遥かなるこうじえん
「ううぅーーー……」
日替部の部室で、パイプ椅子に座った啓示が頭を抱えている。
「あれ、どんな意味だったっけ……」
浮かんだ言葉の意味が思い出せない。よくあることだが処方箋は特にないため、ずっともやもやしてしまうのが厄介なところだ。
「……仕方ない」
立ち上がると、壁際の本棚に足を向けた。敗北感に襲われるが、この際背に腹は代えられない。
「えーと……辞書は、と」
整然と並んだハードカバーやら新書やらを指でなぞっていく。
〈人脈はたいてい不整脈である〉
〈月とすっぽんぽん〉
〈二次元の神様〉
誰がどの本を持ち込んだか、大体察しがついてしまうのがちょっと嫌だ。
「……辞書、辞書」
気を取られたら負けと己に言い聞かせながら、啓示はさらに棚を物色する。
「お、あったあった」
一番下の段の奥から取り出したのは、力いっぱい殴れば容易に人命を奪えそうなケース入りの分厚い辞書。
「……あれ?」
のはずだったが、違った。手にした紙箱はそのサイズに見合わず、やけに軽い。覗き込むまでもなく、中身は空だ。
「ん?」
紙切れが一枚、ひらひらと足元に落ちる。
「何だ?」
拾い上げると、中身に目を通した。
この辞書は預かった。返してほしくば屋上に来い
「……ふむ」
どう見ても脅迫状です、ありがとうございました。しかも新聞の切り抜きによるコラージュなあたり、犯人は昭和のノリが大好きな人物ですね。
「やれやれ……」
啓示は呆れ顔でため息をつく。
心当たりはある。ありすぎるくらいにある。というか、こんなこと思いつくのは自分の知る限り一人しかいない。
「ったく」
脅迫状を握り潰すと、啓示は部室を飛び出した。振り回されるのはしゃくだが、手をこまねいてもいられなかった。
「ひっひっふー」
人気のない部室棟の廊下を、ひたひたと走る。
日当たりもよく、いつも賑やかなカオス学園だが、ここはやけに薄暗い。これも建物全体に蔓延するよどんだオーラの成せる業だろうか。
「ったく、めんどくせぇ!」
手すりをつかんで華麗なターンを決めると、屋上への階段を一気に上った。
とにかく、今は辞書に会いたかった。会いたくて会いたくて震えたりはしないがそれでも会ってめくって舐め回すように調べてやりたいとは思った。
「ここかぁ!」
分厚い鉄製の扉を力任せに押し開ける。きぃいいい、と耳障りな金属音が、辺り一帯に響いた。
「ふ、ようやく来たわね、けーじ」
悪者オーラ全開な割には、やけに澄んだ声が耳に入る。
「む」
啓示はぐっと腰を落とし、臨戦態勢を取った。
「……やっぱりお前か」
見上げた先、給水塔の上に立っていたのは、あまりにも予想通りの人物。
「待っていたわよ。おほほの、ほ」
悪の首領様よろしく仁王立ちになった瀬奈が、啓示を見下ろしながら、おかしなイントネーションで高らかに笑っていた。
「で、ジショはどこだ?」
啓示は問いかけた。とにかく、今は辞書を手に入れることが第一。我慢して付き合うしかない。
「けーじ、あなたの目は節穴? これを見なさい!」
勝ち誇るように言い放つと、瀬奈は傍らのタンクを指で差した。
「……?」
まっすぐ垂れた一本の白線が目につく。
「……な、何だとぉ!」
続いて、たこ糸で亀甲縛りにされ、ふらふらと風に揺られる辞書がばんと視界に飛び込んできた。
「こ、これは……」
啓示は絶句した。完全に理解の範疇を超えている。生まれて初めて見て、そして多分もう二度と見ないであろう辞書の扱い方だ。
「ふふ。驚きのあまり声も出ないようね」
瀬奈は斜に構えると、切り揃えた前髪をさらりとかき上げてみせた。
「う……」
啓示はどきっとする。
冷静に考えれば、目の前にいるのは辞書を亀甲縛りにして喜ぶ変な女なのだが、その件はひとまず横に置きたくなるほど魅惑的な挙措だ。
「さあ、けーじ! この辞書を解放してほしければ私の要求に応えなさい!」
形のいい膨らみをぐっと強調するように、瀬奈が胸を反らす。
「お題! こんな花火師は嫌だ!」
「は!?」
啓示は目をむいた。これでボケの一つもやれということだろうか。何だそりゃ。唐突にもほどがあるぞ、おい。
「む、むむむ……」
とは思いつつも、つい考えてしまう。問題を出された以上答えないといけない。平凡人の悲しい性だ。
「……よし」
整った。あまり力んでも仕方がないので、ここは一つ自然に身を任せ、浮かんだ言葉をそのまま口にしてみるとしよう。
「こんな花火師は嫌だ……特技が人間大砲」
ぼそりと一言、発射。
「……ぷ」
瀬奈の口元が緩んだ。
「……おまけ。合格」
カッターを出して糸を切ると、啓示に向かってぽいと辞書を投げる。
「う、うおっと」
啓示はよろめきながら受け取った。勝利の手応えがずっしりと重い。
「よ、よし」
すぐに糸をほどき、辞書を開いた。ようやく、念願の調べものタイムだ。
「……あれ?」
いきなり、脳内が純白の大雪原と化す。
「何、だっけ……」
そう呟いたきり、啓示は声を失ってしまった。そもそも自分はどんな言葉を思い浮かべ、その意味を知りたがっていたのか。全てが記憶から消え去っている。
「あ、ぐぅううーーー……」
いくら唸ってみたところで、どうにもならなかった。頭をひねろうが、脳みそを絞りまくろうが、今となってはもう手がかり一つさえも残ってはいない。
「……ふ」
絶望の声をあげる啓示を眺めていた瀬奈が、勝者の顔でにやりと笑った。
奇をもって貴しとなす日替部 山野 凌 @ryouyamano
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