35歳ニート女子、鎮守将軍になる(4)

 稲刈りに精を出すひとびとがぽつぽつと見える、がねいろの田と、高い天を映して青く滔々と流れる氷隆川を見渡しながら、春野は遠辺国内陸の盆地のさらに奥を目指した。井津端へ向かう街道沿いに、新しく寺院を造っているらしい。その近くの丘陵地突端の窯場で、宝春は変わらず瓦を焼いていた。

「……春野?」

 泥を洗い落とした手を拭きながら、宝春は忙しく立ち働く工人たちのなかから出てきた。

「宝春!」

 春野はこころが浮き立つのを感じた。駆けよって、自分よりすこし背の高い彼に抱きつく。

「わ、わ」

 彼は驚いて身を強ばらせる。

「久しいな、おまえに会えて嬉しい」

 身を離して彼の顔を覗き込み、にこにこと笑う。すると、宝春は顔を真っ赤にしてうつむいた。

「……宝春?」

「……おれも」

 宝春はぼそぼそと言った。

「おまえに会えて嬉しい」

 その声は甘く春野の耳に響き、自分の頬にも熱が上るのを感じた。からだがむずむずするような感覚を覚えて、彼女は咄嗟に彼の手をつかんだ。

「は、るの」

「すこし仕事を抜けられないか。二人きりで話したい」



 秋守は言った。

地震ないのとき、おまえがあれだけ身を粉にして動いたのも、武官として出仕しようとしたのも、宝春殿がいたからだろう。あのとき、おまえたちふたりは、互いがいたから、あれだけ動けたんだ』

 環と海峡を挟んで西方、大陸の半島部分に位置する蘇廬そろという国から、戦乱と疫病を逃れ、宝春はやってきた。造瓦技術に優れた彼は、地震後の復興人事で遠辺国に派遣された検地震使に抜擢されて、この地で瓦をつくり始めた。春野ははじめ、彼の訳語おさとして、ともに窯場を回って過ごした。

 そのとき、その場で求められていることを、ひたすら手脚と頭を使って行っているうちに、春野の十九歳の秋は終わった。

 その十四年後の同じ季節に、ふたたびふたりはともに窯場の煙を見下ろしている。

 丘をすこし上った、見晴らしのよい場所は、焼き畑を終えた草地だった。残された切り株に、宝春は座る。ちかくに、野菊の白い花が群れて咲いている。森から、涼しい風が吹いてくるのに、彼は目を細めた。故国で罹患した痘瘡とうそう[天然痘]のせいで、彼のからだにはあばたが残る。しかし、それ以上に春野のこころに残るのは、彼のしなやかな腕だ。泥を型に置き固め、まだ水分の残る、童子ひとりぶんほどの重さの瓦を一枚一枚運び、乾かし、また運んで、窯に入れる。薪を運び、投入する木材の種類を調整し、窯の温度を交替で三日間管理する。やにを多く含む松を投入すると、煙突から火柱が立つほどの高温になる。赤い炎に照らされる彼の顔を、遠目になんども見たことがある。窯の温度管理は危険が伴い、近づくことを許されたことはない。そのときの、きびしく、思い詰めたような表情とは違う顔で、彼は春野を見上げた。

「おまえは変わらないな。十四年も経っていたら、ひと目ではわからないかもしれないと、思っていたが」

 目尻を下げ、口角を上げて、彼は微笑む。春野は、胸の底をぎゅっと握り込まれたような痛みに、顔を歪ませる。

「……春野?」

 宝春が慌てて立ち上がった。春野がうつむいて涙をこぼすのを、おろおろと見ている。

「ど、どうした……」

 帯に挟んでいた手拭いを差し出す彼の胸に、春野は飛び込み、首に腕を回して抱きついた。

「宝春……っ」

 彼の肩に顔を押しつけて、声を上げて泣いた。

「……」

 宝春はしばらくからだを強ばらせて棒立ちしていたが、やがて春野の背に手を回し、切り株に座り直して彼女を受け止めた。

「……わたしはいま、公職に就いていないんだ」

 肩を震わせながらも、ようやく泣き止み、春野は宝春の手拭いで目を拭いながら、地べたに座り込んだ。宝春も地面に腰を下ろし、春野の背にそっと手を当てる。

「……まあ、遠辺に来られるくらいなんだから、そうだろうな……」

「――わたしは!」

 春野は目を上げて、宝春を見た。

「国守か、鎮守将軍か、押領使か――なんでもいいから、まともな職に就いて、遠辺に戻るつもりだった!」

 そうして、秋守にしたのと同じ説明を、宝春にする。政争の道具にされたのか、近親間の軋轢の巻き添えを食ったのかわからないが、職を失ったことを。

「……ずっと、ぼんやりしていて……風声の家の……兄上の世話になり続けて……ぼんやりしていた……六年も……。秋守が文を寄越すまで、おまえに会いに行くということも思いつかなかった……」

「そ、そうなのか……」

 宝春は、目に見えてがっかりしていた。

「すまない。ええと……秋守にこの前会えたんだが、彼女に言われてようやくわかったんだ、わたしは、ずっと……――」

 春野は、宝春の腕に触れた。固く引き締まった、工人の腕に。

「おまえに会いたかった。ただびとの――国守の娘の春野ではなく、環の武人である、風声春野として。……おまえは、瓦を造る」

「……?」

「瓦を造って、城柵や寺院を建てる。ひとびとは、おまえが造った甍の載る屋根を見上げる。けれどあのとき、わたしにはなにもなかった。自分にしかできないことは、なにも」

「そんなことはない!」

 春野は、急に上がった宝春の声に目を丸くした。記憶の限り、いままで彼はこのように大声を上げたことはなかった。

 宝春は春野の視線にうっすらと頬を染め、それでも訥々と続けた。

「……おまえは、おれと環のひとたち、夷似枝のひとたちをつないだ。ことばのことばかりでなく、一緒に働くことで、みなのこころをほどいていった。おまえがいたから、おれは臥田で仕事を続けられたんだ。おまえがちょくちょく窯場に来てくれて、おれは嬉しかった。おれの暮らしがうまくいくように、窯場のみなに掛け合ってくれて、嬉しかった。ことばがわかるようになると、みながおまえのことを話した。川原で、おまえが亡骸を洗っていたことも、城柵に避難してきたひとたちが食っていけるように、おまえが駆けずり回っていたことも」

「……」

 瞬間、春野の胸に、鮮明な光景が去来した。津波で泥沼になった城下町、そこに浮かぶ白い遺体、ひしゃげた家々の屋根……

 くり返し、夢に見てうなされた。それはいまも続いている。

 宝春は自分に触れていた春野の手を、自分の両手で握りしめた。

「おまえがどんな仕事をしたか、おれは覚えている。それは、おまえにしかできなかったことだ。すくなくともおれにとっては、おまえがしたことは、おまえだけができたことだ」

 彼の瞳に、春野のすがたが映る。茫然と、彼を見つめる自分のすがた。

「……春野」

 宝春が手を解くと、彼は春野の頬を両手でつつんだ。

「おまえが好きだ」

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