第一章 Disarmament――武装解除――

35歳ニート女子、鎮守将軍になる(1)

 五月、うだるような暑さの安泰あんたい京。ようやく熱射のやんだ夕、右中弁うちゆうべん[在京省の統括をする組織である右弁官うべんかんの次官]・葛原保円くずわらのやすまどは、至急の呼び出しを受けて摂政葛原経良つねよし直廬じきろ[皇族や高官が内裏内に持った個室]に駆け参じた。

 妻戸から入ると、むっと立ち込める湿気が保円の肺を圧した。常には開け放たれて風を通しているはずの蔀戸しとみどは締め切られ、灯台の弱い光にぼんやりと浮かび上がる公卿たちの顔は、総じて重く淀んでいた。

 檜扇ひおうぎでしきりに自らに風を送りながら、蠅の羽音のように低い話し声を立てていた彼らは、四八歳の右中弁のすがたを認めると、ぴたりと口を閉ざした。

「保円殿――義姉上あねうえ

 部屋の最奥に座る七つ年下の摂政は、場を貫くようなするどい声で呼びかけた。

「その呼び方はやめよ、青家せいけの」

 不機嫌に返しながら、葛原朱家しゆけの保円は平伏する。保円の妹は、摂政経良の妻のひとりでもある。

 しかしながら、ふたりの身分は遠く離れている。

 従二位じゆにい右大臣、兼摂政、葛原で最も繁栄している青家の長である経良。

 従五位上じゆごいのじよう、摂政の直接管轄する太政官だじようかんの下部機関、右弁官の次官である保円。中央政治ではなくてはならない実務を担当する職だが、すべてを定める頂点とは言いがたい。

 四代前に分かれた葛原氏は、青家が他家を蹴落とすことで血脈をつないだ。

 年下の上司に、額を床に擦りつけるように礼を取ることを、屈辱だとは思っていないが、のしかかってくるような暑さのせいばかりでなく、保円は胃の腑をつめたい手で握りしめられるような厭な予感を覚えていた。

 通常は政務の終わっているはずの夕刻に、この数の公卿が集まり、深刻な話し合いを持った、ということは。

「井津端より飛駅が到着し、春山城北の床内営とこないえいに配備した井津端・遠辺両国の鎮兵六〇〇のうち、五五〇余りが討たれたと報告を受けた」

 摂政の淡々とした声に、保円のこめかみに冷や汗が流れた。

ふた月前に始まった井津端国反乱はやまず、都は動揺していたが、一気に戦局が悪化したという報は、内裏に更なる危機感をもたらした。

「北辺のみで事に対処は成しがたいと判断し、阿妻八国に勅符ちよくふして二〇〇〇の兵を発遣する。ついては」

 目を上げた保円に、経良は冷ややかに告げる。

「右中弁葛原保円を、正五位下しようごいのげごんの井津端国守とし、左衛門と右近衛の武官を付帯させ井津端国赴任を命じる」

「――しかし!」

 保円は顔を跳ね上げた。

「わたしは文官の身ゆえ、弓馬の術もおぼつかず、反乱鎮圧に役立てるとは思えませぬ」

御身おんみの国府官人としての働きを知ればこその人事である」

 摂政は刃のような口調を変えない。

此度こたびの乱は、霜平東人しもひらのあずまひと将軍がいまの世にいたとて、収めるのは難しかろう。武においてたまきの兵は夷似枝に及ばず、環が勝っているものといえば、御身が成したような寛政においてである。保円殿には、ゆうではなく、じんによって井津端国を治めてもらいたい」

「それは綺麗事でしょう」

 ねめつけるような視線を、保円は摂政に向けた。

「そうは思わぬが」

「ご帝孫・泉岑由殿の苛政は音に聞こえておりました。環のなすことへの不満は、夷似枝だけにとどまらず、百姓ひやくせいにも及んでおるでしょう。そのなかで、武による強制なしに、いかにして寛政を敷けると?」

「援兵を付帯させると申したはずだ」

そう将軍のいらっしゃらぬ環の軍に、なにが成せましょうか。貴公は七年前、人を超えた軍才を持つ者どもを罷免された」

「……至らぬ者を処断しただけだ」

 初めて勢いを殺した摂政に、保円は語気をはげしくした。

「累代の将家、風声氏をご起用なされませ!」

「氏の長者たる野主はすでに井津端にいるが」

「その妹春野に――節刀せつとうを!」

「征夷大将軍にせよと!?」

「そのような事態に相違ありませぬゆえに」

「……」

 目を見ひらき、摂政は保円に対峙する。

「その体制が実現できなければ、権守ごんのかみの任はお受け致しませぬ」

 経良はがばりと立ち上がり、手近の柱に笏を叩きつけた。

「朱家ごときが厚皮こうひであるぞ保円!!」

「もしわたしが井津端で不首尾を犯せば、貴公はそれを口実にわが朱家を踏み潰すつもりであろ。そうはさせぬぞ、青家の小僧」

 摂政のまなこに怒りの火花が散った。

「この……!」

 保円はすい、と身を起こし、袖を翻して妻戸に向かう。

「保円! 話は終わっておらぬ!」

 保円は足を止めると、固唾を飲んで見守る公卿たちを見回し、そののち摂政に視線を向けた。

「風声春野は遠辺国にいるそうです。彼女を公職に引き戻す説得はわたしがしますので、そのあいだに、貴公は公卿方をご説得なされよ。では」

 ガン、と妻戸を蹴り開けると、保円はすたすたと歩み去った。

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