第三章 Reintegration――社会復帰――

ノーボーダー海商、夜逃げを率いる(1)

波麗ばれい使が来る?》

 翌二月。春山城下の反乱夷似枝村がすべて降伏したという報はすでに届いていた。秋守は別嶋の夫の村――レラシリに滞在していた。

 大陸からの船が冬の終わりの波間をくぐり、村に到着していた。船には別嶋夷似枝のほかに、多くの馳黒ちこくのひとびとが乗っている。馳黒とは、北回りで別嶋から大陸に行く場合、波麗より先に通る、国家の機構を持たぬ複数の部族からなるひとびとだ。別嶋よりもさらにきびしい乾燥した気候のなかで、大河沿いに集落をつくる。夷似枝とはことばも文化もかなり異なるが、同じく交易を生業のひとつとし、国家の支配に属さない者たちとして、ときおり小競り合いがあるものの、親しく交流がある。

《ああ。半島は物騒だから、北回りで別嶋と井津端を経由して環に行くんだと》

 暗緑色の軟玉の耳環を付けた馳黒の女商人が、コソンカの商館に招かれ、木苺を醸した酒を呷る。

《半島も物騒だが、井津端もいま物騒だぞ……》

 秋守は呆れながら、彼女の杯に酒を注ぐ。

《おや、そうなのか》

《環に服属していた夷似枝たちが反乱を起こして、いちおう終結したが、春山城は仮設のままだ》

《朝貢はどうするんだ? 別嶋の同勢の儲けはかなりそこに依存しているだろう》

《年が明けたときにやったぞ。屋根は板葺きで、建物は隙間風がひどかったらしいが》

 耳環の女商人はからからと笑った。

《環の工人に、春山の風はつめたすぎるだろ》

《……環の、ばかりとは限らぬのだ。半島から来た者も、城柵の再興に関わっている》



 春野と宝春は、約半年ぶりに再会した。

「宝春! 会いたかった!!」

 雪の残る山道を通り、宝春は春山城に着いた。仕事を放り出して駆け付けた春野に抱きつかれ、彼はよろけた。ずるずると曹司[建物]の物陰に引っ張り込まれる。

「……宝春、口づけしてくれ」

 寒さのせいばかりでなく、赤く染まった頬の春野に囁かれ、宝春はきょろきょろとあたりを窺ってから、そっと彼女の唇に自分のそれで触れた。瞬間、首の後ろを引っ張られ、春野が強引に口づけをふかくする。彼女の生々しい感触に、宝春はためらいを捨てた。彼女を壁に押しつけ、覆い隠すようにつよく抱き締める。力を抜いて宝春に身を任せる春野の顔じゅうに、堰を切ったように口づけを落とす。

「ほ、うしゅん」

 よわよわしく声を漏らす唇を塞ぐ。彼女が宝春の髪をかき分け、地肌に爪を立てる。そのわずかな痛みがもたらす強烈な情欲に、宝春は震えた。

「春野――春野」

 名前を呼ぶだけでは足りない。肌を重ねるだけでも、無論足りないのだ、という思いが、宝春の胸に起こる。春野が応えてくれる、目の眩むような幸福も、一瞬浸るだけでは足りない。


 保円が摂政経良の命令をつっぱね、残りの夷似枝村が降伏し反乱が落ち着いたころ、春野は宝春を春山城に呼び寄せた。復興に必要な瓦の焼成に、彼の力が必要だったし、彼の顔を思い出すと、地位を利用してどうにかしてでも早く宝春に会いたいという思いが湧いて、春野のこころを支配した。

 慌ただしく造作をしている城下町のはずれに、地元の夷似枝の若者に金子をはずんで、素早くちいさな茅葺きの家を建ててもらうと、春野はそこに宝春を引き込んだ。冬の終わりにあっても、その家の囲炉裏は温かく、ふたたび始まったふたりきりの夜を、春野は満喫した。

「院が春山に行幸することは、本決まりになったそうだ。いらっしゃるのは、七月らしい。それまで、わたしはまだここにいられる」

 遠辺国の鎮守府と行ったり来たりだが、と言い添え、春野は宝春の土器かわらけに濁り酒を注いだ。

「……それまで」

 宝春は土器を見つめたまま、ぼんやりと呟く。

 ――それからは。

 そう問いかけられたような気がして、春野は胸が痛んだ。いままで、春野はこころが求めるままに生きてきた。父のようになりたいと都に出て、職務に邁進しようとして免官になり、友の文が呼び起こすままに北辺を再訪した。宝春と暮らしたいと思ったから、いまここにいる。

 公職に就いたままであるなら、朝廷の指示の通り、春野は移動しなければならない。都に呼び戻されたら? 北辺の職ではなく、都城の護りを命じられたら? 

 新寺院の造作を途中で離れさせて、宝春には春山に来てもらった。自分のわがままに、彼を従わせた形だった。

 春野以上に、彼の人生でたいせつなものはないという。そのことばを思い出すだけで、春野は泣きそうになる。

 当然なのだ。戦乱と疫病で半島をさまよい出た彼は、故郷も、共に暮らした家族も失っている。身を立てる瓦作りのわざ以外に、って立つものがない。

「環は、まだこういううつわを使っているんだな」

 土器をしげしげと見て、宝春は出し抜けに言った。

「え?」

「素焼きで、脆い。蘇廬では見たことがなかった。この前、夷似枝のひとたちがこういううつわを焼いているのを見たが……窯ではなく、露地で焼いていた。温度が高くならないから、割れやすい」

「国司では使い捨てだな。いちど宴で使ったあとは、割って捨ててしまう」

「そうなのか。もったいない」

 どんなにちっぽけなうつわでも、宝春はいとおしげにさする。工人が手からつくりだすものには、なんにでも、つくり手の情が宿る。

「……宝春がつくった瓦は、しあわせ者だな」

「えっ?」

 きょとんとした宝春に、春野はにこにこする。

「世に出て、みなが見上げる屋根の上にいて、宝春の情を受けている。宝春がつくった瓦は、この北辺にたくさんある。宝春は北辺を変えた」

「――そうか? そんな大層なことをしたとは思えないが……」

 宝春は、口元をわずかに緩めた。

「百姓や夷似枝に、硬い焼き物の作り方を教えて、みなが拠って立つ建物をつくった」

「……」

「この世に、人間はたくさんいる。ひとりひとりはちっぽけで、一生のうちになせることはとてもすくない。でも、自分の役割を得たひとは……この世を、変えることができる」

「春野……」

「もうすこしだけ、時間をくれないか。院の行幸が終わるまで……わたしは、自分の役目を見定める」

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