第4話
流緒が十六歳を迎えた頃――。
夕陽が大きく見える王宮の屋上で一人、日に当たらぬよう布を頭からすっぽりと被って、時間を過ごすのが日課となっていた。
唯一、流緒が日を見ることができるのは、上りかけの弱い朝日か、沈みかけの弱った夕陽だけなのである。
かつて浅はかな願いのために、肌を焦がして死にかけた。もう流緒はそのようなまねをしない。だが、確実に……体は変化していた。
少しずつ、日の中にいられる時間は延びてきている。そして、肌に色がついてきている。人の間に生きて七年。徐々に人間に近づいているのだ、と流緒は思った。
そして、紗羅と過ごせる時間も増えた。だが、さらに……もっと近くと、流緒は願わずにいられない。
願いとは、ひとつ叶えはひとつ増える。
邪な願いだ――と流緒は思う。
紗羅の側にいられればよいのだ、それ以上は望むまい……と己に言い聞かせることが多くなった。
紗羅が兄を探してその場に来た時、太陽は砂漠に半分落ちていた。
『兄様』
その声に振り返る流緒の被り物が風で外れた。風が長い髪を舞い上がらせると、白色に夕陽の赤が絡まった。
昼の日差しの中で生きる漆黒の髪。夜にしか生きられぬ銀白の髪。
紗羅は思い出していた。
共に手をとり王に歩み寄った席で、人々は二人を一対として見つめていた。そして、感嘆の声を漏らしたはずなのに。
名を呼ばれて振り返る兄は、異形だが美しい。そして、繊細で儚げである。
紗羅に欠けているものを持ち合わせ、また、紗羅が持っているものを何一つ持たない。
この兄を守りたいと思うのに……日々、その願いは遠くなる。
『……砂門の地が、風輪に落されたそうです。これで、沙地の要所はすべて風輪に押さえられたことになります』
屋上から見える砂漠の果てに、戦火はあった。
長きに渡って、隣国の風輪とは均衡状態が続いていたが、前年ついに些細なことで戦いの火蓋が切って落された。
紗羅は何度も父王に、それは敵の挑発である、乗ってはいけないと警告した。だが、怒りに目がくらんだ王には聞き入れられなかったのである。
それどころか、ここ数年悪いことが続くのは、闇に住まわせるべきの竜人を王宮に招きいれたからだ、などと言い出し、ますます流緒を忌み嫌ったのだ。
人々の仕打ちは惨くなっていた。王に倣って、民もすべて流緒を憎む。そして、その反動で紗羅を愛するのだった。
王の愚かな政によって崩壊寸前の王国は、紗羅という綺羅星のために民の心がひとつになっていた。
それを思えば、流緒の存在は大きいといえるだろう。流緒が憎まれることによって、紗羅はますます愛される存在となってゆくのだから。
たしかに、流緒は日の中にいることができず、軍を率いて戦争にはいけない。だが、薄闇の屋内でならば、剣も弓も人並み以上の使い手である。王族としての勉学も極めた。
それでも、流緒は王族として扱われないのだ。異形であるがゆえに。
ふと伸ばされた手が紗羅の肩に触れた。その先に紗羅は目を移す。
袖口から覗いた手の甲が赤みを帯びているのは、傾いた日差しに照らされて焼かれたからではない。紗羅の与り知らぬところで、誰かが打ち据えたからなのだ。
紗羅が王宮へ招き入れたその日から、数え切れぬこのような傷を、兄は体中に忍ばせているのかも知れない。
やり返そうと思えば、今や倍にして返せるほどの力を持っているはずなのに、兄は常に甘んじて受ける。
たおやかで強い。紗羅よりも、強い。
――なぜ、そのように微笑むことができるのか?
『心配はない、紗羅。約束する。戦いがこの地まで迫ったら、命にかえても、おまえを守ってあげるから』
『そのようなことをおっしゃらないでください……』
紗羅は悲しそうに目を伏せた。
流緒はくるりと眼球を回す。
ここ数年で、紗羅はますます美しく成長した。
日に少しだけ慣れ、人らしくなり、側にいられる時間が増えると、更なる願いが沸いてくる。願望を通り越した、欲望とも言える願いだった。
所有したいというわがままで邪な……。
夕陽に映える彼女の桃の頬を見ていると、時々喰らってしまいたい衝動に駈られる。細長い舌が、ひゅるり……と唇の間から漏れた。気がつかれぬよう、見られぬよう、慌てて欲望を丸めて口の中にしまいこむ。
狂おしいほどに……欲しい紗羅。
その妹のためになっていると思えば、打たれようが罵られようが、流緒はこうして微笑むことができた。
『私は、なぜこのような姿で生まれてきたのか? などと考えることがある。試したことはないのだが、竜人は成長すると人ならぬ力を持つという。だから、思うのだ。おまえを守るために、その力を使うために……』
『やめて! 兄様』
それ以上聞きたくはないとばかり、紗羅は両の手で耳を塞いで、兄の言葉を遮った。
『違います! 兄様と私は……きっと二人で一人なのですわ。どちらかがどちらかのために、一方的に不幸を背負えば二人とも不幸になるのですわ』
紗羅はそういって涙を流す。
夕陽はすっかり没した。まさに、沙地の国も黄昏であった。
紗羅も最近は泣くことが多くなった。
だが、人々の希望でもある彼女は、流緒の前でしか泣けなかったのである。人々の希望は、紗羅に気丈な態度ばかりを要求したのだ。
流緒は、最近になってその苦しみを理解するに至り、時に妹に同情さえした。人に避けられることも苦であれば、常に人に見つめられることも、やはり苦なのだ。
闇は流緒を守り、孤独にした。
だが、光は紗羅を輝かせ、やはり孤独にした。
『紗羅……』
抱き寄せた体は、かつての子供ではない。紗羅は、蛇に抱かれる雛鳥のように柔らかく、しかも、抱く者の邪心を知らない。
あまりに無防備に、腕の中にすっぽりと納まってしまう。そして、まるで恋人に懇願するように、震える声で訴えるのだ。
『お願いですから、不吉な言葉を言わないでください。私を一人にしないで……』
紗羅にとって、流緒は常に兄であろう。だが、流緒にとっては違った。
初めて真直ぐに向き合ったときから、紗羅は流緒のすべてになったのだ。畏怖であり、憧れである陽光のような存在――けして手に入らぬもの。
流緒は、常に闇の狭間に身を潜めて、まるで覗き見るように紗羅を欲していたのだ。伸ばしても手は届かず、ただ岩陰からちろちろと舌を躍らせているだけの――
あの日、日に焼かれて死にかけた時、紗羅を見つめながらならば、そのまま息絶えてもよかったのだ。
むしろ、それが願いだったかも知れない。
それで流緒は幸せだっただろう。
だが、紗羅は――
『お願いですから、私のために死なないで……』
その言葉が紗羅の唇からもれたとき、生きることを許された……と、流緒は信じた。
言葉のすべてを絡めとるように、流緒は紗羅に口づけした。
竜人の細長い舌で。言葉が逃げていかぬよう……。
――わずかな時間。
それはけして兄妹の口づけではなかった。絡み合う舌は、甘さを求めてお互いの口の中で追いかけあった。
内に秘められ押し込められていた希望・願望・欲望が、すべて解きはなれた瞬間。流緒は、紗羅を内からも外からも舐めつくしたような妄想に捕らわれていた。それをまるで肯定するかのように、紗羅の瞳は、伏せられた瞼の奥でまるで竜人のように裏返った。
陶酔感……。だが、それはほんのわずかな時間だったのだ。
紗羅の両手が流緒の胸にあてがわれ、強く押される。お互いの体を突き放すように。
伝承の時代、竜巫女たちは兄妹で愛しあったという。
だが、今は違う。かつての竜神信仰は薄れ、迷信とされ、異国の教えが世に広がった。兄妹が愛し合うのは許されぬ大罪。禁忌である。
真正面から見つめあう目と目――群青の瞳に涙と恐怖の色が浮かんだ。
そして、伏せられた。もう二度と紗羅の目は真直ぐに流緒を見ることはなかった。
出会いの時から遡って、紗羅は初めて流緒を拒絶した。
『紗羅……?』
許された……受け入れられたと思ったのは……。
何もかも流緒の思い違いだった。
漆黒の髪が激しく踊った。すべては、流緒の手をすり抜けた。
紗羅はものすごい勢いで走り去ってしまったのだ。
その後、沙地の国の戦況はますます悪化した。
同盟という名の支配を風輪が持ちかけはじめ、じりじりと敗北の色が増してくる。沙地の国は、暗雲に包まれていた。
その不安定な状況にあって、流緒と紗羅は一度も顔を合わせることはなかった。紗羅は、明らかに流緒を避けた。
人々の目はますます冷たく、嫌がらせはますます増える。それさえも妹のためと堪えてきたのに、その妹にさえ相手にされなくなった。
邪な想いを行動に表してしまったのだから、やむなしである。流緒は自分を呪った。
そのような中、珠耶が紗羅からの手紙を持って、流緒の部屋を訪ねた。流緒はその手紙を読み、自嘲の微笑みを浮かべた。
『紗羅が私を追放するならば……去るしかない』
こうして、沙地の国が危機的な状況下、竜人という異形を理由に流緒は追放された。
人々は災厄を呼ぶ王子の追放を喜んだ。
流緒に贈られた最後の祝福は石つぶての雨だった。ぼろきれを何層にも羽織り、日差しを避けるようにして、誰に見送られることなく、王子であるべき流緒は去った。
門を出たあと、一度だけ未練がましく振り返ったが、そこには砂と黒々とした重たい扉があるだけだった。
その後、流緒は竜人が住まうと噂されているはるか遠くの深森に住みついた。もしも、彼が取替え子であるならば、自らの本来の故郷に帰ったともいえるだろう。
そして、沙地の国のほうは……。
流緒が去って一年の後、風輪との和平がなって平和が戻ってきたのである。民人の間には、諸悪の原因の竜人が去ったからだ、という者さえいた。
だが、和平成立の祝いの夜、王は自らの命を絶った。王宮の内では、民人があずかり知らぬことが数多く起きたのだった。
風輪は、紗羅を女王として認めた。
そして、その一年の後、王子との婚姻を迫るに至ったのである。
「あの手紙は……確かに紗羅様が書いたものです。民が絶望に打ちひしがれていたあの時、誰もがあなた様を憎んでおりましたゆえ」
両手で地面の土を握り締め、珠耶は涙を流した。
「ですが……。紗羅様は、とても苦しまれたのです。ええ、それは見ているのも辛いほどに。何日も寝込まれたことをあなた様はご存じないでしょう。それこそ、命を失いかねないほどに」
紗羅が死にかけたと聞いても、滝に変化は起きなかった。
珠耶は絶望した。
流緒は、追放されたことを恨みに思い、紗羅を救う気など起きないのに違いない。珠耶ごときが命をかけて懇願しても、積み重ねてきた日々を鑑みれば、あまりにも都合のよい話ではないか。
願い事どころか、復讐されても文句の言えない立場である。
――だが……紗羅は。
「流緒様! 紗羅様は、あなた様をお救いしたかったのです。紗羅様は!」
珠耶は一瞬口よどんだ。
竜人ごときに言いたくはない。この事実を認めたくはない。
だが、これだけは伝えなくてはならない。
――紗羅が死ぬ唯一の理由。
「紗羅様は……あなた様を愛しておりますゆえに」
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