持ちを変えられるのならば。

 ここまで来る間に仲間を見捨て、夫を犠牲にしてやってきた。

 卑怯者と言われようが、勝手だと言われようが――竜人の力が必要なのだ。

「あなた様に戻っていただかないと、紗羅様は死にます! あぁ、流緒様。なぜ、何も応えては下さらないのです?」

 ついに珠耶は立ち上がり、自ら滝の中に押し入ろうとした。

「流緒様! あなた様は紗羅様を愛してはいらっしゃらないのですか? それとも憎んでいらっしゃるのでしょうか? あぁ、そうだ、そうに違いない。他の男のものになるなら、死ねとでもおっしゃる!」

 ざぶり、と水が揺れた。

「紗羅様を殺すおつもりか!」


「触れるな!」


 滝の流れに珠耶が入ろうとした時。

 初めて流緒の声が響いた。

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