35歳ニート女子、鎮守将軍になる(2)

「荒行したいのう……」

「は……っ?」

 春野は持っていた柿をせせらぎに取り落とした。

「落ちたのう」

 太上帝は口をすぼめて小川を覗き込む。ちいさな柿は、岩間をたちまち水に流され、手が届かなくなってしまう。

「院がおかしなことをおっしゃるからですよ……わたしの柿……」

「まあ気を落とすな。これをやろう」

 太上帝は袂からもうひとつ柿を取り出し、春野に手渡す。

「ありがとうございます……。院はおからだが蜻蛉のようにひよわでいらっしゃるので……」

「そなた、はっきり言い過ぎじゃのう」

「秋風が吹くだけで、お風邪を召されないか心配です」

 七年前。その前年の譲位ののち、太上帝は安泰京北西の山間部の寺院で静養していた。右近衛の武官であった春野は、彼に供奉し、散歩に付き添った。

 もみじも桂の葉も赤く染まり、渓谷の小川沿いの路に敷き詰まっている。桂の甘い香りを吸いながら、小柄な太上帝は両手を上げて伸びをした。しゃく、と柿を食み、ふたたび上流へ歩き出す。

「そう簡単には死なぬよ。せっかく譲位ができて悠々と暮らせるのじゃ」

 春野より一歳だけ年上の太上帝は、そのとき二九歳。人臣であればようやく働き盛りという年頃に、彼は政を捨てた。

「悠々となさるなら、行に励むより、旅に出たり、馬に乗ったり、出で湯に浸かったりしたほうが楽しいと、わたしは思いますが……」

「わしの治世では、ひとが死にすぎた」

 ぽつりと言いながら、彼は歩き続ける。

「……」

「春野は見たのであろ、遠辺の大地震も、海嘯も……父御ててごはそのとき死んだと聞く」

「……院の責ではございませぬ。天地の采配です」

「ほんに、そう思うのか」

 院はぴたりと足を止め、春野を振り返る。

「はい、そう思います。帝がどのような政をされても、天も地も、動きませぬ。だれにも、いかようにも動かせぬのが、天地です」

「わしのように、人でなくともか」

「天子であった方でも、それは同じです」

 ひよわで、華奢なからだつきの太上帝は、目の下に隈があったが、瞳は常に射干玉ぬばたまのように黒く、黒曜石のようにするどく光る。彼を見下ろしながら、春野は彼の視線を受け止める。

「……そうではないと、信じて生きてきた。いまさらそれを変えるのは難しい」

 ぷい、と、彼はからだの向きを変え、再び歩き始めようとする。

「――あの、院」

「なんじゃ」

「遠辺国に、参りませぬか」

 また、太上帝は足を止めた。

「臥田の城柵も、城下の家々も、復興を遂げたと聞きます。これからの季節には適しませんが――……」

「そなた」

 院は振り向くと、人差し指で勢いよく春野の額を突いた。

「痛っ」

「自分が見たいだけであろ。夷似枝の地なぞ、行きとうないわ。そもそもわしは乗馬が嫌いじゃ」

釧露くしろさまの行幸では、輿であったと聞きますが……」

「うるさい。行かぬ。行かぬと言ったら行かぬ」

 口をへの字に曲げると、院は今度こそ振り向きもせずせかせかと歩き始めたが、彼は足が短いので、春野は難なく追いつけた。



 ――風声春野は、院に近づきすぎている。

 そういった風聞が立っていることを、春野は知っていたが、安泰京では、淡々と警固の任をこなすだけだった。院に、付いてこい、と言われれば付き従う。

 太上帝は微妙な立場にあった。九歳の幼子に帝位を譲り、政の采配を摂政葛原経良に一任した――……という譲位の勅とは別に、彼は摂政の意のままには動かなかった。皇太后たる自身の妃と、その兄経良の仲が悪かったことも相まって、とくに人事については発言権を持ち続けた。自然、武官のなかにも派閥が生まれる。葛原経良派か、太上帝派か――……。

 春野が今上帝に侍していたある夜。少年帝は寝付けないと言って、春野と簀子すのこで双六をしていた。

主上おかみ、風がつめとうなって参りました。御帳台に戻りましょう」

「いやじゃ。もうすこしで朕が勝てるぞ」

 みずらを揺らして、少年は駄々をこねる。

 そのとき、晴れていた空を一瞬でむらくもが多い、月を隠した、と思う間もなく、雷のようなはげしい音が立った。

「きゃあ!」

 少年帝は春野に抱きつく。殿舎のなかでも女官たちが悲鳴を上げた。

 寄り集まる彼女たちに帝を預けると、春野は高欄に手をかけて身を躍らせ、飛び越えて太刀に手をかけると、周囲を警戒した。

 瘴気、としか言いようのない圧が、殿舎を取り囲んでいる。

 黒い雲が一群れ、急速に庭に降りてくる。

 それに、ひとりの少女が乗っている。髪を振り乱した、しかし絢爛な衣装の少女――

喬子たかいこねえさま――……!?」

 少年帝のつぶやきが、春野の脳裏に像を結ぶ。

 喬子内親王は少年帝の従姉にあたり、こたびの譲位に先立って、少年に対する呪詛の罪で蟄居中、不審な死を遂げた。右大臣葛原経良の命による、強制的な自死であるともっぱらの噂である、死んだ皇女――……。

 少女が手を振ると、少年の間近の高欄に火が付いた。

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