35歳ニート女子、鎮守将軍になる(6)

 早朝、氷隆川ちかくの休耕地で、春野は馬を駆けさせた。かわもやのなかを、一直線に走る。あらかじめ設けた柵を跳び越え、弓を構える。甲高い音を立ててかぶらを放ち、それが、静かな川音のなかで、トン、と命中する。

 馬の背に身を沈め、更に速度を出す。休耕地の切れ目の前で手綱をさばき、並足にさせる。はげしい馬の息遣いのなかで、春野は遠くから近づく蹄の音を聞き分けた。

「春野!」

 複数組の蹄の音で、聴き馴染んだものがある。

「……兄上!?」

 靄のなかから、数人の供を引き連れた、兄野主のぬしが現れた。

 兄と妹はほぼ同時にかろやかに馬を下りる。春野は兄に駆け寄った。

「どうしてここに……?」

 野主は腕を広げて、妹が自分に抱きつくのを待ったが、その気配がないことに眉間に皺を寄せ、咳払いした。

「……遠辺に行くという文から、なんの音沙汰もないから、どうせ角嶋殿のところにいるのだろうとひとを遣って様子を聞いたら、秋守殿のところにはいないという。そこからは探したぞ。秋守殿がなぜかだんまりで、なにも教えてくれぬから……」

 春野はきょとんとした。

「秋守には、宝春に会いに行くと言っておいたはずですが」

 野主は眉間の皺をさらにふかくした。

「……宝春……? 里宝春か」

「あれ、覚えておいでですか。臥田城復興に尽力した造瓦技師です」

「……無論。そなたが臥田にいたころ、よくそなたの周りをうろちょろしていた」

「はあ? いえ、わたしのほうが宝春の周りをうろちょろしておりましたが。宝春は瓦を焼いていただけです」

「そのようなことはどうでもよい。春野こそ、なにゆえこのようなところに三ヶ月もいるのだ」

「よくご存じで。兄上、ご報告が遅れましたが、わたしはしばらく宝春と暮らすことにしました」

「……」

 兄は眉間の皺をふかくしたまま、身動きを止めた。

「……兄上?」

 春野は首を傾げる。野主は身を固まらせたままだ。春野は彼の顔の前で手を振ってみせた。

「あにうえー?」

「……なんだって……?」

 彼はようやく口を動かした。

「はあ。ですから、宝春をつまにしたので、三ヶ月くらい前から、彼の家に住まわせてもらっているのです」

「そなたはなにを言っているのだ? わたしにはまったく理解できぬ」

「え……っ、単純な話だと思うのですが……。わたしは公職に就いていないので、特に広く知らせる必要もないと思って、兄上に報告するのも忘れておりました」

「そのようなことは忘れるな!!」

 野主はくわっと口を開けて叫んだ。

 春野は眉を寄せると口を曲げた。

「そう仰いましても……わたしももう三十を過ぎておりますし、兄上もどうでもよいでしょう、わたしがどう暮らしていようが」

「どうでもよくはないぞ! そなた、この兄がどれほどそなたを心配していたか、わからないのか!? 免官になってからぼんやりなにもせず、ぷらぷら遠乗りに行くばかりで、都からの文にはやれあっちの出で湯がいい、こっちの出で湯が効くだの、たわけたことばかり書きおって」

「すみません……」

 春野は悄然と口をすぼめた。

「それがようやく遠辺国に来る気になったのはいいが、――……いっ、一緒に暮らす?! 夫だと!? ふざけているのか!?」

 春野はすっと目を上げると兄を見つめ返した。

「ふざけてはおりませぬ。父上から引き継いだ私領で、当面は暮らしていけます。兄上の財にすがることはありませぬ」

「そういう問題ではない! そういう問題ではないのだ!!」

 春野はまた首を傾げた。

「どういう問題なのです?」

「……春野?」

 そのとき、草むらをかき分けて、宝春が現れた。

「宝春!」

 春野はぱっと顔を明るくし、彼に駆け寄る。

あさができたぞ。――そちらは?」

 宝春は、野主のほうを警戒するように、春野と野主のあいだにからだを割り込ませた。それを春野は慌てて制すると、

「兄上だ。風声野主、いまは北辺按察使あぜち[地方行政監督官]であられる」

 宝春は目を細めて野主を見つめ、それから地に膝を付けて這いつくばるように頭をかがめた。

跪礼きれいなどやめよ。そなたの故国ではそのような格好で礼を取る者はおるまい」

 野主は不機嫌に吐き捨てる。 

「野主さまの、高潔なる仕事ぶりは見聞きしております。わたしの関わっている新寺院の造作でも、野主さまのご指示で監督者が変わり、格段に仕事がしやすくなりました。感謝の意を表して、環の習いに沿った礼を致しました」

「……」

 野主はきびしいまなざしで宝春を見下ろす。

「兄上?」

「――春野は」

 野主は、あくまでも宝春を見下ろしたまま言う。

「そなたのすみに留め置けるような人間ではない」

「……存じております」

「風声の氏に、――いや、環の威に、なくてはならぬ存在だ」

「……いえ、摂政殿に首にされましたが……」

 春野のほそぼそとした声を、ほかの二人は聞いていない。

「春野を押しとどめるようなことをしでかしたら、そなたを殺す。覚えておけ」

 野主はそう低く言い置くと、身を翻し、春野が声を掛ける間もなく、馬上のひととなり、去って行った。

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