ノーボーダー海商、夜逃げを率いる(3)

 夷似枝のひとびとの先祖に対する感覚は、環のものとは微妙に異なっている。

 まず、先祖に限らず、神――万物に宿り、人間に利益や害をもたらす存在――と、人間は「交換」を行い続けることで世が成り立つと考えている。

「たとえば熊を狩るとき」

 囲炉裏の灰に刺した串をくるくると回しながら、春野は言う。

「狩りの前に、自分の家の祭壇に熊の神を祀り、熊の好む食べ物を捧げる。そうすることで、狩りが成功することを祈るんだ。その結果熊が得られれば、それは捧げものをしたからだ、と考える」

「あらかじめ前払いするということか――? 自分が得られる利益の」

 魚が焼けてきたので、宝春は自分の皿を春野に差し出した。

「そうだ。熊は、自分の食べ物をもらったから、自分は自分のからだを差し出さなければならない、と考えるものだ、と決まっている」

 春野は皿を受け取り、串に刺さった魚を抜いて皿に置く。

「だから、自分の子孫に対して加護を得たいとき」

 春野はもう一方の手で皿を囲い込む。

「先祖の霊は、対価を要求する」

 春野がふるふると首を横に振るので、宝春はほほえんで土器に酒を注ぎ、それを春野に差し出す。

 春野はうなずき、土器を受け取って、皿を宝春に返した。

「とても明瞭で、合理的な考え方だと思う」

 春野は濁り酒を啜る。

「そうだな……神が理不尽な振る舞いをしたときは、なじればよいのだから」

「そう。環のように、不合理なことが起きても、じっと耐えなければならないわけではない。神は畏れ敬う存在ではあるが、それは対価をもたらしてくれるからだ」

「……なんだか、人間同士の交易のやり方に似ているな」

「そう。互いが同じ価値だと思っているものを交換する、ということは、人間同士がやっていることと変わりがない。そうだからかはわからぬが、夷似枝たちは交易が得意だ。秋守のように」

「……収奪を行っている王臣家は、さしずめ理不尽な神、なんだろうな」

「なじる代わりに、彼らは得物を持って戦を起こす。あるいは――……」

「……窯場の下働きが言っていた。城下の商人や工人、農民のなかには、暖かいうちに刈代に逃げようか、という話が出てきているらしい」

 春野はあぐらを組んだ膝に肘を置き、額を押さえた。

「……やはりそうか……」

「葛原の家の子がまたうろうろし始めているだろう。行幸の前に、自分たちの威を示す財物を買おうとしている」


「保円さま!」

 補修工事の進んでいる政庁脇殿の前で、保円は都から派遣された大工と話している。

「春野? どうした」

「とにかく、一緒に来てください」

 彼女の腕をつかみ、春野は城を出る。向かったのは、城下町のなかでも、商人たちが住まう一角である。

「……どういうことだ、これは」

 保円が呆然と立ち尽くす。

 夷似枝たちの竪穴住居。

 環の百姓たちの掘建柱の建物。

 十数個あったはずの家々が、屋根材の萱や笹を剥がれて放置されている。調理器具や衣服、食物などの家財はない。すべて空き家だった。

「おや、保円さま。春野殿も」

 通りがかった馬上の男は、権介時近だった。

「おい時近! おまえなにゆえここにいる」

 保円はぐいと時近の腕をつかみ、馬から引きずり下ろす。

「わ、乱暴な。なにゆえもなにも、わたしは退庁済みですよ。私用です」

 保円は彼の身辺をじろじろと検分した。数人の郎党とともに、おおきな荷を積んだ駄馬が伴われている。

「……民から奪ってきたのか」

「まさか。金子を支払って買ったのです」

「どこで買ってきたんだ。案内しろ」

「えっ、いまですか」

「いま以外いつだ。さっさと連れて行け」

 言うなり、保円は時近の乗っていた馬に乗ろうとする。

「あっ保円さま」

 慌てたのか、彼女が鐙に足を掛けられずあたふたしていたのを、春野は手を添えて助ける。

「保円さま!? それ、わたしの馬ですが」

 時近の抗議を、保円はうるさげに一蹴した。

「うるさい! 春野、おまえもこれに乗れ」

「えっ、ふたり乗りですか」

「ふたりで乗るんだからふたり乗りだ。さっさと乗れ」

 ぶるる、と馬が厭そうに鼻を鳴らす。乗馬があまり得意でないのか、時近の馬は小柄だったので、春野は心配だったが、元上司の強引な振る舞いに逆らえず、一緒に乗った。

 見かねた郎党に差し出された馬に乗り、時近はぷりぷりしながらふたりを案内した。

 空き家の連なる路地を抜けて、彼が示したのは、あわただしく引っ越しの用意をしている商家だった。

「取り込み中すまない!」

 保円は大声を上げて自らを知らしめると、うろんげに出てきた壮年の男に言う。

「わたしは井津端国権守、葛原保円という。こっちは鎮守将軍の風声春野だ。さきほどこの男と取引をしただろう。なにとなにを交換したんだ?」

「……はあ。別嶋の熊皮二十領を……絹一反と」

「いまその布はあるか」

「……これに」

 差し出された反物を見て、保円はけらけらと笑った。

「莫迦を申すでないぞ、商人。これならば都で官人の小袖一枚にしかならぬ。都で別嶋産の熊皮一領といえば、絹五反分だ」

「……」

 商人は顔を暗くする。

「どういうことだ、時近? なにゆえこの商人は黙っている?」

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