ノーボーダー海商、夜逃げを率いる(2)

 太上帝行幸は七月で、礎石式だった政庁正殿の建て替えは到底間に合わない。戦乱で焼け残った脇殿を改修し、瓦を葺き直して、あんぐうとすることが決まった。

 太上帝は六月初めには都を出立し、阿妻、遠辺国を回ったのち、井津端国府を通って春山城に行くという。史書に例のない長い距離の行幸だった。

「暑い時期に……おからだは大丈夫でしょうか」

 春野は繰り返される官人たちの打ち合わせのなかで、ぽつりと呟く。

 保円は詳報の記載された巻物をたぐりながら、片眉を上げた。

「かなりゆっくりとした行程にはなっているな……ただなあ……あの院だからなあ……」

「……波麗使が来着するという報も……」

「……もしかしたらご存じだったのかもな……わざと行幸にぶつけたのではないか」

 春山城では、波麗使の接遇も行われる。秋守からもたらされた情報のあとに、正式に波麗からは文が来ていた。波麗使の春山城到着の予定も、七月である。

 戦乱の記憶真新しい春山に、太上帝が行幸し、波麗使がやってくる。

 その準備で騒然とするなか、春野は春山城下に出た。城の外郭の内外に、丘を整地して工房や住居が立ち並んでいる。そこを降りれば、春山河が海に注ぐ津[港]だった。晩春のおだやかな朝、帆柱を連ねて船が泊まっている。架けられた木の桟橋を、荷を運ぶひとびとが行き交い、獲れたばかりの魚介の、磯の濃い匂いが漂う。道端には市が立ち、北の産品と環の産品がやりとりされる。

 物と価値のおおきなやりとりは、首領格の夷似枝と国司で行われることになっているが、日常的に津に出入りする船までは、環は管理していない。春野は辻に生える松の木にひょいと上ると、枝の上にあぐらをかいて、忙しく立ち働くひとびとのようすを眺めた。

 春野は非番の日だったが、宝春は城下町より南、一刻ほどかけて行く丘陵地の瓦窯に出かけている。市で旨そうな魚を買い、午後帰ってきた宝春に食わせてやろうか……と思う。

 木の下で商いをするひとびとの、笑い声や歓声が聞こえる。麻布と魚を交換しようとしていたり、灰色の硬いうつわを、山盛りの果物と交換しようとしていたり……。百姓も夷似枝も、手慣れたようすで値引交渉や客あしらいをしている。ことばはひとりの人間から聞こえるものでも環語と夷似枝語が混じっており、場合によって使い分けられる。

 春野は胸の底からこみ上げる幸福に浸る。民は日常を謳歌し、自分はもてなしたい人間のためにこころを尽くそうとしている。日が暮れれば、いとしいひとと抱き合って眠れることが約束されている。

 一方で、その幸福が、いかに脆く壊れるものであるかも、春野は知っている。この地にも数十年前に大地震があって、春山城やちかくの寺院は一度崩れている。臥田城のように、すぐそばまで津波が寄せることも起こりえる。あるいは戦乱がふたたび起き、交易が中止され、海上の船の行き来ができなくなることも。そうしたら、物のやりとりに依存しているこの地の民は飢える。

 市が立つのは朝の一瞬だけだ。春野は慌てて魚を買う。店じまいを始めるひとびとのなかで、鮮やかな茜色の絹の袍を羽織った人物が、春野の目を惹いた。

《祖父はシュシュの谷というところにいたらしい。井津端ではなく刈代だというが、どうやって辿り着いたものか》

 年齢は二十代の半ば。豊かな髭を蓄え、蕨手刀わらびでとう[柄頭に渦巻き模様を持つ夷似枝の刀]を腰に佩いている。たどたどしい夷似枝語と、環の絹、夷似枝らしいおおきな瞳。

 ――時近殿の郎党だ。

 彼の顔に見覚えがある。井津端権介にして、摂政経良の息子、時近の従者。服属した夷似枝の一部が、数世代前から強制的に西国に移住させられているが、彼もその部類なのだろう。

《シュシュ……わからないねえ。そういう名前の谷は刈代にたくさんあるよ》

 店じまいをしていた壮年の女商人は、首を傾げながら言う。

古庭こにわ、そなたは刈代に行きたいのか?》

 春野は思わず青年に声をかけた。

《……春野さま?》

 古庭はこちらに気づき、驚いて礼を取ろうとする。

《非番だから、そんなことはしなくていい。それより、そなたの父祖の地は刈代なのか?》

《……はい。遠辺国に商用で滞在していたときに、環との戦に巻き込まれたそうで、そのまま西国に連れて行かれたのです》

《……ひどい話だ》

《……五十年ほど前の話なので、細部はよくわからないのですが……父は商才を見込まれて、葛原さまに雇っていただき、そのまま遠辺や井津端の交易に携わって、おれは遠辺国で生まれました。いまは病を得て都にいるのですが……父が、おれが井津端に行くなら、刈代に行ってほしいと――祖父の生まれ育った村で、先祖に捧げ物をしなければ、おれの子や孫が加護を得られないと言うのです》

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