ノーボーダー海商、夜逃げを率いる(4)
「それは……」
「おまえの護衛だけでこんなに郎党が必要か? こいつらが持っている、この矛はなんだ? なんのためのものだ?」
保円は、時近の郎党の、がっしりした大柄な青年の持つ矛の柄をつかむと奪い、ガンガンと音を立てて石突を地に突き刺した。
「――」
黙る時近を素通りして、保円は商人の家の柱に歩み寄り、おおきく首を傾げた。
「真新しい傷があるなあ。この矛の刃の形にぴったりではないか」
矛から鞘を払い、保円は刃先を柱に当てた。
「保円さま……」
そろりとした春野の呼びかけに、保円はくるりと振り返る。
「……商人よ。そなたは近々にこの春山を出るのだろう?」
「……はい」
保円はぽいと矛を放ると、壮年の商人に歩み寄る。
「そなたを追いかけはせぬ。環にそのような力はない。葛原青家にも、摂政にも。刈代であろうが別嶋であろうが、好きなところへ行け。だがわたしは、そなたがこの国を出ることを残念に思い、そのような決断をさせた自分の行いを悔いる。教えてくれ。そなたはなにゆえ不利な取引を強いられた? なにゆえこの国を出て行く?」
商人は数瞬押し黙ったあと、口をひらいた。
「時近さまのご指示で、あのひとびとが我が家の家財を壊しました。熊皮を引き渡さねば、家の柱を倒すと脅されました。……わたしは環人ですが、政府の命令で曾祖父の代にこの地に移り住み、生まれ育ったのも春山です。しかし、もうこの地で商売はできないと考えました」
淡々とした、しかしつよいことばに、保円はうなずいた。
「よくぞ話してくれた。ありがとう」
「……国守さま」
虚を突かれたような商人の腕を、保円はぽんと叩いた。
「時近!!」
保円に奪われていた馬に乗ろうとしていた時近に叫ぶ。
「……なんです」
馬上から、時近が冷ややかに返す。
「井津端の、いや、環の交易を潰して食う飯は旨いか? おまえの――いや、経良のやっていることは自滅に相違ない」
「……なにを……」
「刈代夷似枝に独占されていた北辺の交易を、春山城は破壊した上で奪った。せっかく構築した朝貢の場を、夷似枝たちから収奪することで反乱を起こさせ、破壊した。また復興しようとしているこの春山の商業を、おまえたちは壊そうとしている。それがもたらすことを、わかっているのか? 井津端は貧しくなり、そこから利益を得ていたはずの政府も貧しくなる。税は取れず、私交易で儲けようと思っても、こうして奪おうしている商人たちは、環の領域から逃げる。彼らを追いかけて船を出すつもりか? 彼らを守るのは、別嶋やもっと北の馳黒のひとびとだ。荒海を渡るに長けた、吹雪でも槍をふるえるひとびとに、おまえたちは立ち向かおうと言うのか? 馬にも満足に乗れぬおまえが!」
つかつかと時近に近づくと、彼の足首をつかんで馬から引きずり下ろそうとした保円を、春野は止めた。
「保円さま! 御身をたいせつになさってください」
「春野、そなたがそれを言うか」
振り返って自分を見た保円のきびしい視線に、春野は息をのんだ。
「ここでこの小僧と刺し違えて、青家に一泡吹かせてもいいが、それでは環は良くならぬ。わたしは都に戻る」
「……保円さま」
「行幸が終わったら、なんとしてでも太政官で出世して、経良を引きずり下ろしてやる」
「……でも、それでは」
「経良と同じように、謀略を尽くし、他者を陥れて出世するのでは、環は良くならぬ。春野、力を貸せ。そなたの、荒ぶる夷似枝をも説得した力で、帝や公卿を動かせ。そなたの思うままに、環を変えよ」
保円は春野の肩を両手でつかむと、そこにぐっと力を込めた。
「そなたが必要だ、風声春野」
六月。春山城下の町では、住人のほぼ半数が行方知れずとなった。城近くの百姓村、夷似枝村でも、三分の一が田畑や漁場を捨てて消えた。
その報告を、保円はありのまま太政官に行った。摂政経良の出した返書には、住民の脱走をなじる叱責が横溢しており、権国守の解任を命じていた。
代わりに任じられた国守には、時近が就いた。院のもうすぐ到着しようと言う月末に、保円は帰任のため春山城を出た。
「静かだのう、春山は」
七月に入って、特に体調を崩すこともなく井津端国を順調に進んだ太上帝は、街道に迎えに来た春野を見ると、輿の上から微笑んだ。
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