35歳ニート女子、鎮守将軍になる(7)

「宝春!」

 窯場の入口で、春野が手を振っている。正午を回り、仕事を終え、間食かんじき[昼食]を摂りに宿舎へ戻っていくひとびとのなかから、宝春は手を振り返した。

 北辺の夏は盛りを迎え、丘から見下ろす田には深緑色の穂が生え揃い始めている。ふたりは木陰の倒木に寄り添って座ると、春野の持ってきた弁当を開けた。

「ヤマメだ」

 宝春は目を見張る。

 春野は笑みをこぼして肩を宝春に付ける。

「川で捕ってきたんだ。峠のほうに行くと山夷似枝の集落があるんだが、そこの若い衆に教わって一緒に」

「すごいな、春野は魚も捕れるのか」

「武人は遠乗りをするとひととおりのことは何でも自分でするぞ。山に行けば川で魚や蟹も捕るし、天幕も張るし、繕いものもする」

 春野は得意げだ。

「……おれはなにもできないな……」

 目を伏せる宝春の腰に、春野は手を回してぎゅっと抱きつく。

「なにを言う。宝春は重い瓦を持てるし、字も読み書きできるし、工人たちを統率できる。それに……」

「それに?」

 春野は耳まで赤くすると、ちいさな声で言った。

「わたしのことが好きだ」

 宝春は胸の痛むような幸福を覚え、弁当を置いて春野を抱き締め返した。

「窯場のみなも、……兄君も、秋守殿も、おまえのことが好きだよ」

 春野は首を横に振る。

「宝春は、ほかの人間とはちがう。……わたし以上にたいせつなものは、なにもないように見える」

「……そうかな」

 目をさまよわせる宝春に、春野は身を離して向き直ると、勢い込んで言った。

「それは嬉しいが! ――でも」

 宝春はまなじりの皺に目をうずめるようにして微笑む。

「春野はおれ以上にたいせつなものがあるんだろう。でもおれは、春野がすこやかに暮らしていれば、ほかになにもいらない」

「……宝春……」

 あっという間に、春野の両目から大粒の涙がこぼれ落ちる。

「わ、どうした、泣くな」

 彼女の頬に伸ばした宝春の手を、春野は両手でつかんだ。

「……わたしは、……っ、もう、いいんだ……」

「……なにが?」

「おまえが、手の届くところにいれば、それで……」

「風声春野!!」

 突然、よく通る女声がふたりの耳を貫いた。その瞬間、春野は全身から殺気に似た気炎を燃え上がらせ、すぐさま涙を拭って声のする方向に立ち上がり立礼した。

「――葛原保円様」

 数人の供を連れた馬上の女性は、草地に現れると朗らかに笑った。

「久しいな、夫君と水入らずのところを邪魔してすまない」

「いいえ!」

「再会を祝して宴席を設けたいところだが、――春野」

「はい!!」

 春野は顔を上げ、保円をつよく見つめた。

「仕事だ。貴公には、再び環の尖兵となってもらいたい」

 宝春はそのとき、春野の満面にこみ上げる歓喜を、はっきりと目にした。

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