第32話
目が覚めると消毒薬の臭いが鼻についた。瞼を通して淡い光が見えている。俺は横たわっているのか。そう気づくのにも時間がかかった。
目覚ましが鳴るまで寝よう。
寝返りを打とうとして体中に激痛が走り目が開いた。
「あっ、気がついた!真山さん!」
千尋が上から覗き込んだ。もう目に涙をためている。横に大野が立っていた。少し痩せこけて見えたがしっかりと自分の足で立っているところを見て安心した。
そうか、終わったんだな。うまくいったんだ。
「大野、良かった」
「真山さん……。」
大野が深々と頭を下げた。涙が床に落ちるのが見えた。
「親子揃って泣くんじゃないよ」
俺は身体を起こそうとしたが胸にきつく巻かれた包帯で自由が利かなかった。
「真山さん!そのまま!」
病室の入り口でみさきが花瓶を持って立っていた。ベッドの脇のテーブルの上に花瓶を置くと顔を覆って泣き出した。
「大野のこと、ありがとう」
礼を言うと顔を上げ慈愛に満ちた目で俺を見た。俺が言葉を探しているのをわかっているかのように優しく頷いていた。
右手に違和感があった。引きつるような感覚がある。右手を布団から出そうとしたが全身の油が切れてしまったかのように僅かに腕が動いただけだった。みさきが言った。
「車のキーが手のひらに食い込んで刺さってたの。何針も縫ったのよ。手を開かせるのに苦労したって先生が言ってた」
そう言って布団の中の俺の右手を優しく包み込んだ。さっきまで泣いていた千尋と大野が冷やかすように俺を見ている。
「あぁ~、う、うん」
窓際から咳払いがした。目を動かすと成田が立ってにやついていた。
「成田さん、助かりました」
「礼ならその手を握っているみさきにだけ言えばいいんじゃないのか?」
みさきが顔を赤らめて手を引っ張り出し、成田を睨みつける。俺は完全にいい見世物だ。逆光で良く見えなかったが成田の顔が少し腫れているように見える。
「どうしたんです?その顔」
「これか?これは……あれだ……、」
「奥さんにお灸を据えられたのよ」
「おい、みさき!」
みさきがさっきのお返しだと言わんばかりにやり返す。
「それじゃあ――」
「あぁ、お前の言う通りだった。一発顔を殴られてそれだけだ。おまけに涙も流しやがって」
「よかったですね、成田さん」
「まっ、まぁ良かったのかな」
照れたように頭を掻く成田を大野までもが笑いながら見ていた。二人にわだかまりは無いようだ。
「そうだ。梅島さんは?」
俺が聞くと、みさきが俺の右側のカーテンを開けた。梅島がベッドの上に座ってにやついている。頭は包帯で巻かれ唇は倍ほどに腫れていたが身体は無事なように見えた。
「そうだはないだろ?なんだ、もう少し隠れて聞いていたかったんだがな」
「無事でよかったです、梅島さん」
「お前とは鍛え方が違うんだよ、まったく丸2日間も寝やがって」
「2日も寝ていたんですか、俺は」
「仕方ないか、タクシー運転手は常に寝不足だからな」
腫れた唇を不自然に開いて笑った。壮絶な顔だった。俺も笑いそうになったが肋骨がきしんで顔を歪めるだけだった。
「所長と郷田は脅迫未遂と拉致監禁の罪で逮捕された。お前のボイスレコーダーが証拠になった」
梅島が真面目な顔になって言った。
「所長にはギャンブル癖があった。新宿に飛ばされたのも金銭トラブルが原因だったようだ。あのシンドウって男には500万円の借金があったみたいだ。あの夜、所長が急に動き出したんで俺は尾行してみたんだ。ちょっと探偵の真似事をやってみたかったんだよ。新宿で二人の男と合流するところまでは問題なかったんだが、その後、シンドウに尾行がバレて捕まった。俺は探偵には向いてないことが良くわかったよ」
大野が引き継いで言った。
「真山さん、俺のことを信じてくれてありがとうございました」
「おまえ、やっぱり所長の脅迫を止めさせようとしたんだな?」
「はい。俺がノートパソコンを盗んだことはすぐにバレました。あの日、予約仕事があると所長に言われて瑞穂ふ頭に行ったんです。絶対に何かあると思ったのでパソコンはアパートに置いて書置きを残してきたんです。そこで郷田に捕まって倉庫に監禁されました。パソコンは家にあると話してしまったんですが、俺は会社に新宿の家を届けてなかったので先に真山さんが見つけてくれると信じていました」
「危ない橋だったな」
「すいませんでした、千尋のこともありがとうございました」
そう言って千尋の頭を押さえて二人で頭を下げた。
「頑固なのは奥さん似か?」
「そのようです」
「いい娘に育てたな、大野」
「はい、ありがとうございます」
大野の横で千尋が誇らしげな顔をしていた。
「真山さん、友達たくさんできて良かったね」
「友達?」
「真山さん?」
千尋が睨みつけてくる。大野は笑って見ていた。
「そうだな、たくさん出来た」
俺は素直に千尋に言った。千尋は嬉しそうな顔をして大野を見上げている。いい親子だ。
「失礼します、梅島所長」
一人の女性が病室に入ってきて梅島に何か耳打ちすると出て行った。
「梅島所長?」
俺が聞くと梅島は照れたような顔をして言った。
「天野がクビになったんでな、俺が所長になった。暫定だがな」
「おめでとうございます。居酒屋のオヤジも見てみたかったですけどね」
「俺もそっちの方が似合っている気がする」
「私もそっちの方が似合っていると思います」
大野が梅島を見て笑いながら言った。
「真山、俺のところに来ないか?どうせ新宿でしか営業しないんだろ?」
「ありがたい話ですけど今の家が気に入っているんです、すいません」
「家なんか何処でも同じじゃないか」
「お気に入りのライブハウスが家の下にあるんですよ」
「おかしなこだわりだな、まぁお前らしいか」
「ほんと、真山さんらしい」
みさきが割り込んできて言った。
「たまにはうちの店にも顔出してくださいね」
「なんだ?みさき。俺じゃ役不足みたいだな」
成田が絡んでくる。
「もう、いちいち絡まないでよ!」
みさきが笑って言うと成田は大げさな表情をして俺に目配せをした。何か含みがあるその目配せにみさきが顔を赤らめて横を向く。
大人の話を黙って聞いていた千尋が右手を高く挙げた。全員が千尋に注目する。
「お父さん、わたし決めた!探偵になる!」
一瞬の間が空いた後、その場の全員が口を揃えて言った。
「やめなさい!」
友達か。悪くないな。俺は自然にそう思えるようになっていた。病室にいつまでも笑い声が響いていた。
友と呼ばれた冬 シライワイガラ @8rock
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