第3話


 生まれて九年の年月を経て。

 日差しに当たることができない不気味な王子は、民人の間に初めてさらされることとなる。

 もはや伝説となった竜人である。好奇の目以外、何もなかったといえるだろう。連れられて歩く王宮の通路は、下方より宮仕えの者たちが控えており、人慣れしていない流緒には、苦痛だった。

 王宮の天井は、沙地の国では高級品とされる杉の木を組んで造られていた。色とりどりの装飾は、宇宙を表す文様――つまり、星、月、太陽である。眩いばかりの細やかさに、流緒は落ちつけない。

 今まで過ごしてきた岩屋の天井には、星も月も太陽もない。ただ、岩があるだけだった。

 足元に広がる世界も、岩屋とは違いすぎていた。珍しい大理石に蒼石、緑玉、薔薇石などを埋め込んだ象嵌細工。一部盛り上がったところは、白磁に絵付けされたタイルが埋め込まれていた。

 そこに流緒は足をとられた。

 ばたりと、石の床に音が響いた。上手く手を出したので、顔を打つことは免れた。だが、別の意味で顔が熱ってくる。

 王族らしからぬ足取りと落ち着きのない様子。それだけで、人々の間から侮蔑的な気が感じられていた。流緒が転び、床に落ちた瞬間より、今度は忍び笑う声があちらこちらから湧き上がったのだった。

 流緒の透き通るような白い肌は、みるみるうちに血の気が差して赤くなった。

 孤独な世界から抜け出すことができた喜びは、あっという間に後悔に変わる。このような視線を浴びるくらいならば、誰もいないほうがいい――流緒は、きりきりと唇を噛んだ。

 しかし、人々の侮蔑の笑い声は、一気に収まった。

 まるで異世界に飛んだように、空気が変わった。

 流緒は自分を起こそうとする小さな存在に気がついた。紗羅がいずこからか走りより、助け起こそうとしたのだった。

『兄様、大丈夫ですか?』

 群青の瞳は、赤の瞳を真直ぐに見つめる。そこには、恐れも好奇の色もなかった。

 差し出された手。変化した世界。穏やかな気が満ちる。

 そう、ここは紗羅の世界。紗羅の作り出す空気に、誰もが心和らぐ世界なのだ。

 ぐるり、ぐるりと流緒は瞬きした。

『大丈夫だが……私はこの場には不要なようだ』

『不要な者など、おりません』

 不思議な説得力だった。小さな手を、流緒は握りしめた。

 そうすることで、もうこの場から歩みことはできないと思っていたのに、すっと立ち上がることができたのだ。

 紗羅と流緒はそのまま手をとり、王の前まで歩み寄った。

 紗羅がすっと体を沈めてお辞儀すると、流緒もつられて腰を折ってお辞儀した。

 漆黒と蒼白。群青と紅蓮。二人の姿は、まさに対照的だった。

 思わず、人々の間からため息にも似たどよめきが起きた。誰しもが、まるで二人が一対であるかに感じたであろう。

 王でさえ、ううむ……と声を漏らしたのだった。

 だが、説得されたとはいえ、王は流緒に愛を示すことはなかった。

 流緒にとって、たった一人で過ごすことができた岩屋のほうが、楽園に感じられるまでには、さほど時間が掛からなかったのである。




 流緒は、王宮の日の当たらない場所に小さな部屋をもらって住んだ。

 そこは、まさに日の当たる紗羅の部屋とは正反対の位置にあり、岩屋のように陰湿でもあった。いや、広く遊べる空間もあり、奥に深い洞窟があり、一人遊びで冒険ができた岩屋のほうが、この狭苦しい空間よりもずっとよかった。

 風の入る小さな窓があったが、陽光が差し込むのは年にわずかな間だけ。しかも、日に当たれぬ体では、その時期は日中でも木戸を締め切らねばならなかった。

 日の差し込まない日に窓を開けても見える景色はなかった。かつて住んでいた岩屋のある岩山が、手に触れるほどに近くに見えるだけであった。それでも流緒は、時とともに移る岩の陰影の変化を楽しみ、日の恩恵を間接に享受した。

 結局、七年間、流緒はこの部屋に住むこととなる。

 躾もろくにされていなかった流緒は、この部屋で様々なことを体で覚えさせられた。

 竜人にとって瞬きである行為も、品がないといって止めさせられた。くるり……と眼球が回ったとたん、激しく叩かれ、蹴られることすらあった。

 今まで学問らしい学問をしていなかった流緒は、短期間で王族としての教養を身につけることを強いられた。

 最初の一年は、聡明な妹と比較され、嫌がらせともいえる教授を受けた。しかし、彼は、脅威の早さで知識を我が物とした。

 それは、ただ泣くしかなかった流緒に【なぜ?】という疑問を持たせる知識でもあった。

『不要な者だ』

『不要な者などいません』

 紗羅の言葉が耳に残った。

 なぜ、竜人としてこの世に生まれてきたのだろう? 流緒は日々、自分に問うてみた。


 ――はたして、この呪われた身に生きる意味があるのだろうか?


 竜人ならば、闇で生きるしか方法はない。憧れてやまぬ陽光の中に身を置くことはできない。

 だが、もしも人の血が少しでも残っているのであれば――日に慣れたならば人になれるかもしれない。

 人であれば……。

 半ば幽閉されたような日々の中、時に流緒は王宮の果てのほうへと思いをはせた。

 そちらは、光があふれる空間――紗羅の世界だった。




 紗羅は、時々流緒の部屋を訪ねてきた。

 しかし、それは毎日ではない。週に一度もあればいい。しかも、ほんのわずかな時間だった。

 薄闇の中で微笑んで、一言二言の言葉をかけて帰ってゆく。そのわずかな逢瀬が、流緒の唯一の楽しみだった。

 流緒は、いつも微笑んでいた。紗羅に会うのがうれしかったから、心から笑えたのだ。流緒の苦しみはその笑顔に隠蔽されて、聡明な紗羅すら、騙されてしまったのかも知れない。

 だが、珠耶をはじめとする付き人たちは、紗羅が流緒と会うことを嫌がっていた。

 紗羅と会ったその夜は必ず、彼らは流緒のもとにやってきた。そして紗羅と過ごした時間の倍、態度が悪いやら、言葉が悪いやら、色々な理由をつけて、流緒を折檻した。

 流緒の傷が癒える頃、再び紗羅が訪ねてくる。そのような日々の繰り返しだった。



 ある日、紗羅は庭に咲いている花を摘んできてくれた。

 色とりどりの花。流緒は美しさに感嘆した。爬虫類の目をくるり、くるり、と何度も回す。

 陰湿な部屋に明るい日差しが差し込んだよう……いや、光は花を部屋に飾ってくれる紗羅のほう。

『光があれば、もっと鮮やかに見えるものを……』

 うっかりと紗羅がつぶやいた言葉を、流緒はしっかり聞いていた。

 芳しい香り。うっとりとする紗羅の胸が、深い呼吸で上下する。

 その胸は、ふっくらと蕾のようにふくらみはじめている。胸元で折り重なる衣の衿は、まるで色とりどりの花びらのようだった。

 沙地の女は、大人になると髪を結い上げる。紗羅はまだ子供である。最近になって結い上げるようになった髪は、まだ馴染まないのか項に後れ毛を残していた。

 触れたくなる。だが、薄闇の中、流緒の手は躊躇する。

 やっと少し、手を伸ばしたところで、時間が尽きた。

『この花が枯れるまでに、また会えるといいのだけれど……』

 紗羅はそう言い残した。

 

 その花が枯れ果てた日、流緒は日が差し込む渡り廊下を通り、紗羅の世界へと足を運んだ。それは、日を恐れる流緒にとって、かなりの冒険であった。

 美しい妹の姿を、岩屋の闇の中ではなく、王宮の天井の下ではなく、日差しあふれる世界で見てみたかったのだ。

 書物によると、肌は日に焼くと色が着く、とある。

 日に当たれば、病的に白い流緒の肌も人並みの肌色になるかも知れない。髪の色も黒く焦げるものかも知れない。流緒は、普段は外さぬ被り物を外し、自らの体を日の下にさらした。

 最初は、何やら温かく感じた。が、そのうちにひりひりと、刺激を感じるようになった。見ると、皮膚が燃えるような赤に変わっている。

 流緒は、これこそが人に近づいた証拠だと思い込んだ。刺激が痛みに変わってきても、流緒は一向に布を被ることなく、他の人と同じ衣のまま、渡り廊下を進んでいった。

 やがて、外に広々とした庭が見えてきた。

 木々と花々、そして芝生。

 岩しか知らない流緒には、緑は実に美しい色であった。そして色とりどりに咲き誇る花に目を奪われた。

 薄闇の部屋で見るのとは、比べ物にならない。

 その中、赤や黄や緑や青の糸を組んで編み上げた鞠が、いったり来たりを繰り返している。鞠は時に青空に飛び、時に芝生に転がった。

 流緒は足を止め、廊下の手摺にもたれかかった。

 少女たちが、芝生の上で鞠遊びをしているのだった。誰もが美しい笑顔と汗を浮かべていた。そして……。中でも極めて輝いている少女が、紗羅であった。

 流緒は、じっと紗羅を見つめた。時に裏返るその赤い瞳で。


 走る。そして、鞠を蹴る。

 手を伸ばす。鞠を受け取る。

 ……躍動。


 指先の先端まで。髪の毛の先まで。そして、衣装の裾からちらりと顔を見せる可憐な脚まで。

 光の中の妹の姿を、流緒は目に焼き付けた。


 けして手が届かない世界――

 この身が人であるならば。

 ――ずっと隣に居たかった。



 紗羅は、その時、友人と鞠遊びをしていた。

 王女でありながら気さくで明るい彼女には、多くの遊び仲間がいたのだ。勉学の合間に、皆で遊ぶ。鞠遊びはその中でも楽しいもののひとつだった。

 大きくそれてゆく鞠を、紗羅は笑顔で追いかけた。そして追いつき、拾い上げたとき……その笑顔は消えた。

 見上げた渡り廊下に、兄の姿を見つけたからだ。

 一瞬、息が止まりそうになった。

 竜人のことに関しては、流緒本人よりも紗羅はずっと詳しかった。

 だから、何が起ころうとしているのか、紗羅は想像したくなかった。だが、その瞬間は訪れたのだ。

 紗羅の手から鞠が落ちた。そして、芝生の上で弾んで……やがて静かになった。

 ほんのわずかな時間だけだった。

 紗羅が風になびく兄の白の髪を見たのは。目が合ったと思ったのは……。

 流緒の体は、そのまま崩れ落ち、廊下から姿を消していた。

 紗羅が悲鳴を上げたのは言うまでもない。彼女はそのまま、庭を飛び出し、慌てて階段を駆け上った。

 


 流緒が目を覚ましたのは、闇の中。自分の部屋でである。

 何やら薬の臭いが立ち込めている。それもそのはず、流緒は薬を塗られ、包帯だらけになっていた。

 日の光は、もう少しで流緒を焼き殺すところだったのだ。

 すすり泣く声がする。

『紗羅……?』

 横で泣き顔など見せたことのない妹が泣いていた。光の中が似合い、笑顔が似合う妹には、まったくそぐわない。

『あぁ、兄様……。ごめんなさい』

『なぜ、謝る?』

 顔を歪めるのすら、違和感である。どうやら、顔もひどい火傷のようだった。

『兄様を王宮に戻したのは、私だから……。私は、兄様をお守りしなければならなかったのに……』

 流緒の手に触れようと伸ばされた紗羅の手が、引かれた。それだけ痛々しい手をしていたのである。

『愚かしいな……』

 流緒はつぶやいた。

『……愚かでも…そうしたいのです』

 様子から見て、手当てと看病をしてくれたのは、紗羅だけのようだ。

 もしかしたら、衣の下の日に焼けていない部分も目にして、体に残る傷跡を見てしまったのかも知れない。

 かすかな蝋燭の光で照らされる妹の顔は、疲労と困憊で別人のようだった。

 まるで不幸を伝播させてしまったかのよう――流緒は、紗羅を苦しめたのだと知った。

 愚かしいのは、流緒のほうだった。

『私は、自分の存在意味を考えてみた』

 痛む手を上げて、流緒は妹の涙に濡れた頬に触れてみた。

『私はおそらく、おまえのために生まれてきたのだ。おまえを引き立てるために……』

『兄様……』

『人々は私を嫌う、そして余計におまえを好きになる。王族に対する畏怖や憎しみをすべて背負い、嫌われるために生まれてきた。そうとしか思えぬ』

 光の中の美しい妹を守るため、異形の者として生まれてきたならば……悲しい事ではあるが、充分に流緒の存在意味として通る。

『兄様、それは違います』

 頬に伸びた流緒の手にすがり、紗羅はますます涙を流す。

『泣くな、紗羅に涙は似合わない。私が泣けばいいことだ』

『違います……。私は、泣きたかったのです』

 かつて泣いていた流緒に、泣くなと言った紗羅が泣きたいと言う。

 光の中の美しい紗羅が闇に捕らわれてゆくように思え、流緒は苦しく思った。まるで、光に焼かれた我が身のように。

 紗羅は倒れるようにして、流緒にすがった。

『私は幼い頃から明るく笑うことを定められていたのです。私はいつも幸せでした。でも……時には泣きたかったのです。わけもなく、泣きたかったのです。でも、泣くことはできなかった』

 光の中、手に触れることのない遠い存在だった妹が、今、自らの手の中にいる。

『兄様が私の負の部分をすべて背負う運命ならば、私にそれを分けてください。私に痛みを返してください』

 妹の体の重みが、焼かれた体に心地よい痛みをもたらした。流緒はそっと妹の髪に触れた。





「流緒様、あなた様は私が気がつかぬ紗羅様の苦しみも理解なされていたはず。互いに心を通わせていたはず……」

 懇願に懇願を重ねても返事のない滝に向かって、珠耶は訴え続けていた。その場に土下座し、何度も額を土に押し付ける。

「あれほど仲良い兄妹であったではありませんか? それとも……あなた様は裏切られたことを根に思っておいでなのですか? あなた様に不幸をすべて押し付けて、輝き続けることを選んだ紗羅様を?」

 珠耶の声は震えた。

 紗羅と流緒の別れの状況を思えば思うほど、二人が仲睦まじかった日々は霞んでしまう。

「あれは、やむないことでございました。あなた様も、すぐに納得なさったはず! お願いでございますから、そのようなことはないと言って下さい。そして、紗羅様を救うと……そう言ってくださいませ!」

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