鏡は自分を映せない

小野寺こゆみ

第2稿(サンプル)

鏡は自分を映せない     


 鏡にはセーラー服が似合っていた。彼は正真正銘男だったけれど、それでも似合っていた。

 伝統ある女子高を共学に改造したこの高校は、男子の制服がなかなかにセンスがあるのに対して、女子制服がダサかった。それは、失われた母校を惜しむOGたちが、自分たちの時代の面影を残したいと我儘を言っているせいらしかったけど、そのせいで、この学校の未来をつくる女子はちっとも入ってこない。ごくまれに母校に顔を出しては、女子の後輩がいないと嘆く彼女たちは、自分たちが一番女子を蔑ろにしていると気付きもしない。だから、この学校は女子高じゃなくなったんだと思う。

 鏡は、その中にあって、女子制服を着用する貴重な存在だった。ただ、鏡は男だった。とはいえ、鏡は真正の美少年だったから、セーラー服を着ると、女子と何ら変わらなかったし、むしろ女子よりも可愛いくらいだった。紺色のプリーツスカートの裾が、鏡の白くすべすべとした太ももに擦れてするりと音を立てると、クラスの男どもは揃ってため息をついた。勿論、俺も。

 だから、鏡はクラス内で特別扱いをされていた。誰も近づかなかった。同時に、男は誰もが鏡に憧れていた。鏡に直接モーションをかける奴は、勿論いた。しかし鏡は、きゃはっと笑って、その誘いを全て断っていた。「君は淋しくなんてないだろ」と言って。

 じゃあ、本当に淋しい奴が、声をかけたらどうなるんだろう?

 俺は前からずっと思っていた。鏡の、何も考えず、ただひたすらに時間を無駄に費やすことに人生を懸けているような横顔を見つめながら、ずっと、ずっと、思っていた。

 自分は淋しい奴だとは自覚していた。四六時中一人で、特にコレといった趣味もなく、なんとなく暇つぶしにスマホを弄っては、何を楽しいとも思ってない。生きている価値がないけれど、死ぬのは怖いから生きていたい。親はどう思っているのかよく知らない。母は俺が物心ついた時にはいなかったし、親父は毎日毎日仕事に明け暮れるために、俺とは別の家に住んでいる。俺はほぼ家政婦に育てられ、中学に入ってからは実質独り暮らしをしている。

 そういう俺ならば、鏡に声をかけたっていい気がした。でも、勇気が出なかった。

 「鏡」

 たまに俺は、誰もいない家で、彼の名前を呟く。返事はないし、彼はそのことを知らない。俺は彼がセーラー服を着ている理由を知らないし、彼の家も知らない。お互いに俺たちは知らないことだらけだった。鏡のことを考えていると、苦しい恋に落ちてしまったかのようだった。でも、そうじゃないのだ。これは恋じゃないのだ。

 そんなことばかり繰り返していたら、いつの間にか鏡も俺も高校二年生の夏を迎えていた。鏡は相変わらずセーラー服を着ていて、その頃には、鏡は自ら望んで孤独になっている状態なのだと判明していた。

 鏡はいつでも本を読んでいる。図書館に行ったり、自分で買ったりしているらしい。授業中にも構わず読むから、度々注意を受けていたけれど、どこ吹く風といった調子で聞き流しているから、ついには教師の方が諦めて、彼の好きにさせてしまった。体のどこかが悪いらしい鏡は、体育の授業も、いつもセーラー服のまま見学している。勿論本持参で。それでも彼は、成績優秀者として表彰されるし、素行不良で親が呼び出されたこともないようだった。

 この日、鏡はモーパッサンの『脂肪のかたまり』を読んでいた。その話は、昔授業で扱われていたから知っていた。かわいそうな娼婦の話だ。薄っぺらい岩波文庫を三時間目の途中には読み終わって、鏡は次の本を取り出した。今度は違う出版社の文庫だ。『海に住む少女』と表紙に印字されているのが辛うじて読めた。内容はわからなかったが、鏡の口元が笑んでいたから、きっと面白い話なのだと思う。

 昼休み直前になると、チャイムが鳴る前に鏡は教室を出て行き、食堂で食券を全メニュー分、一枚ずつ買う。そして、できたものから順に、全て食べる。それはほぼ毎日続く鏡の昼の食事風景で、鏡はその細い体のどこに収めているのか本当にわからないぐらい、よく食べる。おまけに早食いで、皆より数十倍多く食べるくせに、食べ終えるのは皆より数百倍早い。だから、時計が半を指す頃には、鏡は山のような食事を全て片づけている。そのあとは教室に戻って、また本を読んでいる。

 そして放課後になって、掃除が始まると、すぐに姿を消す。掃除当番のときはさっさと掃除を済ませてから、消える。本当に消えるように帰ってしまうから、鏡に病的なまでに執着していた奴らも、ついに鏡の自宅を特定することができなかった。

 だからその時、鏡は間違いなく俺を待っていたのだと思う。

 俺は掃除当番だったので、教室のゴミを馬鹿丁寧に掃いたあと、小さな子供ぐらいはありそうな、ふくれたゴミ袋をゴミ捨て場に持っていった。帰ってくると、初夏の教室は風が吹き荒れるばかりで、もう誰もいなかった。

 俺は自分の荷物を持って、教室から出て行こうとした。その時、バサバサと紙が一気に捲れる音がして、振り返った。

 鏡が窓際に立っていた。風を孕んだカーテンの影にいたのか、突然出現した鏡は、風で捲れ上がる本のページを、気だるげに抑えていた。

 「鏡……」

 彼の、背中まで伸びた髪も、風で舞い上がる。湿っぽい夏の風に混じる、シャンプーの甘い香りが、俺の口から言葉を紡がせた。

 「俺の淋しさを埋めてくれないか――」

 鏡は、その声で初めて俺に気が付いたかのように、目を上げた。そのまま、俺としっかり目線を合わせる。一瞬、ひるんだ俺は、彼から目をそらしそうになって、しかし、そうしたらきっと鏡は俺を見捨てるに違いないと何故か強く思って、逆にきっと鏡の目を睨みつけた。鏡の、ぱっちりとしているくせに、いつもアンニュイに伏せられている目が、このとき、大輪の赤薔薇が花開くように、大きくなったのを覚えている。鏡は、きゃはっと笑った。彼はいつも、笑うときは大変楽しそうにきゃはきゃは笑うのだ。ただ、いつも口先だけで笑っていた彼が、心の底からおかしく思っているかのように笑うので、俺はそれが見られただけでも、充分に満たされたように感じた。そして、角度によって紫色にも見える、複雑な赤色の瞳が、きらきら光って、まるでアメジストのように見えたので、俺はその瞳を舐めたいと心底思った。

 「――いいよ」

 鏡は、口の端をぺろりと舐めて、告げた。

 「君は確かに、酷く淋しそうだ。ただし、対価を頂くよ」

 対価、という言葉に、金を真っ先に連想したのは、鏡にそういう、よくない噂があったせいだと思う。鏡が、新宿二丁目でウリをしてたとかいう。勿論俺は信じていなかったけれど、たとえ彼が立っていたとしても、俺は彼を神聖視することをやめなかっただろう。別に、彼の下半身事情なんて、今ここにいる鏡に関係ないのだ。彼は、セーラー服を着ている彼は、こうして俺に、純粋無垢に見える笑顔を向けている。それが俺にとっての、鏡の事実である。

 「いくらでもいい。いくらほしい?」

 「五万円。それ以上もそれ以下もいらない」

 きゃは。くるりと体をこちらに向けて、彼はまた笑う。高校生のくせに、声変わりのきていないボーイソプラノの声。鏡の声。俺はそれだけでもうクラクラきてしまった。彼は、そんな俺を見て、心底おかしそうにきゃはきゃは笑う。そして、本から栞を引き抜くと、そこに何やら鉛筆で書いて、俺に手渡した。

 「僕の家の住所だ。五万円もって、おいでよ。ああ、制服で来るなんて、野暮なことはしないでよね」

 その後彼がどう帰っていったかは覚えていない。俺は一度自宅に帰って着替えると、コンビニのATMで、生活費の余りをコツコツ貯めてきた口座から五万円引き出して、栞を頼りに、鏡の家へ行った。


 鏡の家は、横浜の一等地に建つ、高級マンションだった。フロントにコンシェルジュがいて、「高橋という者ですが、淋代鏡さんの部屋に行きたいのですが……」と、どぎまぎしながら伝えると、もう鏡から話が通っていたらしく、簡単に入れた。

 案内された階数は最上階で、「何号室ですか?」と聞くと、「ワンフロア全て、淋代様のお宅となっております」としれっと返すコンシェルジュは、俺に訝しげな視線を向けることは終ぞなく、快く玄関前まで案内してくれた。

 インターフォンの小さなカメラレンズに顔が映るように意識しながら、「鏡?」と問いかけると、「今開けたげるから」と、気だるげな声がした。その直後、重い錠の下りる音がした。

 「上がりなよ」

 「お邪魔します」

 奥から聞こえる鏡の声に従って、玄関で靴を脱ごうとしたが、框が見つからなくてまごついた。「あー、ここ靴脱がなくていいから」と俺の状態を察したのか、鏡の声がすぐに飛んできた。

 「鏡? どこだ?」

 「寝室! そこの廊下伝いに行った、一番奥の部屋だよ!」

 それ以上、鏡は何も言わなかった。俺は、鏡の家はほんのりとバニラの匂いがするということを確認して、今後バニラアイスを食べる度に、彼の家で、そろそろと廊下の端を歩いたことを思い出すに違いない、と思った。

 廊下は玄関から寝室までがたっぷり長くて、両脇にずらりとドアが並んでいた。天井はマンションとは思えないほど高く、天窓から夕日が差し込んでいた。

 突き当りの扉は、薄ら開いていて、中から人工的な光が漏れ出てくる。意を決して、ノブに手をかけると、「ノックもしないつもり?」と、からかう声音で鏡が問いかける。慌てて、コンコンと軽く戸を叩くと、「どうぞ」と、思ったよりも静かに返された。

 扉を全開にはせずに、入るのに必要な分だけ開けて、するりと体を滑り込ませた。まだ鏡の方に向き直るのが怖くて、しばらく扉を見つめていると、「猫みたいに入るんだね、君」と、鏡はきゃはきゃは笑った。

 おそるおそる振り向いてみる。広い部屋の中央に置かれた、キングサイズのベッドの上に、全裸でちょこんと座る鏡がいた。

 「鏡、なんで」

 「なんでって、これから君と僕とがセックスするからだろ」

 さらりと鏡の口から「セックス」という単語が出て、しかもそれを俺とするという。握っていた五万円が、急に重くなった。

 「なんだい、その顔。さては君、童貞だろ。いいよ、自信を失くすなよ、僕は、嫌いじゃないよ。不慣れな調子が、可愛いと思う時すらある……」

 「待ってくれ、話についていけない。俺は、君に、淋しさを埋めてもらいにきたんだ」

 「その埋め方がセックスってだけだ。嫌なら帰れば」

 「別に嫌じゃないから、余計に困ってる」

 「だよね。僕可愛いもん。お金はそこの箪笥の上に置いといて。……座りなよ」

 鏡は、教室で見せた笑顔が嘘だったかのように、そっけなかった。

 俺は、箪笥というより戸棚に見える、小さな箪笥に五万円の入った封筒を置いた。封筒は手汗で皺が寄っていた。再び鏡に向き直ると、鏡は自分の横をぽんぽんと叩いて示した。だけども、俺はそこに座る気が起きなくて、それでも座らないときまりが悪いから、鏡の前に、跪くことにした。鏡は一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐに満ち足りた顔になって、しゃがんだ俺の膝小僧の上に、つま先をそっと置いた。

 「君はマゾなの。そういうのは、ちっとも感じなかったけど」

 「マゾではない。ただ、鏡の隣に座りたくはないと思ったんだ」

 「なんで?」

 「不可侵だったから」

 鏡は不快そうに鼻をフンと鳴らして、「これから肌を重ねる相手に、その気遣いは余計だ」と高圧的に言った。

 「それについても聞きたいんだ、なんで君は、俺とセックスしようと言うんだ? 一度しか話したことがないような相手に……」

 すると鏡は、今度は口の端のみで笑んだ。

 「だからいいんだよ。お互いによく知ってしまって、その上でセックスしたら、それは勘違いの種になっちまう。だから、それでいいんだ。一夜で精算できる関係が僕は好きだ」

 知らない人に抱かれたい、という嗜好は、愛した人ほど殺しやすい、という言葉に似ている。ただ、それが何に出てきた言葉かを、俺は忘れてしまっていた。

 「さあ、僕を抱くのかどうか、そろそろはっきりしてくれよ」

 俺は返事の代わりに、鏡の爪先に口づけ、そのまま口に含んだ。

 「くすぐったいよ……」

 鏡は欲を隠さない声で囀る。俺はもうたまらなくなって、彼の脚をひょいと担ぎあげて、ベッドに押し倒してしまった。黒く染めた絹糸のようだと思っていた髪は、白いシーツの上に散らばると、光を反射して、濃紺に光った。

 「もう早く入れて、出しちゃってよ……」

 さっきの囀りとは打って変わって、面倒そうに呟くと、鏡は俺の腰に手を伸ばして、ベルトを外しにかかる。「入れて、出す」の意味がわからないわけではなかったし、男同士でのあれそれを知らないわけでもなかった。俺がわざと「どこに入れればいいんだか」とぼそりと呟くと、鏡は「尻」と、色気も無く言った。

 「慣らさなくていいのか?」

 「なんだ、やっぱり知ってるんじゃないか。別に、さっき自分でやったから無問題だ」

 「慣れてるんだな」

 「君よりよっぽど慣れてる。……何その顔。絶望した? 僕がビッチ野郎だったことが、想像できなかった?」

 不思議なことに、そんなことは一切無かった。目の前に広がる光景が、何故か俺は淫靡だと思えなかった。

 横たわったまま、どこか遠くに、絶望を匂わせる目線を投げている鏡は、ベッドの上に独りぼっちだ。俺は彼を抱くことで、彼の孤独を埋めながら、自分の孤独を埋めることができるだろう――そんな、奇妙な予感があった。

 「ゴムは?」

 「体が冷めるから嫌だ。妊娠するわけでもないし、つけなくていいよ。感染症の心配もない。……ビッチの言葉は信用できない? それとも、尻に入れたら糞が付かないかとでも思ってる?」

 「いや……」

 熱い内臓、臭い糞、語られない本音。全ての汚いもの、醜いもの、見せられないものを内包した、鏡の青白い膚に触れる。冷房の風にずっと晒されていたそれは、酷くひんやりしていて、彼は今、死んでいて、甦るのに俺の精液が必要なんだろうな、とぼんやり妄想した。果たして鏡は、インキュバスか、それともサキュバスか。吸血鬼にも似ている気がする。

 鏡は何も言わない。ひたすらに虚空を見つめている。半ば閉じられた瞳から、光が徐々に失われていく。俺は、ついに鏡を掻き抱いて、あとはもう、本能でしか動けなかった。


 孤独が深すぎると、何が孤独で、何が孤独でなかったか、わからなくなる。この虚無感は生まれ持っていた俺の性質で、実は俺は孤独なんかこれっぽっちも感じていなかったんじゃないかと、俺は孤独を感じる器官もないほどに空っぽだったのではないかと、不安になる。そして、その不安を埋める術を持たないことに安心する。その不安こそが孤独だったのだと、解決するのだ。

 そんな話を、行為の後に鏡としていた。

 鏡は、まだ火照っている頬を、俺の胸に押し付けながら言った。

 「僕は淋しいから、こうして物理的に体内を満たさないといけないんだ」

 肉欲で孤独を満たすのとは違う、もっと物理的な解決法。腹が満ちれば、体内が満ちれば、孤独ではないと偽れると、この美少年は信じている。きっと、彼の異常な食欲も、これに起因している。

 丁度よく、鏡の腹が鳴った。薄い腹に似合わず、豪快な音だ。恥じらう素振りも見せず、彼は言う。

「おなかすいた。夕飯食べに行こう」

 つん、と彼は俺の髪を引く。上目遣いの彼と目が合って、目線に誘われるままに軽いキスをした。お返しに、青い髪を手櫛で梳くと、鏡は気持ちよさげに目を細めて、へらりと笑った。

 「一緒に?」

 「そう。そこまでがワンセット」

 「セックスをして、ついでに食事をするのが?」

 「違うね。メインは食事、セックスはついで。毎回セックスってわけにもいかないから、次はデートでも行こうか」

 「次があるのか」

 「そうだよ。……まさか、これだけで五万だと思ってたの?」

 「そうだけど」

 「君の金銭感覚、狂ってる」

 鏡は吐き捨てるように言って、ベッドから体を起こした。

 「この一晩に五万を費やすつもりならさ、もっと僕を貪ってやろうとか思わなかったわけ?」

 思わなかったわけではなかった。まだ熱にうかされている瞳を伏せて、じっとり汗ばんだ膚を紅く染めた鏡は、濃厚すぎる色気を漂わせていたし、俺は自分の若さを自覚していた。だけど、これ以上の接触は、鏡は望んでいないようだったから、欲を抑え込んで、その唇を繰り返し味わうだけに留めていただけだった。それなのに、鏡はそういうことを言う。彼は孤独を嫌って、体内を満たすことに執心しているくせに、行為が終わったら、静かに拒絶を漂わせ始めるのだ。そして、そのことに本人は気づいていないらしい。

 「貪ってほしいの?」

 「別に。やりたいならやれば? 僕は拒絶しない」

 嘘だ。彼は、セックスはたった一度がいいと思っている。俺は一度彼を抱いて、彼の中に執着をぶちまけた。鏡は、その一度だけの執着さえもらえればいいのだ。今の彼は、夕飯に何を食べるのかしか考えていない。

 「シャワー浴びてくる。この部屋では何しててもいいけど、他の部屋には行かないでよ。トイレは出てすぐの右の扉ね」

 鏡は、内腿に俺の精液を伝わせたまま、気だるげな様子もなく、出て行った。俺は一人取り残されてしまった。さっきまで確かにあった熱は冷めていて、俺は床に散らばった服を集めて、着ることにした。

三十分ほどスマホを弄りながら待っていると、さっきまでのことが息をつく間もなく他人事になっていくのに驚く。しかし、「おまたせ」と扉が開いて、その向こうに確かに鏡がいること、そのことに、あれはやはり事実だったのかと、一旦は安堵しつつも、まだしこりのように不安を感じる。何故かって、そこにいたのは鏡だったのだけれど、恰好が、黒っぽくてフリフリした、ワンピースだった。そういえば鏡は、学校に女装して通っている奴だった。ただ、それが似合いすぎていて、鏡に関しては女装というよりも、それがちゃんとした格好に見えてしまうだけなのだった。

そのワンピースも鏡には似あっていたが、化粧をしているのが俺にはいけ好かなかった。何かベタベタ塗られていると、鏡の顔が見えない。

「化粧、落としたら? 素顔で十分だよ」

 「やだ、ゴスロリにすっぴんなんて恥さらしだ」

 「よくわかんないけど、それなら服変えたら?」

 「えー……めんどくさ……わかったよ、いいよ、変えてきたげる。五万に免じたげるんだからね?」

 俺の視線の意味に気づいたのか、鏡は唇を尖らせながらも折れた。また十分ほど待つと、青いストライプのワンピースを着て、化粧をすっかり落とした鏡が出てきた。

 「さ、何食べたい?」

 「なんでも」

 「それが一番嫌われる回答なんだからね?」

 「じゃあ肉だ」

 「肉ったって、どんな食べ方なんだよ」

 「焼肉」

 「じゃあ、そうしよう」

 全てこちらに決めさせて、鏡は俺の持ってきた封筒をひっつかんで出て行った。俺も鞄を持って急いで玄関に行くと、鏡は小さな白いサンダルを履いていた。ついでに小さなバッグも持って。

 「早く行こう。僕、おなかかなり空いてるんだ。この時間から焼肉ってなると、店混んでる可能性高いし」

 「もし混んでたら、別の店に行こう。ファミレスとか」

 「やだ! 僕もう焼肉の気分なんだからね!」

 鏡はとっとと駆け出していく。俺も扉を閉めて駆けだした。オートロックが閉まるころには、俺たちはもうエレベーターに乗っていた。


 鏡おすすめの焼肉屋は、幸い空いていた。鏡は相当な顔なじみらしく、彼の顔を見た瞬間、店員の顔が引きつった。彼の食事量を考えれば、当然の反応と言える。

 彼が時間無制限食べ放題コースを二人分注文すると、店員が悲鳴のように注文を復唱する。そして、服の汚れを防ぐための白い紙エプロンを着けて、鏡がトイレで髪をおだんごに纏めている間に、おひつが三つと、調理用の特大ボールに山もりのキムチとナムル、そしてご飯が盛られたラーメンどんぶりが二つ。テーブルの上に所せましと用意されたそれらは、見るだけで腹がくちくなりそうだ。しかし、これを食べきらない限りは、食べ放題メニューが注文できない。よくあるシステムだが、ここまで露骨だと、笑えてくる。

 「盛りがいいよね、ここ。二回目の来店からずっとこうなんだ」

 鏡は純粋に喜んでいるらしい。俺は曖昧な笑顔で頷くしかなかった。早速彼は茶碗にご飯を山盛り(文字通り山の形に盛った)にして、キムチと一緒にもりもり食べ始めた。俺はその光景だけで胃もたれがしそうだった。

 「どうしたの? これ食べ終わんないと、注文できないよ?」

 「……うん」

 ボールに、盛りつけられたというより、作り置いてあったであろうナムルを見ると、食べていいのだろうか? という気分になってくる。

 「もう全部僕食べちゃっていい?」

 「どうぞ」

 鏡は、もっもっもっ……と頬を膨らませて食べる。彼は、くちゃくちゃ音を立てて食べるようなことは一切しなかった。食べている途中に下品に口を開けることも、逆に、行儀よく小皿に取り分け、一口ずつ食べることもしなかった。食べ物はどんどん減っていき、十分も経つ頃には、半分も無かった。周りの客全員がこちらに注目しているのがわかった。

俺もキムチとご飯に少し口をつけた。キムチは辛さの中に甘みが確かに感じられる、今まで食べたキムチの中では一番おいしいと思えるものだった。ご飯もつやつやふっくらと炊かれていて、確かに鏡が気に入るのもわかる。彼は、なかなかのグルメだと知った。うちの学校に入学したのは、学食の旨さが県下随一だからではないか? とは前々から男子の間で噂されていたことだけど、多分真実だ。

俺がご飯を茶碗の半分まで減らしている間に、鏡はメニューを取り出し、店員のお姉さんに「肉メニュー上から下まで全部!」とキラキラした瞳で注文している。お姉さんは魂の抜けたような顔で、ガクガク頷くと、厨房に逃げるように駆けて行った。

 「炭が真っ赤に熾ってると、最高にテンション上がるんだよね」

 「……これ以上食べられるの?」

 「僕を誰だと思ってるの? 学食の美味しさだけで学校を選んだかがみんだよ?」

 「かがみん」

 「そ。可愛いでしょ? 学校で呼ばないなら、これで呼んだっていいんだからね?」

 「いや、俺はいいかな」

 「そう。まあ、君、そういうキャラじゃなさそうだしね。こういう可愛い、ガキっぽい呼び名は、本当に人生行き詰ってるおじさんたちや、真正の馬鹿が喜々として呼ぶんだ」

 きゃは、と鏡は笑った。俺は、何も言わなかった。そんなことを笑って言える鏡は、純粋無垢に違いない。

 「ホルモンです」

 店員のお姉さんは、ボールいっぱいにホルモンを入れて持ってきた。単価が安い上に、焼くのに時間がかかるから、食べ放題では敬遠される肉だ。鏡はそんなことお構いなしに、ホルモンを網の上に並べ始めた。

 「ホルモンは脂が多いから、網の端っこにのっけておくと、炎が大きくなり過ぎないんだ! ……でも火力弱いし、真ん中にものっけとこ」

 じうじうとホルモンが焼かれていく。ようやくお待ちかねのカルビ・ロース・ハラミの盛り合わせがきた。しかし、こちらは普通の二人前しかなかった。

 「きたきた! えへへー」

 鏡は破顔しながら、肉を並べていく。ご飯の準備も忘れていない。ホルモンは白く引き締まってきたところで、二人でひっくり返していく。

 「ああああ……ハラミ、良い感じ……ひっくり返すよ!」

 さっき胃もたれしそうだと思ったのに、今は俺もハラミに焼き色がつくのが待ち遠しかった。

 息が詰まりそうな数十秒間を経て、ついに、鏡がトングをハラミに伸ばした。ほんの少しハラミを持ち上げて、綺麗な焼き色を確認した彼は、掴みあげたその肉を、俺のタレ皿に入れた。

 「……僕食べ始めたら、きっと君を気にする余裕ないから。食べて」

 絞り出すように鏡は言った。俺は、その言葉に頷いて、肉とご飯を食べた。

 鏡も、その一瞬の後に、もっもっもっと肉を頬張り始めた。あっという間に網の上が何も無くなると思いきや、食べた傍から綺麗に肉を乗せていくから、俺の口の中から肉が消える頃には、次の肉が焼けている。

 肉が半分ほど運ばれてきた頃、鏡は小鉢メニューと野菜とスープ類をあるだけ全部と、さらに石焼ビビンバを三つも頼んだ。それと、肉とご飯のおかわりも。俺は元からそこまで食べないのもあって、ご飯はやめて肉だけ食っていた。

 肉だけを落ち着いて食っていると、肉を食べる鏡の姿にどうしても注目してしまう。カルビが焼けると、まず垂れる肉汁をちゅうと軽く吸い、それからタレにさっと浸すと、ざくりと肉を噛みちぎり、はふはふと口を半開きにして熱がる。ロースが焼けると、今度は垂れる肉汁をタレに混ぜ込むかのように、裏表しっかり浸す。そして、タレと肉汁をたっぷり纏った肉を、山盛りご飯の上に乗せて、旨い汁を米にじわじわしみこませ、それからほくほくと米と肉を頬張っていく。ふっくりと膨れた頬は、まるでそれ自体が別種の生き物であるかのように、不規則にふぬふぬと動いている。口の端についた米粒とタレを、削ぎとるように、紅い舌がぺろんと出てくる。

 ついさっき、あの舌を俺は舐めた。少し表面はざりざりしていて、猫の舌はざりざりしていると言うから、鏡は猫なのかもしれないと思った。裏の付け根の方はつるりとしていたが、その分、何か不思議な突起があった。それを、なんだろうと、自分の舌先で何度も突いたり、舐めたりしてみたら、鏡は腰を揺らめかせながら、俺により一層強く抱き着いて来た。

 箸を握る鏡の細い指、ふぬふぬ動き続ける頬、血色の良くなった唇、白い紙エプロンと、ワンピースの下に隠れた、男にしては膨れた乳首。肉を噛み締めている感触は、さっき彼の肩に噛み付いた感触とは違って、柔らかすぎた。

 鏡の肉は、旨かったな。そういえば、まだ、彼の瞳を舐めていなかった。

 ベッドの上の、死んだような鏡より、好きなものを心ゆくまで食べている鏡の方が、「そこに鏡がいる」実感をくれた。きっと俺は、鏡を腕の中に閉じ込めているときより、今、よほど淋代鏡という人間を実感している。

 次の料理が運ばれてきた。鏡は特大ボールに盛りつけられた――というより、やはり作り置かれていたであろう――チョレギサラダをぱりぱり食べる。俺は半生の玉ねぎを食べると、できた隙間に肉を乗せた。乗せた、と思った矢先に、大きな隙間が次々できていく。鏡が肉をさらっていく。幸福そうに、もっもっと食べている。

 中腰になって、網に肉を乗せていこうとしたら、勃起していることに気づいた。

 「鏡」

 「うん」

 「鏡」

 「うん」

 「……鏡」

 「うん」

 心の中に、どっしりとしたものが入ってくる。体に力を漲らせていないと、倒れそうだ。喉元がぎゅうと締まって、息苦しい。とてもじゃないが、もう肉は食べられそうになかった。

 「デザートです」

 いつの間に注文されていたのか、なんてことを気にする余裕もなく、渡りに舟とばかりに、俺はデザートを漁った。しかし、山と積みあがった冷凍フルーツのパッケージの中には、バニラアイスだけが無かった。


 注文分を全て綺麗に食べつくした鏡は、「材料が無くなったため休業します」の張り紙を背に帰途につく。その途中、コンビニで、ファミチキを十六個と、ガリガリくんのソーダ味を一本買った。

「一個食べる?」

 「無理だ」

 「そう。わりと小食なんだね」

 鏡はそう言いながら、さほど気にした様子もなく、ファミチキに次から次へとかぶりつき、指先についた脂を舐めた。彼と比べれば、人類皆小食である。

 「これで一万円使い切った。……どう、淋しさは晴れた?」

 「……かもしれない」

 嘘だった。俺の中は、何かで満たされていた。ただ、その正体がわからなかった。

 「そう。じゃあ、またどこか遊びに行こうね」

 「うん……」

 ガリガリくんを、ガリガリ言わせず、ちゃくちゃく食べる鏡の、口の小ささ。アイスの垂れた滴を、ちろりと舐めた舌の赤さと、アイスの人工的な青。

 急に、全てが現実味を失くしていく。俺の中にあった何かまで、実態を失くして、するりと俺の肉を抜けていく。鏡がどこかへ消えそうになる。夏の夜、足元に生い茂った雑草を踏みつける、彼のサンダルは、確かにそこにあるのに。

 「またね」

 ゆるりと微笑んだ鏡に、俺は手を伸ばした。頬に手を添えた。

さっきまでふぬふぬ動いていた頬は、今はひんやり冷えている。鏡は、そっと手を取った。

 「……僕と離れたくないの?」

 俺と鏡の指が絡み合う。俺は、黙ってその指を強く握った。

 「……うちに来る? 五万円、全て使い切るまで、置いたげるから……どうせ、親、帰ってこないんだろ……」

 しゃく、しゃく。かりかり。口の中にアイスを含んだまま、鏡は俺の耳元で囁く。ひんやりした息が、耳にかかる。

 「……あ、当たった」

 アイスの棒を誇るように、鏡は翳す。あたりの三文字が、コンビニの乾いた明かりに照らされる。

 「鏡、そのあたり棒、俺にくれないか」

 「……やだ」

 「鏡!」

 懇願する気持ちだった。そのとき、彼は、あまりにも残酷だった。何もわかっていない子供のような顔が、この上なく憎い。

 「うちに帰って食べるんならさ、もうちょっと贅沢なアイスにしなよ。ハーゲンダッツ、奢ったげる」

 きゃは。また鏡は笑う。ああ、こっちの言葉の方が残酷かもしれない。彼はさっきの「やだ」が、俺にどんな感情をもたらすか、確実に知っていたんだから。

 それでも、俺はつられて笑う。だけど、俺はどうしても声を出して笑うことができなくて、口元が変に歪んだだけになってしまった。

 「変な顔。不器用なんだね、君は」

 コンビニの扉を押し開けて、鏡は振り返る。サンダルを履いたつま先をつんと伸ばして、彼は俺に笑いかけた。

 「君はきっと、バニラアイスが好きだろ」

 ちゅ、という軽い音と、柔らかくて冷たい感触、それからソーダの甘い味。それら全部が一緒くたになって、俺の脳に届く頃には、コンビニの扉は閉まっていた。ガラス張りの壁から、鏡がアイスケースからアイスを選び取っているのが見えた。口元が確かに笑っていた。


 鏡は天涯孤独らしかった。らしかった、というのは、彼自身、よくわかっていないから、そう言うしかないのだ。

 「僕は全部もらいもので構成されてるけど、最たるものはこの体だ」

 鏡はひとり掛けのソファに埋もれながら、コンビニおにぎりの包み紙を剥ぐ。その剥ぎ方が素早く丁寧なのに、俺は目をむいた。すぽぽん、とビニールから海苔を引き抜くのに、海苔が千切れてビニールの中に残ったりしない。綺麗に引き抜かれて、ご飯にくるりと巻かれていく。

 その特技も、もらいものなのか? と言おうとして、やめた。彼は、きっとその動作を特技だなんて思っていない。彼の特技はきっと、さくらんぼの茎を舌で結ぶことだ。

 広すぎるリビングの中で、鏡は小さく縮こまっているようにしか見えない。鏡のマンションは広すぎた。考えれば当然だ。この下のフロアの人間は、フロアを何等分かして、十何人かで住んでいるだろう。それなのに、鏡は独りだ。贅沢な暮らしには孤独がついてまわるのかもしれない。

「親がくれたって律儀に思ってるのか。ただ、できちゃっただけのものを」

 「違うよ。僕は僕のものじゃなかった。生まれてしばらくは、さーちゃんのものだった。親はあるかどうかわからない」

 「さーちゃん?」

 「うん。僕の飼い主。……らしいよ。本人がそう言ってたけど、僕はよくわかんなかった。今はわかるよ? でも、昔はペットも恋人も同居人も親子も、僕の中では同じものだった。僕はさーちゃんのものだった。今でも僕は、彼についてはよくわかってないけどね」

 鏡は、五個目のおにぎりに手を伸ばした。俺は、彼の過去は案外簡単に語られるものだと分かって、静かに驚いていた。

 彼は、プライドの高い男だから、そういう、奴隷のように飼われていた過去なんて、話したがらないと思っていた。彼の両親について聞いただけで、そういうエピソードが出てくるとは、全然思っていなかったのだ。

 「それで、さーちゃんにある日捨てられて、仕方がないから体を売って。そしたら、お金がいっぱいもらえたし、ご飯をおごってくれるおじさんもいっぱいできた。しばらくはいろんなおじさんの家を泊まり歩いてて、それを知ったおじさんが家をくれた。それで、学校に通ってみることにしたんだ」

 「へえ」

 「でも、学校って、つまんないんだよね。大学に行く気もないし、中退しちゃいたくなる。だけど、そしたら学割が使えなくなっちまうんだから、世の中変だ」

 「変かな」

 「変だよ。僕はこんなに困ってるのに、どうして世の中はこんな変なルールで回ってくんだろう。この世界は僕に不公平すぎる」

 鏡は九個目のおにぎりに手を伸ばした。

 この世に鏡という存在が広く認知されていて、本当に鏡に公平に世の中が回ったとしたら、世界は鏡の食べ放題利用を禁じるだろう。鏡の食欲で、小さな飲食店は一二軒ほど潰れるんじゃないだろうか。現に、今日行った店は鏡が入店したあと、予約客以外の入店を断っていた。そういうことが何回も続いたら、割と危ない状況になるんじゃないかと俺は疑う。彼の食欲の根源が、彼の無尽蔵の淋しさなら、それを少しでも癒すために、毎日毎日、様々な男が彼に宛がわれるだろう。

 そうなっていないということは、鏡が淋しくても、地球は勝手に回っていくということに等しい。鏡は、どこかの誰かが、大抵そうであるように、世間から無視されている。

 俺だけが、今、鏡の傍にいてやれる。その事実に、少し自惚れてもいい気がした。

 きっと鏡は、俺と出会う前にも、どこかの誰かと、こうして自分の生い立ちを、二人で座るには広すぎるリビングで、コンビニおにぎり片手に語っていたに違いないのだ。それでも、俺は鏡に選ばれたと思うだけで、幸せに満たされた気分になった。

俺は、この話を聞いたであろう他の誰かに嫉妬はしない。鏡は、そういう生き物だし、俺は彼に恋はしていない。それだけははっきりしている。

 鏡はくぁ、と欠伸をした。と同時に、その開いた大口に、おにぎりをスナック菓子のようにぽいと放り込む。もっもっも、と口が動いて、こくん、と軽く飲み込まれた。彼の孤独は簡単に埋まっていくように見える。本当はどうなっているか、それを知るには、彼の胃の腑を開く必要がある。そして、その中身こそ、鏡の本質なのだと思う。教室では見せない顔を見せ続ける、彼の。

 「そろそろ寝よ。シャワー浴びる? ……違うな、浴びて。臭い。汗とニンニクと煙の匂いが嫌」

 追いやるように、握りこぶしでてしてし叩かれる。まるで猫パンチだ。俺は、さっき家に寄って持ってきたスポーツバッグから、下着だけ出す。

 「鏡、そういえば、俺はどこで寝るんだ」

 「さっきの部屋で、僕と一緒に寝て」

 「だからシャワーを浴びろって?」

 「うん。あ、期待はしないでよ?」

 「しない」

 「……そこまで言い切られるとムカつくなあ……」

 鏡は最後のおにぎりを丸飲みした。彼の喉はどう見たって細いのに、簡単になんでも飲み込んでいく。鏡は猫かもしれないと、さっきは思っていたけど、蛇かもしれない。第一、蛇は、欲望の象徴だ。

 「お風呂場は、ここ出て目の前の扉ね。湯船に浸かりたかったら、壁にあるタッチパネル押して。すぐに沸くはずだから。入浴剤とか、シャンプーとか、コンディショナーとか、とにかく適当に使っちゃっていいから。タオルは一番大きな棚の中に入ってるやつ使って。……もう説明面倒だなあ。お風呂、一緒に入る?」

 「サカっていいのなら」

 「いい。って、言ったげないこと、わかってんでしょ」

 また、きゃはきゃは。今日の鏡はよく笑う。

 「どーせ僕、すぐ傍の洗面所で歯磨きするんだったや。そのついでに教えればいい」

 彼は、サンダルを脱いだ素足のままで、フローリングの上をぺたぺた歩く。この床の上を、俺の靴が踏んでいるのに。俺は、靴を脱いでいいか迷っている。人から貰った家を、鏡は平気で使っている。

 洗面所も馬鹿みたいに広かった。大理石でできた洗面台に、薬局から貰ったであろう、社名入のプラスチックの歯ブラシ立ては、似合っていなかった。そこに立っている、毛羽立った歯ブラシも。

 「じゃ、歯ブラシ出しとくから、適当に歯磨きして、ベッド来てね」

 鏡はいちご歯磨きをうにゅると出して言う。

 「それ、子供用のやつだろ」

 「これが一番美味しいんだもん」

 「口に入れるものの味は、良い方が嬉しいのか」

 「とうふぇん(当然)」

 口から白い唾液を流して鏡は言う。俺はその白いどろどろに、別な物を連想してしまった。それでも勃起には至らなくて、やはり鏡は、物を食べていないと、何故だか儚い存在だ、と思った。鏡の頭を撫でると、鏡に映った鏡の瞳が、猫のように細まる。やはり鏡は猫なのかもしれない。

 言われた通りにシャワーを浴びて、指定されたバスタオルで身体を拭いて、とっとと用意されていた新品の歯ブラシで歯を磨く。歯磨き粉のいちご味は、確かになかなか悪くなかった。

 「鏡」

 肌寒くなるほど冷房の効いたベッドルーム。間接照明に照らされて、浮かび上がるのは、山だ。大判の羽毛布団と鏡でできた山が、ベッドの上にできている。

 「鏡。寒いなら冷房切れよ」

 「寒い中で、お布団にくるまるのが最高なんだよ。贅沢だろ。ほら、ぬくぬくするといい」

 山の一部が、ぽっかりと口を開けた。吸い込まれるように、すぽんと入ると、確かに気持ちよかった。まず、羽毛布団の質が違う。軽くてあったかとしか言いようがない気持ちよさだ。肌触りもいい。さらさらしているが、しっかり包み込まれている感じがたまらない。外の寒さが快適な温度に思えてくる暖かさだ。外が寒いから、この暖かさが成り立つ。

 ただ、電気代を無駄にしてまでやる贅沢じゃない。鏡にそう言ってやると、彼はおもむろに俺の服を脱がし始めた。

 「君がわざわざスウェットなんていう、暑苦しくてだぼだぼしてるのを着てるからいけないんだよ。おまけに、髪ちゃんと乾かしてないし。今日はもういいけど、明日はちゃんと乾かすんだよ」

 鏡は、やはりというかなんというか、全裸だった。俺は彼の手で真っ裸にされて、丹念に布団でくるまれた。全裸で包まると、さっきとは段違いの気持ちよさが俺を襲った。暴力的なまでに、布団は心地よかった。

 「……気持ちいい」

 思わずつぶやくと、もう止まらない。ああ、と口から意味のない言葉が漏れ出て、体が重くなっていく。

 「でしょお? 電気代がなんだ、地球温暖化がなんだって話だよ。そんなのは些事さ。なんのために冷房がこんなによく効く? 僕らが快適に生きるためだ、そうだろ? 堕落がより良く生きるための一歩だぜ、ほら!」

 鏡は俺の首に縋りつく。すべすべした肌と俺の肌が、直接触れ合ってさらに気持ちがいい。

 「なんかテンション上がってきた。もう一回する?」

 「さっきまで断り続けてたくせに、よく言うよ」

 「まあ、別にしたくなんてないけどさ。だけど、君がこうして有効な金の使い方を学んでいく様子ってのは、見てて嫌じゃないんだ」

 「俺が五万円を一晩で使い果たそうとしてたのが、そんなに不満?」

 「不満だね。金の使い方をまるでわかっちゃいない。五万円あれば、僕とこうして遊ばずに、おいしいご飯が山ほど食えるぜ? 下手すりゃ、山ほど食ってもおつりがくる。君、小食だし」

 鏡に小食と言われると、むず痒い。

 「あとね、僕が一晩五万で済むと思われたことが何より屈辱なんだよ」

 「……五万って言ったのはそっちじゃないか」

 「一晩五万とは一切言ってない! 僕が昔セックスで生計立ててた頃は、一晩五十万が基本だったよ。ご飯代とホテル代別でね。それでも相手は納得してたし、僕も満足してた」

 「ごじゅう……」

 「これでも安いんだぜ? 僕なんかにばんばん投資できるってことは、つまりはそーゆー方々が僕を抱いてたんだ。勿論、男なんかを抱いてたなんてバレたら不味いから、口止め料がさらに上乗せされるって寸法。何度か命を狙われたけどね」

 「冗談だろ」

 「冗談だよ」

 鏡は首筋にキスをした。

 「どこまでが冗談なんだ」

 「どこまでも冗談だよ」

 鏡は頬にキスをした。

 「さあ、もう寝よう。気持ちいいうちに寝た方が幸せだ」

 鏡は額にキスをした。

 まるで幼子をあやすようなキスに腹が立って、俺は鏡の顎を捕まえて、無理やりに何度もキスをした。舌を絡めて、噛んで、唾液がぼとぼと垂れるのも気にせずに、喘ぐようにキスをした。

 「……満足した?」

 終わったあと、肩で息をしながら、鏡は言った。枕元のティッシュで口元を拭うと、事後のときにしたように、俺の胸に頭を押し付けた。

 「ディープキスは苦手なんだ」

 「上手いけど」

 「人間のタンも唾液も、美味しくない」

 君は煙草を吸っていないから、まだマシだけど。

 そんなことをむにゃむにゃ言って、鏡はこてんと寝てしまった。

 俺も、鏡を抱きしめて眠った。さっきまでの気持ちよさは、空っぽの張りぼてだと知ってしまった。どこかに行っていたはずの孤独が、しんと忍び寄ってくる眠りだった。


 朝起きると、もう一限目が始まっている時間で、鏡はいなかった。

 家の中をうろうろして、やっと見つけたのは、洒落た黒のキッチンカウンターの上に乗せられた朝食と、栞に書かれた言葉だった。

 『ご飯は家にあるもの適当に食べて。連絡しないでね』

 その後に、電話番号が書いてある。そういう男だ、鏡は。駆け引きにも満たない、いたずらめいた言葉をいくつも繰り出す。児戯のようで可愛いと思うのだけれど、同時に、彼の本心が見えなくていらつく。彼に本心なんてものはなくて、彼の全ては行き当たりばったりのハッチ・ポッチ・パッチ(ごった煮のつぎはぎ)に過ぎないんじゃないかと思うけど、そのくせ、彼は時折、とんでもなく遠くに視線をやる、天国でも見通しているかのように。

 朝食は、まだほかほかと湯気を立てていた。お子様ランチを盛り付けるようなプレートに盛られた――いや、それはお子様ランチだった――チキンライスの山に日本国旗が立っていて、真っ赤なウインナがこれまた赤いケチャップで炒められていて、さらに、くどいくらい赤いナポリタンが盛られている。しかし、その横にあるのは真っ白なポテトサラダで、なんだか安心する。その隣にあるのがポテトフライなのだから、本当は安心とは程遠かったわけだが。黄色い一口大のオムレツと、エビフライと、ミニハンバーグ(これにもケチャップがかかっていた)と、お弁当用のアルミの小さなカップに入ったグラタン。お弁当に入っていると、小学生が歓喜するだろう品々。茹でブロッコリーの緑が、なんとか全てをまとめ上げていた。

 高校生にお子様ランチ。嫌味だろうか? と考え込むこと三十秒、腹の虫が暴れ出したので、深く考えずに食べることにした。

 それは物凄く旨かった。よく考えたら、ここは鏡の家なのだ。鏡が作ったのか、取り寄せたのか、はたまたチンしただけかはわからないが(これがチンだけでできるのならば、もうファミレスにわざわざ行かないだろう)、グルメな鏡の出したものなのだから、美味しくて当然だ。

 ケチャップの連続に飽きるかと思ったら、ケチャップ自体がべらぼうに旨いというまさかの展開だった。俺はすぐにプレートを空にすると、おかわりはないかとキッチンを探してみた。

 それはすぐに見つかった。

 大鍋いっぱいに作られたカレー、しかもそれが三つである。ラーメン屋でしか見ないような、特大の寸胴三つそれぞれに、なみなみとカレーが作られていた。もしやと思って冷凍庫を覗くと、案の定ご飯がラップで小分けされて冷凍してあった。

 ご飯をチンして、カレーをかけた状態でまたチン。これでカレーライスが食べられる。

 それもまた旨かった。玉ねぎをしっかり炒めてあるのか、深いコクと甘みがあって、あっという間に食べ終わってしまった。これはもしかすると、と思って、次は別の寸胴からカレーを取って食べると、こっちはさっきのとは違って、酸味と旨みが濃かった。

 三つの寸胴それぞれからカレーを取っては、満足するまで食べた。腹が膨れると、ゆっくり湯船に浸かりたくなったので、風呂を沸かすことにした。沸かしている間、食器を洗っておこうと思ったら、食洗器があったので、これもありがたく利用させてもらう。最近の機械はなんでも、説明書無しで操作がわかるようにできている。パネルスイッチの湯沸かし器、ボタン一つで全部やってくれる食洗器。鏡が困らないように、贈り主が配慮したんだろうか、と考えかけて、頭を激しく振った。

 推理ドラマの再放送を見ながら、戸棚を漁って見つけたかっぱえびせんを食っていたら、犯人が分かる前に風呂が沸いた。急に何もかもが面倒になって、犯人が分かるまで、ぼーっとテレビを見ていた。やがて、実は事件の解決を依頼してきた女が犯人だったとわかった途端、今度はどうしようもなくイライラしてきて、全部を削ぎ落すために、風呂に入った。

 ホテルでしか見たことの無い、まん丸い風呂桶は広々していて、手足を存分に伸ばして、思う存分のんびりすることができた。何にイラついていたのかも忘れて、昨日言われた通りにドライヤーできちんと髪を乾かすと、甘ったるい香りが自分からしてきて、なんだか死にそうだった。鏡はご丁寧に、女性用のフローラルな香りのするシャンプーや、ハチミツの香りのするボディソープを揃えていたから、仕方ないことだ。だけど、自分からその匂いがするのは、本当に、なんというか、死にそうだった。

 そのうち、どんどん眠くなってきて、風呂から上がった姿のまま、布団にもぐりこんで、そこから記憶がない。

 次に気づいたのは、スマホが鳴ったときだった。反射的に取って「もしもし」と呂律が回りきらない舌で言うと、「きゃふ」とよくわからない返事が返ってきた。

 「鏡?」

 「そうだよ」

 「なんでお子様ランチなんだ」

 「おいしいから。それに、お子様ランチが嫌いな奴はいないだろ。ま、そんなことはどうでもいいや、今何してんの? 寝てた?」

 「……裸のランチ」

 「悪趣味だ。それとも何? 僕を揶揄ってんの?」

 「え?」

 「なんだ、自覚無しか。とりあえず、今日は帰り遅くなるからね」

 「わかった。俺はカレーでも食べるよ」

 「うん、カレー……カレー……あっ、カレーあった。じゃあ帰る」

 「え?」

 一瞬、男の怒鳴り声が聞こえて、切れた。

 そういえば、俺の淋しさを埋めるという約束なのに、外に出かけていていいんだろうか、あいつは。いいのか、今日は俺の金を使わないんだろうから。

 何をするでもなく、引き続き布団でうとうとしていたら、三十分と経たないうちに、玄関から「ただいまー!」と焦っているような鏡の声が聞こえてきた。

 「おかえり」

 まだ寝ぼけている身体を引きずるようにして、玄関に行くと、バリケードのように積まれたダンボール箱と、セーラー服を着た鏡と、知らない学校の制服を着た、知らない男がいた。

 「鏡、誰だこいつ」と、目を擦りながら言うと、「それは俺の台詞だ」と苦々しげに言われた。もしかして、鏡の恋人か客か何かだろうか。

 「とりあえず、君は服を着て。僕らはこれをキッチンに運ぶから」

 鏡の呆れた声に、知らない男はハッとなって、噛み付く直前の犬のような雰囲気はどこへやら、さかさかとダンボール箱を運んでいく。

 そして、全裸のままで出てきてしまった俺は、大人しく服を漁りに行った。


 男の名前は、平沢と言った。

 彼は、市内の別の高校に通っているらしいが、ある日、帰宅途中の鏡に一目ぼれして、猛アタックしたのだという。鏡は彼の中に淋しさを見出したのか、このマンションに連れ帰って、しばらく一緒に暮らしていたんだそうだ。それで彼はすっかりと満たされたらしいいが、その結果、鏡は未知なる淋しい人々を見つけるために、彼を捨てた。それでも彼は鏡の恋人の座を諦めず、度々鏡をデートに誘うらしい。

 「今日もさあ、ご飯奢ってくれるっていう話だったんだよね。だけど、僕としたことが三日目カレーをすっかり忘れてたからさあ」

 鏡は恋する男に非情だった。三日前に大量に作り置きして、冷房を効かせたウォークインクローゼットで熟成させていたカレーを(なんだってそんな場所で熟成させるんだ、と聞いたら、しれっとした顔で「寸胴三つも入る冷蔵庫が手に入らないなら、自分で冷蔵室を作るしかないだろ」と返された)、今朝キッチンのコンロに置いて、そのまますっかり忘れていたらしい。そして、そんなこと知らない平沢は、鏡を食事に誘った。鏡は目先の食事に心が躍って、うっかりオーケーしてしまったらしい。それで、俺に連絡してきたのだ。

 食料がたっぷり入った箱を台所の横に積み上げると、鏡はリビングの隅に置かれた鞄を横目でちらりと見て、気にしないフリをした。そして食器棚の下から、真白いフリルの、可愛いエプロンを取り出して、それをセーラー服の上に着けて、調理を始める。その手際の良さに見惚れていると、鏡が「さっさと手伝ってくれなきゃご飯抜きなんだからね?」と、笑顔で俺の胃袋を脅したので、同じく胃袋の危機を感じた平沢と、慌てて動き出す。

 「俺はいいけどね、かがみんの手料理食えるから。こんな全裸男と遭遇するとは思わなかったけどね」

 「面目ない」

 「お前だって、僕の家にいるときには大抵全裸だったろ。ナニ見せつけたかったのか知らないけどさ。で、トマトスライスはできたの?」

 「できた」

 「早っ。お前なんなんだよ」

 「実質独り暮らしみたいなもんだから、自炊はそこそこするんだ」

 「俺も一人だけど、そんなんできねえ。ずるい」

 ずるいと言われても、これは勝負じゃない。俺は彼と違って、鏡に恋してはいない。今だって、平沢にはちっとも嫉妬していないのだから。同じ土俵に立っていない人間にずるいと言われても、なんと返すこともできないのだ。

 「そしたら、ジャガイモゆであがったから、粉吹かせて」

 「わかった」

 皮を剥かれて一口大に切られたジャガイモが、大鍋の中で茹だっている。鍋から慎重に水だけを抜いて、もう一度強火にかけ、鍋をゆする。じゅっじゅっと、わずかに残った水が蒸発する音がする。

 「できたぞ、鏡」

 「そしたら平沢、これでイモ潰してくれる? 熱いうちじゃないと意味ないから」

 鏡は手際よくマッシャーを平沢に手渡す。平沢はそれを受け取り、鍋をコンロに乗せたまま、ぐいぐいと芋を潰していく。五徳と鍋が擦れて嫌な音がするが、鏡はこともなげに玉ねぎを刻んでいく。長い髪を一つに括った彼は、やはり台所に立ち慣れているのか、涙一つこぼさなかった。俺は玉ねぎがあんまりにも目に沁みるので、リビングでゆで卵の殻を剥いていることにした。そのうち、涙目になった平沢も、ゆで卵剥きに加わった。

 ゆで卵の殻剥きは、コツさえ分かっていれば簡単だ。まず卵の上下を割って、そこだけ殻を剥く。そして、上下から一回ずつ息を吹き込む。あとは上の穴と下の穴を繋げるように一直線に剥くと、残った殻がべろんと気持ちよく剥ける。

 ただ、それが十数個あると、二人でやってもなかなか時間がかかる。俺と平沢は、しばらく黙って剥いていたが、ついに平沢が口を開いた。

 「なあ、お前、かがみんともうヤったの?」

 「……ああ、セックスなら、昨日」

 ヤる、の意味なんて、少し考えれば明白だ。だけど、こうもあからさまに尋ねられるとは思わなくて、少し考え込んでしまった。平沢はその反応に調子づいたのか、ニヤニヤしながらまた聞いてきた。

 「へえ。何回?」

 「一度」

 「お前枯れてんの?」

 「別に、やりたくないわけじゃなかったけど、鏡が嫌がってたから」

 「はっ。俺は一回も鏡に拒否られたことねーわ」

 「そうだろうね」

 お前の淋しさの原因は、人肌恋しさだったんだろうから。

一目瞭然だ。女にどう気に入られるかしか考えていなさそうな恰好に、茶色く脱色された髪。自分がクソ真面目ながり勉グループに所属しているとは考えていなかったが、こうして彼のような、いわゆるリア充とかチャラ男と呼ばれる人間を見ていると、自分でも驚くほど不快だった。

 ゆで玉子むけばかがやく花曇

 なんという人の作品だったか。今の状況に似あいすぎる。鈍い白の殻を剥いても出てくるのが曇とは。俺はもう五個剥いて、あっちはまだ二個目に苦戦中。

 「俺は、君のことが、嫌いだな」

 ぽつりと呟いた言葉に、平沢は目を丸くした。俺は彼に向かって微笑みかける。彼はニヤリと笑う。

 「俺も」

 「やっぱり」

 こいつは悪い奴ではないな、と思った。ただ、俺はこいつと一生分かり合えないとも思った。水と油ぐらい違う。今、俺とこいつを結び付けているのは鏡だけだ。

 ふと思う。今こうしてゆで卵を剥いている彼が、もし、どこもかしこも完璧で、俺なんかとは比べ物にならないぐらい、いい奴だったとしたら、俺は嫉妬していたんだろうか。鏡への恋を自覚したりしたんだろうか。

すぐに答えは出た。きっとしないだろう。鏡に、座るように言われたとき、彼の隣はやはり不可侵だと感じたのだ。彼を抱いていても、自分が彼と一体になっていることに、違和感というか、不具合を感じる。彼とは、食事を共にする関係でいるのが一番いい。抱かれている彼より、食っている彼の方が、よほど性的で、うつくしくて、存在が確かなのだから。

 「ゆで卵剥き遅い! もう僕、ハンバーグのタネ作り終わっちゃったんだけど!」

 キッチンから、むくれた声が飛んでくる。

 「……鏡、今日はカレーじゃなかったか?」

 「そうだけど?」

 「ハンバーグなんて、今作ってどうするんだ?」

 「カレーのトッピングにするけど」

 カレーのトップングにハンバーグ。それはもう、どちらが主役なのかわからない。

 「かがみんの手ごねハンバーグ、マジうめえからめっちゃ楽しみだわ」

 「無駄口叩いてないで早くやれ。ゆで卵は一部スコッチエッグにするんだから」

 「スコッチエッグもトッピングか?」

 「トッピングにしてもいいし、副菜にしてもいいし」

 カレーもスコッチエッグも、主菜クラスの料理ではないだろうか。

 「あとはコロッケと、から揚げと、ウインナの焼いたのと、納豆と、チーズと……ご飯そろそろ炊かなきゃ」

 そういうと鏡は、どこからか、巨大な釜を取り出した。日本昔ばなしとかで見るようなあれだ。そこへ、二リットルのペットボトルに入った米(後で聞いたら、米は袋のままや米びつで保管するより、ペットボトルに移し替えて冷蔵庫で保管した方がいいらしい)をざらざらと流し込み、水を薬缶で注いで、ざっざっと研いで、なんとか流しに水を捨てる。どうやら彼は、少しずつ炊こうとは一切考えてないらしい。

 「おなかすいた……カレー……えへへへ……」

 一体、何合……いや、何升炊くつもりだ。

 平沢は、ゆで卵の三個目を、ようやく剥き終わったところだった。

 

 飯が炊きあがると、鏡は髪を綺麗な三つ編みに結い直した。先を真っ赤なリボンで留め、満足げに笑う。そして、カレー皿ではなく、給食を運ぶのに使っていた、取っ手付きの巨大なアルミ製のバット……小学生なんかにはおなじみのアレを出してきた。まな板をどけて、バットを置く。そこにご飯を敷き詰めて、ピザ用チーズを一袋全てぶちまけて、幸せそうに、本当に幸せそうに、カレーを回しかけた。俺は普通のカレー皿に、普通にご飯を盛る。

 「これがパパイヤカレー。これがトマトカレー。これがナスカレー」

 鏡はカレーで満たされた鍋を、それぞれ示して言う。香りや色が少しずつ違うが、何より違うのは味だ。パパイヤは甘みが強く、トマトは酸味が効いている。ナスは独特の旨みがあった。言われてみれば、そんな風味がした気がする。食べているときには、どれも入っていることに気づかなかったが。

俺は自分の飯にトマトカレーをかけた。鍋から離れた位置にいた平沢から皿を受け取ると、鏡はナスカレーを盛った皿を渡してやった。

 「かがみん、俺、ナス嫌い」

 「なら食べなくていいよ。具として入れずに、チャツネを入れただけだけどね」

 「チャツネ? たまにスーパーの調味料コーナーで見かけるやつか」

 「そ。香辛料と野菜のペーストだよ。これ入れるだけでカレーがすっごく本格的な味になるんだよね」

 目の前には、大皿に盛られた料理が多くあった。俵ハンバーグ、唐揚げ、コロッケ、トンカツ、それからさっきのスコッチエッグ。他にも納豆や角切りのアボカドや乱切りのトマトがずらりと並ぶ。そこにカレー、一つはバット盛り。どう考えても三人で食べ切れる量ではないけど、鏡は大男が十人束になっても敵わないほどの食欲を持っているから、大丈夫だろう。

 「いっただっきまーす!」

 待ちきれないといった風に、鏡はスプーン片手にきゃっきゃとカレーをかきこんでいく。コロッケやトンカツも、いつの間にやら鏡のバットに盛られ、そのまま胃袋に消えていく。

 俺も、カレーにハンバーグを乗せて食べてみた。牛ひき肉を使わず、牛のバラ肉を包丁で叩いてミンチにしたものを使っているから、ジューシーさと食べ応えが違う。中がほんのり赤くて、ハンバーグではなく、ハンバーグステーキと呼びたくなる代物だった。

 普通にカレーライスだけ食べても、やたら美味い。カレーは勿論、米が美味い。さっき食べた冷凍ごはんがサトウのごはんより美味かったのは、この釜炊きごはんを冷凍したものだったからだろう。一粒一粒しっかり立っているだけじゃなく、甘みや旨みが噛み締めるほどに湧く。ワイドショーに出ていたごはん専門店で、タレントが「ごはんをおかずにごはんが食べられる!」とコメントしていて、あの時は何をアホな、と鼻で笑っだけれども、このレベルのごはんが出てきたならば納得する。

 鏡はコロッケを、おにぎりのように丸のみせずに、まずはサクッと音を立てて齧りついている。ほくほくのジャガイモとさくさくの衣がカレーに飲み込まれ、それがご飯と一緒に、今度は鏡に飲み込まれる。カレーとご飯に絡まったチーズが糸を引いて、鏡はそれを舌に絡めて舐めとる。ほう、と俺は惚けてしまう。美味い飯を食う充足感と、鏡がそこにいる安心感が、たまらなく俺を興奮させる。飯を食う鏡こそ、俺は愛おしいと思う。平沢がいなければ、また勃起していたかもしれない。

 さっき平沢に馬鹿にされたが、昨日一回しかやらなかったのは、俺としてはそこまでおかしい話ではないのだ。俺はそういう興味がそこまでない人間で、処理すら、たまったらする程度だった。だけど、鏡は何故だか、俺すらも知らない俺の性感帯を、真っ赤な舌で舐めることができる。

平沢は、さっきまでのナスへの嫌悪感はどこへやら、犬のようにガツガツ食っておかわりをしている。乱暴にスプーンをカレー皿に突っ込むせいで、当たり前のようにワイシャツにカレーのしずくが飛んだ。

 「げっ、カレーついた! かがみん、どうしよ」

 「うん」

 鏡はカレーから目線を動かさない。咀嚼もスプーンも止まらない。それは俺にとって、当然のことだったが、平沢はそれに納得がいかないのか、イラついた声で「かがみん!」と何度か呼んだ。

 こいつは馬鹿なのか。ああ、鏡をかがみんと呼んでいるから、鏡の言う通り、真正の馬鹿なんだ。鏡はこうなったら、もう止まらないってのに。何にも耳を貸さない。何にも目を向けない。ただただ目の前の食事を貪り、幸せに満ち満ちていく。食事をもって、その存在を証明する。それが鏡だ。

 仕方なく、俺はスプーンを置いた。

 「シャツ脱いで渡せ。染み抜きしてくる」

 「はぁ? お前に頼れっかよ」

 「この状態の鏡に話しかけても無駄だろ」

 「んなわけねーだろ。なあ、かがみん」

 「うん……」

 鏡はやはり、生返事だ。食事時なんだから仕方ない。それなのに、平沢は彼に話しかけ続ける。本当に諦めの悪い男だ。

 ――そもそも、彼は鏡と一時同居してたんではなかったのか。鏡のことを、なんでこいつはこんなに知らないんだ。

 「……お前、鏡と一緒に飯食べた事あるんだろ? なんで鏡の食事の仕方を知らないんだ?」

 「だって、かがみんはいつだって、俺の話を聞いてくれるんだぜ」

 「おやつのときならわかるけど、こういう食事時だけは別モンだろ、鏡は」

 「いや……かがみんが、食事はゆっくり語らう時間だって……」

 なんだそれは。平沢を凝視するが、彼は嘘をついている様子はない。それどころか、少し顔を青ざめさせている。

 「そんな鏡、俺は知らない」

 「俺も、こんなかがみんは知らない」

 鏡は素知らぬ顔をして、八杯目のバット盛りカレーを食べている。スコッチエッグとコロッケを三個ずつ、ご飯の上にのっけて。彼が美味しそうに物を食べる姿は好きだ、だけど、彼は本当に今、幸せに腹を満たしているのだろうか?

 それから俺と平沢は気まずいままで食事を終えた。鏡は綺麗にカレーの鍋とご飯の鍋を空にし、他の副菜も食べきった。満足げな顔で、相変わらず平たいままの腹を撫でると、「あーあ、ワイシャツにカレーのシミ着いてるよ。ばーか」と平沢を小突いた。平沢は、その反応に、馬鹿ながらに何かを感じ取ったらしい。食器を食洗器にセットするのを手伝うと、ワイシャツにカレーのシミを着けたまま、黙ってそそくさと帰った。彼が去ったあと、鏡は「あいつはいい加減、僕を理解してもよさそうなのにね」と笑った。


 食後のコーヒーは、香り高いが味気ない。そう訴えると、鏡はポーションミルクやクリープではなくて、牛乳を使って、甘いミルクコーヒーを作ってくれたが、別にコーヒーが不味いという話ではないのだということを、理解しているくせに受け止めてくれないのに腹が立って、俺は一口だけ飲んだそれを、結局残した。それに気づいているのかいないのか、鏡は台所で何やらやっていて、ちっとも傍に寄ってこない。彼は、台所仕事が好きなのかもそしれない。だけど、今のそれは、俺から逃げるための建前になっていることに気づかないほど、俺は馬鹿ではなかった。

俺は、二人がけソファの埋まらない右側を持て余しながら問いかけた。

 「鏡、平沢とは、食事時によく喋ってたのか?」

 「うん。彼は、食事を淋しいものだと思ってたから。君もそうだけど、君は食事の時に会話がほしいんじゃなくて、美味しいものを美味しく食べてくれる相手が欲しいんだろうなって思った」

 「へえ……」

 食洗器に皿を並べていく鏡の背中は目の前にある。彼は俺に抱かれたことがあって、今夜そのようにしようと、彼はきっと拒まない。拒むとしたら、俺の方だ。

 俺は何を淋しがっているのだろう? 鏡は何故、淋しい人間だけを傍に置くのだろう? 彼自身の淋しさは、肉欲と食欲に現れていると思っていたが、彼はその食欲を曲げてまで、平沢の淋しさを解消しようとしていたらしい。逆に俺には、その食欲をもってして、淋しさを霧散させようとしている。

 鏡という人間の心も、あんな底なしの食欲も、実は存在しなくて、ただ誰かの淋しさを晴らすためだけの機能として、鏡という淋しさを消す装置に実装されているだけなのではないだろうか。

 「鏡。お前は、何故人の淋しさを求めるんだ?」

 そう問うと、鏡は食洗機のスイッチを入れてから振り返り、笑って言うのだ。

 「決まってるだろ、食べるためだ。僕はきっと、胃袋から生まれてきたのさ。僕の本質はもうないけど、それでも、食べることだけはやめたことがない。だけど、食べることは僕の本質じゃないんだ。さて、僕の本質はなんだと思う?」

 「微妙に、答えになってないぞ、鏡」

 「そんなこと気にせずに答えてみろよ」

 「本質なんてもうないんだろ?」

 「そう、本質がないのが僕の本質なのさ」

 鏡は、エプロンを脱ぎ捨てた。そのままセーラー服のスカーフも解いて、脇腹部分のファスナーも下げる。開いたファスナーの間から、すべすべとした腹が見える。

俺の右側に座ることなく、俺に馬乗りになった鏡は、一瞬表情を失くして、それから、仮面のような笑顔を作り直した。

 「僕の食欲は本物だ。君がどれだけ僕を虚構だと感じていたとしても。それによって、僕は自分を満たしていくのだから。でも、それは実際には、自己増殖を繰り返しているに過ぎない。僕が満ちることはない。その代わり、僕は孤独で満ちてゆく。この腹の中で、孤独はふくふくと膨れて、どろどろに溶けて、織られ、固まってゆく。僕の孤独は決して拭われることはない。拭える人はもういない。それでも僕は、欲に抗わない。何故だろう?」

 鏡は、自らの淋しさによって、俺の淋しさを癒している。それは、愛ではない。が、酷く心地よかった。鏡は俺の右手をとって、自分の薄い腹に当てる。さっき、恐ろしいほどの食事を入れた腹ではなかった。彼の腹はいつまでも満たされない。

 「それでいいのか、鏡」

 「それ以外にどうしろっていうの?」

 「このままだと、お前は永遠に、孤独だけを抱えていくんだろ? その孤独が、溢れることはないのか?」

 「溢れさすことが目的だと言ったら?」

 鏡は、きゃはりと笑って、俺の股間を撫でさすった。

 「ねえ、やろうよ」

 「こんな気分じゃ無理だ」

 「僕がその気分だから平気だよ。僕が君をどんな気分にだってさせる。もしならなかったとしても、気持ちの伴わないセックスを初体験するだけだ。むしろ、良い思い出になると思わない?」

 全く思わなかった。今から行われようとしている行為は、鏡の知らないところで、鏡を傷つける。

 「いやだ」

 「……強情。じゃあいいよ、許したげるんだからね? ああそう、今日の食事代は占めて五千円ってとこかな。今日は人手があったから、いっぱい食料買っちゃった」

 「残り三万五千円分、面倒見てくれるのか」

 「うん。むずかしいけどね」

 鏡は、俺の膝と自分の膝を絡めるようにして座り直した。自然と、腰に腕を回して、その細さを味わってしまう。

 「難しいって、面倒見るのが? 無理ならすぐに帰るけど」

 「ちーがーう。ここにいろって言ったのは僕自身なんだからむしろ帰られたら嫌……悔しいけどね、君がどうやったら満たされるのか、ちっともわかんないんだよ。ちっともわかんないから、今、すごく困ってる……ねえ、君は一体、どこに心を置いて来ちゃったの?」

 とん、と俺の心臓の上に、鏡が頭を預ける。

 「俺に心が無いとでも言いたげだ」

 「実際無いんだもん。いつもだったら、すぐ僕に惚れて、勝手に癒されてってくれるのに。ねえ、僕、君の思う通りの、理想の可愛い子になれてるはずなんだよ? どうして、僕だけを心の中に置かないの? 何かが君を淋しくしているのは、わかるのに」

 鏡が俺の理想の子。確かにそうかもしれない。存在を常に感じさせてくれる子。お互いに傍にいると実感させてくれる子。化粧っ気が無くて、シンプルなワンピースにサンダルをつっかけて、焼肉屋に行って、牛三頭分ぐらい食べる子。その後、デザートにファミチキを十個以上食べる子。夜食のおにぎりをぽいぽい口に放り込む子。

 「確かに、鏡は可愛いよ、だけど、俺はきっと、君に恋しない」

 「どうして?」

 「君の隣は、不可侵なんだ。俺がいていいのかどうか不安になる」

 鏡は、たまらないといった調子で噴きだした。

 「昨日、僕の隣でぐーすか寝てた人間の台詞じゃないぜ、それ。でも、なんとなく、君が分かった気がするよ。結局、君は、根本的部分が欠けてるんだ」

 「根本的部分?」

 「君は、孤独を埋めようとしたって無理なんだ。本当は、孤独になりにいってるんだぜ」

 孤独に、なりにいっている。そういわれると、腑に落ちるものがあった。

 「確かに、そうかもしれない。もし、今日鏡が、平沢と一緒に飯に行ってて、朝帰りをしたとしても、俺は多分、君に文句を言わないと思う。君はそういう奴だって思ってるから」

 「違うよ。僕がそういう奴だってことはね、君もそういう奴だってことなんだよ。君は、自分が孤独でも仕方がないって諦めてる。僕をここに縛り付ける権利があるのは、今は君だけなんだぜ! 僕が他の男に抱かれてるの想像して興奮する性格でもないだろ」

「さすがにそれはない」

「だよね。……じゃあ、今度は、なんで君が孤独であることに納得しているのか……その理由を探してみようか」

 そういうと、鏡はまた俺の上に馬乗りになって、優しく唇を合わせた。吐息も交換しないまま、ただ黙って、しばらく口を合わせていると、唇の柔らかさ、温かさが伝わってくる。合わされたときに、思わず閉じた目をおそるおそる開くと、丁度、鏡も、長い睫毛を震わせながら、目を開くところだった。そのまま、目も合わせて、じっと抱き合う。

 無言の時間がそのまま過ぎて行った。これが恋愛小説なら、きっと、「無言だが瞳はお喋りだった」とかいうところなんだろう。だけど、実際はそんなこと、やっぱり起こらなくて、鏡が何を言いたいのかは、ちっともわからなかった。

 それでよかった。言葉は、今ここでは邪魔だった。俺はひたすら、鏡と唇を合わせ、目線を交わし、そのうち、柔らかくしなだれかかってきた鏡を、ソファに押し倒した。

 「するの?」

 「したくないの?」

 「ああやだ、そういう時は、いちいち確かめたりなんかしなくていいんだよ。スカートの中に手を入れて、あとは好きにすればいい」

 「ごめん」

 「謝らないで、ますますマズくなるや。……いちいち聞いた僕も悪かったね。おいで? 心の中に手を入れてやるよ」

 心の中に、手を入れる。そこから鏡は何かを掴み取ってくるんだろうか。それとも、何かを植え付けていくんだろうか。かき回していくんだろうか。

 俺の腕に、一回り以上細い腕を絡める鏡の頭を抱いて、耳元で囁く。

 「君になら、何をされても、俺は許せるかもしれない」

 鏡はきゃはっと笑って、「そんなんだから君は淋しいんだ、馬鹿じゃないの」と言った。


 さっきのキスの沈黙はなんだったのかと思うほど、お互いに喧しいセックスだった。ごちゃごちゃと色々言い合って、興奮して唇を合わせあって、また離しては何事かを喋り合う。鏡は自分に関する質問を上手に避けた。何を聞かれても答えをはぐらかし、あまりにも問われ続けたときには、自分の唇や乳首や性器で、こちらの口を塞いだ。俺はしばし彼を舌で味わって、それからまた、鏡が満足するタイミングを見計らって口を開いた。

 そして、言葉も体も充分に重ねあって、夜が更ける頃に、鏡は長々とため息をついた。

 「君はさ、辛いこととかないの」

 「……ぱっと思いつく範囲では何も」

 鏡はおもむろに体を起こすと座り直し、まだ腰が怠くて起きる気がしない俺の頭をそっと、膝に乗せた。鏡の太ももは、意外と柔らかくはなくて、彼はやはり「彼」なんだな、と射精直後の白い頭で考えた。

 「こんなに甘えてくるくせに、何言ってるんだか。恋をしてないくせに、僕の名前ばかり呼んで、僕を見つめて、僕の身体好き勝手にして……赤ちゃんみたい。一番最初のセックスは全然違った。もっと僕を粗末にしてたよ?」

 俺の髪を手で梳きながら、鏡はいたずらっぽく笑う。俺が甘えてるのではなくて、鏡が甘えさせてくるだけだ、と言いたくなるのを、なんとなく堪えてしまう。

 「粗末に?」

 「まるで僕がいないみたいに、僕を抱いてた。僕はただの肉穴にだってなってあげられるけれど、君は肉と肉のぶつかり合いより、もっとドロドロした濃ゆいものを求めてるんだと思う」

 「セックス以上に濃いものなんてあるのか?」

 「童貞臭い質問。……つまるところ、君は君を愛してないから孤独なんだと思うよ。自分を可愛がることを忘れてる。君は僕に恋をしないんじゃなくて、僕に恋をする自信がないのさ、きっと。君はもっと、ナルシストになっていいんだぜ」

 「そう言われるとイラッとくるな」

 俺が鏡に恋をしないのは、鏡に原因があるのではなくて、俺が異常だからである。つまりはそういう結論で、俺はちょっとばかり腹が立った。鏡の不可侵性を馬鹿にすることは、当人にすらされたくなかった。むしろ鏡の方が他人を拒んでいると、何故気づかないのか。俺の返事を、鏡は別の意味に受け取ったらしく、したり顔になると、また言葉を続けた。

 「おいおい、僕は真っ当な美少年なんだぜ? 多少のナルシシズムは持ち合わせてないと、逆に嫌味だ。『僕みたいな普通の奴が……』なんて謙遜してみろ、殺される。僕はこの顔に生まれたことの意味が自覚できないような馬鹿じゃないのさ。……君は、何か人に誇れることはないの。特技は。信頼できる人に褒められた経験は」

 「……わからない」

 「そう、ないんだ。じゃあ、作るしかないな」

 「鏡が俺を褒めるのか?」

 「違うよ。わざわざ君を褒める人材を作っても意味がない。一つを上げるならば周りを落とすって話……ねえ、僕の家族の話はしたでしょう。今度は、君の家族の話をして」

 いきなり話題を転換させると、鏡は俺の頭を放り出して、俺の身体に絡みついてきた。そして、話の催促をするように、俺の右肩を食む。犬猫がじゃれるときの仕草だった。俺は鏡の顎の下を撫ぜた。鏡は喉をゴロゴロ鳴らすのかと思ったが、鏡はどうしても猫にはなりきれなかったらしい。それでも気持ちよさげに細められた瞳が、眠気にとろりと溶けたのを見て、俺はこころなしか重い口を開いた。


 俺の父親は、社会人としてあまりにも非の打ちどころがない人だった。

 今、町中ですれ違っても気付かないかもしれないぐらい、俺と父親は会っていなかった。年に何回か、会おうと連絡が来るが、俺はそれに応えたことはない。別に父親が嫌いなわけではなく、会わないこと自体が、俺にとって価値があった。

 だって、社会人として立派に働いていて、そのうえきちんと家族のことを気に掛ける男の息子でいる苦痛なんて、耐えられない。そんな男に、息子と何年も顔を合わせずに、仕事ばかりしているという瑕をつけることが、わずかばかりの反抗なのだ。

 俺はそんなことを、三十分ほどかけてしっかり語った。その感想が、これだ。

 「君はばかなんだね。反抗期こじらせすぎだよ」

 鏡は、とろかせた目をいつの間にかぱっちりと見開いていた。何も考えていない無表情のまま、反射的に、ばかだ、ばかだ、と繰り返す鏡は、今度は目をゆるりと閉じて、深く考えだした。

 「ばかって、なんだよ」

 「そのままの意味。つまるところ君は、父親が立派すぎるなんていう、深刻な悩みを抱えてるつもりだったんだろ。そんなクソみたいな悩み、一瞬で瓦解させろよ、君の父親はそんな立派じゃないよ。あーあ、ダメな子だなあ。客観視もできないなんてさあ。それに、そんなのは建前で、実際の君はそんなこと微塵も気にしてないんだ。ほんとのほんとに気にしてるのは、自分への自信の無さだ。それをおぎなうために、わざわざ自分の父親をご立派だと思い込んでるんだ。きゃははは!」

 図星をさされているのかもわからないまま、俺は鏡の顔を見なくて済むように、ソファにうつぶせになる。

 「知りもしないでよく言えるな」

 「こんな悪魔に入れ込む息子を生産した時点で、クソ遺伝子の持ち主だってことは確定してんのさ。遺伝して褒められるべきところは、モノの大きさぐらいだぜ」

 鏡の手が、俺の性器をするりと撫でる。さすがに疲れていたから反応はしなかったが、ぬちゃ、と生々しい音がして、急に入浴したくなった。

 「風呂、沸いてる?」

 「沸かせばすぐ沸く。沸かす?」

 「お願いしようかな」

 あと三時間もすれば、学校に行くための準備をしないといけなくなる。さすがに二日連続で無断欠席はまずい。そう思っているのに、風呂につかったらまたゆっくり寝て、自堕落に過ごしたいと体が欲していた。

 「さっき残したコーヒー、飲んじゃってよ」

 鏡に差し出されたカップの中には、大半を残したまま冷めたミルクコーヒーが、のっぺりとした黄土色に澱んでいた。とても飲む気がしなくて、テーブルに戻そうとすると、鏡はぺちりと俺の手を叩く。仕方なしに口を付けると、ほんの少し甘いコーヒーは、身体の方が欲していたらしく、喉は喜んでそれを受け入れた。味も悪くなかったが、あののっぺりした黄土色が俺の中に入ったと思うと、ちょっと拒否感があった。

 汗だくの俺と違って、鏡はうっすら汗ばんでいるだけだったが、内腿だけはぐちゃぐちゃに濡れていた。俺は彼の上半身にできるだけ視線を集中させる。華奢な肩に俺がつけた歯形がくっきりと残っていて、却って気まずくなった。何気ない調子で目を逸らそうとしても、鏡がそれを許すはずもない。間髪を入れずに、さもカップを受け取るかのように振る舞いながら、目線をしっかり合わせてくる。

 「今日は学校行くの?」

 「どうしようか、迷ってる」

 「行かないんだろ。僕はちゃあんと行くけどね。けど、仕事入ってるから、今日は遅くなるよ」

 「俺は放置か?」

 「そ。あんまりベタベタしてても、君の問題はなぁんにも解決しないだろうし? で、明日、午後九時にコンチネンタルホテルまで、迎えに来て。……制服はやめてよね。ジャージも嫌。ねえ、何かまともなスーツ持ってない?」

 「そんな立派な衣装が必要になるような生活を送ってない」

 「それもそうだ。いいや、コンシェルジュに用意させるから。何その顔。アッシーくん扱いがそんなに不満?」

 「いや、場所が……ていうか、あっしーくんって何?」

 「お父さんに聞け。どうせ、明日コンチネンタルホテルで会おうとでも言われてるんだろ」

 「なんでわかったんだ」

 「父親のこと話してたときとおんなじ顔、してた。……捨てられた子犬みたいな顔……」

 それでも、そんなこと分かるわけが……と言いかけて、やめた。きっともう彼は、俺より俺のことを知っている。彼は蛇で猫で人間で人間以外だから、そういうことが可能なのだと思うことにする。

 「……眠くなっちゃった」

 「寝る?」

 「うん……なんか急にだるくなってきちゃった。僕を風呂に入れておいて……」

 そう言い残して、鏡はするりと目蓋を下ろした。薄く開いた唇から寝息が漏れ出なければ、人形そのものだ。

 ――僕がいないみたいに、僕を抱いてた――。

 彼はそう言ったが、確かにあの時鏡はあの場に「いなかった」。今いる鏡は、肉体的なものではなく、俺の中で生まれた鏡という概念のようなものに近い。鏡は肉体があまりにうつくしすぎる。うつくしすぎて、この世の存在でなく感じてしまう。

 抱き上げると、うにうにと唇を動かしてむずかるので、風呂が沸くまで触らないことにした。洗面所からタオルを持ってきて拭かないと、高級そうなソファがぐちゃぐちゃのままだ、と思いながら、ぼんやり鏡を眺めていた。

 やがて風呂が沸いて、改めて彼を抱き上げた。いわゆるお姫様抱っこというやつで、初めてこうして抱き上げた相手が鏡で良かった、と俺はひとりごちた。重力に従って落ちる藍色の髪の毛が、汗で自分の腕に張り付く感触が、むず痒い。それすら愛おしく思えるほど、俺は彼のうつくしさに酔っていた。

 風呂場の扉を開けると同時に、鏡も瞼を開いた。

 「下手くそ。扉開ける時に僕の足ぶっつけやがって」

 「ごめん」

 「あー、嫌なこと思い出した。明日の客もド下手くそなんだよね、相手の扱い方。なんかめんどくさくなってきちゃったな。バスソルトも溶かしてくれてないし」

 「ごめんって。……そんな嫌ならサボれば?」

 「まさか。学生のバイトじゃあるまいし、そんなことはできない」

 「客の情報を簡単に喋るのに、信用だって?」

 「いいの。別に僕は殺されそうになったって、日の目を見ることが叶わなくなりそうになったっていいんだ。どうせ、百年もすれば権力は潰える。潰えない権力を持てる器の人間は、そもそも孤独にならない。……お湯に入れる前に、蒸しタオルで軽く身体を拭っておいて欲しかったな。折角のお湯がすぐに汚れちゃう。どうせソファもどろどろなんでしょ」

 「ご明察。さすがにもう謝らないぞ」

 「無駄なプライド。ま、ついこないだまで童貞だったんだから、気遣いなんてできなくても当然か。そのうちカノジョができたら、僕に感謝するようになると思うよ」

 カノジョ。その言葉が、自分の口から出るより先に鏡の口から出るとは思っていなかった。湯船に揺蕩う彼は、風呂桶の縁に頭を乗せると、また目を閉じた。

 「僕なら、君にカノジョなんて作らせない勢いで、君の記憶に鮮烈に焼き付くとでも思ってた? それはありえないんだよ。君にはきっと、僕のことを思い出さなくなる日が来る。いいかい、生物というのはね、どんなものでも子孫を残すことが本能に刻み込まれてる。理性が消えれば、オスはメスに尻尾振って生きるだけの生物に成り下がっちまうんだ。人間は動物と全然違ってるような物言いをするけど、僕から見れば、人間のオスと動物のオスの違いは、振る尻尾の位置くらいだね」

 「まるで自分が人間のオスじゃないかみたいだね」

 「そうだよ。僕は美少年だ!」

 きゃはっと笑って、鏡はぱっちりと目を開いた。風呂場のライトが橙色に光るせいか、彼の瞳はまた薔薇色に光って見える。オスと美少年の違いがなんなのかは分からないけど、あんまりにも自信たっぷりに笑うから、そういうものなんだとしか思えなかった。

 「オスはメスと番わないといけないなら、ホモはどうなんだよ」

 「ホモじゃなくてゲイ。ゲイ・セクシュアルだ。僕はそのテには基本抱かれることはない。僕は美少年だから、顔かたちがいくらうつくしくても、女っぽくて抱く気にならないってことを言われたこともあったよ。君らが女らしい女をよく好むように、彼らは男らしい男を好む傾向が強いのさ。それでも、彼らは僕を時に友として、時に配下として傍に置いた。それ以外にも、いろんな男がいた。ランプトンの首を僕の首に挿げ替えた絵を描いた画家もいたし、僕に大量の食事をさせるだけの男もいた。僕が男に抱かれている様を見て楽しむ宦官は、――こう言うと誤解を招きそうだけど――愉快な男だったよ。

本題とずれたね。……まあ端的に言ってしまえば、僕は一部の奴を除いて、女が嫌いなんだよ。前にお金が無かったとき、金持ちの女に誘われたことがあったけど、いざコトをしようって時になって、相手の全裸を見たら吐いた。僕が食ったものを吐き出したのは、きっと後にも先にもあのときだけになるだろうね、僕は食ったものを吐き出すプレイは受けないようにしてるから。それと、女を相手にすること。

なんで嫌いかと言われたら、女は与えられた価値を理解することもなく、無益なことにばかり時間を費やして、あとは醜く老いさらばえるだけの存在だからだとしか言いようがない。それでなんで女装をするのかって顔だね? それは簡単なことだ、女より僕の方が可愛く、綺麗に、オンナモノって呼ばれてる洋服を着こなせるからだよ。勿論、僕は三つ揃えやタキシードも着こなせるけどね? 三つ揃えに蝶ネクタイを締めた僕のことを、如何にも生意気そうで可愛いからと、少年紳士と呼んで、作品に登場させた作家もいたっけ。

ただ癪なのはね、どんなに僕が孤独を食らっても、男が選ぶのは孤独を消し去ることができる女ってことだよ」

 鏡は風呂に浸かったままシャンプーをして、コンディショナーをつけて、ブラッシングをして、また湯船のなかで揺蕩った。

 「俺は、君に淋しさを埋めてほしいと思ってる」

 「僕は淋しさを食らって、そこに色々と詰め込んでやることはできる。だけど、それは抜け落ちて、またいつしか淋しくなる。それは生物として切っても切り離せない孤独だ。自分が世界に何も残さないまま消えて行く孤独」

 「それがどうして女には癒せるんだ?」

 「君が女を知ったら自ずと知れる」

 きゃは。

 鏡は笑顔を見せずに口先だけで、笑う時の口癖をわざとらしく呟いた。俺は彼の視線から逃れるように、シャワーで軽く体を流すと、すぐに風呂場を出た。


 先にベッドにもぐりこんで、目覚めても鏡はいなかった。案殻的には一人寝だな、と思いつつ、ほんのり残った鏡のシャンプーの香りと体温が、目覚めたときの淋しさを慰めてくれる寝覚めも、悪くないと知る。

 コンチネンタルホテルに九時。今の時刻は十一時だから、まだ大分時間がある。まだ少し怠い腰を憂鬱に思いながらキッチンへ向かうと、小さな土鍋が三口のガスコンロの上にちょこんと鎮座していて、蓋を開けると蟹雑炊だった。こんな小さい土鍋じゃ彼は物足りないだろうから、きっと来客用のものをわざわざ引っ張り出したに違いない。

 こういう気遣いが、彼の仕事には必要なのかもしれない。鍋を温めながら、鍋敷き・蓮華と箸・小皿・薬味……と、明らかに「使え」と言わんばかりにテーブルに並べられた品々も、土鍋と同じ柄で品よくまとまっている。

 蓋がことこと鳴ってきた辺りで、火を止めて、同じくテーブルに並べられていたミトンの手袋をはめて鍋を持ち上げた。つるりと滑ってしまいそうな恐怖感に一瞬襲われて、そういえば家でミトンを使ったことなんて殆どないことに気づく。

 蓋を開けると、蟹の香りと鰹の香りが入り混じって、胃袋をきゅうと鳴らした。薬味に三つ葉を散らすと、いかにも美味しそうに艶々輝く卵が、三つ葉のコントラストも相まってさらに美味そうに見える。

 「いただきます」

 たとえ一人だけだとしても、きちんと手を合わせて口に出して挨拶をするのは、鏡がどんな気持ちで飯を食うのか昨日布団の中で少し考えて、とても恐ろしくなったからだ。

 ただ、彼ほど食うことに真剣になれなくて、蓮華で救いながらついスマホを手に取った俺は、適当にネサフをはじめてしまった。

 ただ、いつもならスマホを片手に一時間でも二時間でも過ごせるのに、十分もすると、俺の集中力は切れ始め、何度もメールリストを呼び出しては、画面を閉じることを繰り返すようになっていた。

 す、と息を吸って、削除ボックスの一番上に表示されている、無題のメールを開く。そこには、「コンチネンタルホテルのなだ万に今夜七時」とだけ書かれていた。元気か、久しぶり、の言葉もなく、ただ場所と時間だけ書かれたメールは、身代金引き換えを指示する文面と、あまり変わらない。息子の心の動きなぞ、この人は何も考えることなく、「いい父親」を演出したいだけなんじゃないかと疑ってしまう。

 場所がコンチネンタルホテルだから、鏡を迎えに行くついでに行くのもいいかもな。と思えるぐらいには、俺の心には優しさというか、余裕が生まれ始めていた。孤独が埋まったことで、孤独を造りだしていた父親のことが許せるようになった、というわけではなく、父親を孤独の理由にしていた自分に気づけた、という感じだ。

 自分で自分を孤独にしている、と鏡は言った。自分への自信の無さを、父親のせいにしてるだけだと。確かに、俺が鏡の隣を不可侵だと感じるのは、そこに自分がいることが想像できないからかもしれないし、自分がそこに存在することを許せないからかもしれない。そうなると、俺は鏡を尊く思い過ぎているきらいがあるのかもしれないし、逆に鏡を男娼風情と思っているのかもしれない。

 どれでもないだろう。今ならはっきり分かる。鏡は俺を映している。今ここにいるかも不確かな俺、それでも今ここにいる俺。それを映す鏡は、まさしく鏡だった。欲求を満たす、その瞬間にしか、確実になれない存在。それなら理由は簡単だ。

 鏡に体当たりし続ければ、割れる。ただそれだけのお話。

 「ごちそうさまでした」

 いつの間にか空になっていた土鍋を前に、俺はまた手を合わせる。流しに食器を片づけると、特にすることはなく、しばしテーブルにつっぷして寝た。物語の主人公なら、こうして寝れば、何か新たな啓示を得ることができたのかもしれないけど、哀しいかな俺は主人公に勿論なることはできなかった。

 午後三時、オヤツの時間で、授業が終わる時。鏡は今週掃除当番じゃないから、ホームルームが終わり次第、コンチネンタルホテルに向かって、フロントでキーを貰って、部屋でシャワーを浴びて客を待ちかねてるかもしれない。

 そして俺の父親もお待ちかねだ。俺が父親と食事をしている途中、もしかしたら鏡も同じレストランで食事していて、彼の異常な食事量を見て、眉を顰める親父に、俺は「ああやっていっぱい食べる子で童貞を捨てたいな」と、くだらないことを言う。もしくは、鏡は客室で別なモノを別なクチから食べていて、俺は彼に食われる感覚を思い出しながら、レストランで物を食う。

 ものすごく乗り気、というわけではないが、俺は何年かぶりに父親に会うと決めた。会わないと、鏡がいくら淋しさを食ったって同じだと思う。それで何が変わるわけでもないし、俺は父親に会ったってやっぱり自分に自信が持てずに終わるかもしれない。

 それでも、美味しい飯が食える機会があるなら行ってもいいかな、と思えるようになったから、行くべきだと思うのだ。

 慣れた動作で風呂の電源を入れて、ゆっくり浴びればもう四時だ。俺が遅いのか、周りが俺を急かすのか、やけに時間の進みが早い気がする。手持無沙汰になって、近所を散歩しようかと思ったが、鍵がないことに気がついて、またスマホを開いて適当なソシャゲをやろうとしてみたが、いつもの作業のようなプレイが酷くつまらなくて、俺はずっとこれを退屈だと思っていたことを、改めて確認した。

 「鏡」

 俺は再び彼の名を呼ぶ。淋しさを埋めるためではなく、自分の中を新たに埋めたものの名前として。もう彼は、俺の一部のようになっていた。ここに別なものを入れたとき、きっと俺は別な人間になるのだろうと本能で感じるほどに、それは俺の中に馴染んでいた。鏡映しの存在なのだから、当然とも言える。

 ……それなら、鏡の淋しさは何で埋めることができるだろう。鏡に鏡を映しても、それは永遠に虚空を映し出し、触れ合えばただひび割れてゆくだけなのに。彼は彼のプライドをもって女を否定し、孤独を食らって孤独を増やし、その果てに何が待ち受けると思っているのだろう。

 このとき、初めて、喉が渇くほどに彼のことが愛おしく感じた。自分の存在が彼の腹を満たすことがあっても、孤独を埋めることは絶対にありえない。それを理解したからこそ、この感情は生まれたのだ。

 「鏡」

 俺は泣いた。声を上げず、ただ彼の名前を呼ぶ度に、涙がぼとぼとと零れて、寝間着代わりのスウェットに染みを作った。彼は、きっと同情されることを嫌うだろう。だけど、同情ぐらいは彼に許されてほしかった。彼がひとりぼっちでゆく夜を思って泣くことぐらいは、赦してほしかった。

 泣き腫らした目に、西日が差し込んで、痛い。そのことに気づいた頃には、もう六時に差し掛かろうとしていた。そろそろ準備しないと約束の時刻には間に合わない、早速コンシェルジュにスーツの問い合わせをしなければ、と思い至ったそのとき、玄関のチャイムが鳴った。

 「はい、淋代です」

 『淋代様のご依頼で参りました、コンシェルジュの田井中と申します。高橋様でよろしいでしょうか』

 また、はい、と答えて、扉を開ける。壮年のコンシェルジュは、目元に皺を寄せて微笑んでいた。

 「鏡の依頼?」

 「そうです。高橋様の体型に合うスーツ一式の用意と、ヘアセット、それからコンチネンタルホテルへの送迎ですね」

 「それなら、九時に間に合えば……」

 「淋代様は、七時にはホテルに着くようにと」

 「……嘘だろ」

 なんで時刻まで知っている? コンシェルジュは困惑が伝わっているのかいないのか、スーツを手に「御試着くださいませ」と有無を言わせない笑顔でじりじりと距離を詰めてくる。半ばスーツをひったくるようにして手にした俺は、そのままベッドルームに駆け込むと、さっさとスーツを身に着けた。鏡がサイズを伝えたのか、それともコンシェルジュが目で測ったのか。どっちにせよ、ぴったりなのが不気味だ。

 「ネクタイは、どの色にいたしましょうか」

 いつの間にかリビングに上がり込んでいたコンシェルジュは、ダイニングテーブルに数本のネクタイを並べて、俺の首元に代わる代わる当てた。

 「適当に選んでもらえればいいんで」

 「では、こちらの臙脂色など、スタンダードでよろしいと思いますよ」

 「じゃ、それで」

 「かしこまりました」

 次の瞬間には、魔法のようにネクタイが締められている。そのまま、引かれた椅子に腰かけると、ヘアセットが始まった。

 「お食事をなさるとのことでしたので、ワックスは無香料のものに致しますが、よろしいですか?」

 「そこらへんも、任せます」

 「それは、私を信用なさっているのですか? それとも、淋代様を信用なさっているのですか?」

 「……それ、どういう意味ですか」

 「いえ、不快に思われましたら申し訳ございません。私も以前、淋代様の顧客だったのです。もう十年は前になるでしょうか、マンションの完成と共に派遣された私は、仕事の充実感とは裏腹に、プライベートでは無力感を抱えていました。淋代様……鏡君は、完成してからずっとここに住んでいるのですが、私どものサービスを半年以上利用されませんでした。ところが、当時通っていた学校が夏休みに入ったのをきっかけに、毎日私を呼びつけては、テレビゲームの相手から、それこそベッドの相手まで、とにかくなんでも相手をしろとご依頼……いえ、あれは駄々でしたね。それで、夏休み中、鏡君と共に、私は仕事時間を存分に使って、怠惰に遊びまわったのです。鏡君が最上階の上客だと知っている上司が何も言いだせないことまで、私たちは知っていて遊びまくりました。夏休みが終わったとき、鏡君は、近所のコンビニのハーゲンダッツを買い占めるように私に依頼しました。私が言いつけ通り買い物を済ませ、大量のハーゲンダッツと共に彼の部屋に行くと、彼は、それ、君のポケットマネーで買ったことにしといて、と事もなげに言いました。私はそれで契約の終わりを知り、そして彼が食らっていったものを知ったのです。……はい、このようにまとめてみましたが、いかがでしょう」

 渡された手鏡を受け取ると、そろそろ切ろうと思っていた前髪はすっきりとまとめられ、話している間に手早く整えられたとは思えないぐらい、格好良い髪型に仕上がっていた。

 「これでいいです、ありがとうございます。えっと、あの、鏡のこと、なんで俺に話したんですか」

 聞いていれば、当てつけのようにべらべら喋るコンシェルジュは、少し不快だった。鏡を抱いたことを聞いても、別に不快に思うことはない。ないが、それを面と向かって言われるのは不快だ。

 「お待ち頂いている間に、気を紛らわせるお話をするのも、コンシェルジュの嗜みでございます。……なんてのは、建前です。本音は、私もよくわかりません。いえ、淋代様が顧客の世話をするように命じるのは、初めてなんですよ。それが、物珍しかったのかもしれません。でも、もしかすると、私は貴方に、嫉妬しているのかもしれません」

 インターホン越しに見たときから、一切崩していない笑顔のまま、嫉妬とはっきり口にしたことに若干驚いて、上手く言葉が出てこない。コンシェルジュは、それに気づいているだろうに、何も言わず、ただ笑顔を湛えている。

 「鞄も此方でご用意いたしましたが、何か特別に入れるものなどございますか? 例えば、持病のお薬や、マスクなどありましたら、お入れしておきますが」

 「いえ、ハンカチとティッシュぐらいあれば、大丈夫です。というか、ほんと、もうここまでしてもらえば充分なんで」

 「かしこまりました。では、お車をご用意しておりますので、ご案内致します」

 用意された革靴を、用意されたソックスと一緒に履き、一階のロビーで他のコンシェルジュ達にも「いってらっしゃいませ」と声を掛けられながら、俺は自分に嫉妬を向けているかもしれないこの男性は、結局鏡をどう思っているのだろう、と、悶々としていた。俺は鏡の顧客たちに嫉妬はしていない。する必要が無い。が、この男だけは許せなかった。鏡は最初から最後まで、お前の恋人ではなかったんだよ、と中指立てて脅してやりたい気分だ。これなら、それを理解した上で、まっすぐに嫉妬を向けてくる平沢の方が、よっぽど好きだ。こんな、嫉妬を向けているんだか、向けていないんだか、わからない相手は、気持ち悪い。

 「――貴方は俺に嫉妬してるんだと思いますよ」

 「そうですか」

 運転する男は、バックミラーを越しにすら、視線を合わせようとしない。俺は鏡に映る彼の目を、しっかり見据えて、言い放った。

 「だって、貴方はもう、鏡がいないと、満たせないんでしょう」

 彼は何も言わなかったが、側溝を踏んだタイヤは、不快な揺れを俺に伝えた。それで充分だった。


 道行く人に、十秒間で横浜の絵を描いてください、と頼むと、大抵の人は、海の絵と、ばかうけが半分まで地中に埋まったような建物を描く。その謎の建物こそ、横浜を代表するホテル、コンチネンタルホテルである。正式名称は、ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルと、とかく長たらしく続くが、地元の人間はインターコンチとか、もっと短くしてコンチとか呼ぶ。

 俺がコンチネンタルホテルと呼ぶのは、父親がいつも、コンチネンタルホテルと呼ぶからだった。いつも、呼び出し内容はコンチネンタルホテルのなだ万に夜七時。三者面談や、授業参観に行かなくていいのか? なんてことは、一度も言わない。俺も、来てほしいとは言わない。ここにだって、きっと一生来ないと思っていた。

 それでも、鏡は俺がここに来ると分かっていた。それは、鏡が俺の淋しさを満たせたと確信した故か。それは違う。俺は、もうその理由に勘付いていた。彼はいつだって、こちらの予想の斜め上を飛んでいる。

 だから、案内された個室の扉を開けた時、斜向かいに座る父が、記憶の中にいる彼以上に自分に似た顔をしていたことも、父の真向かいに、三つ揃えを着て髪を肩口で切り揃えた鏡が悠々と座っていることにも、さして驚かなかった。

 「久しぶり、……」

 親父、父さん、パパ。どれも正しいが、どれも嫌だ。着席して、顔を合わせて、それ以上の言葉が出ないまま、次の言葉を出すタイミングはどんどん遠くなっていく。すると、焦れたのか、鏡は俺の口に指を無理やり突き入れ、舌をつまみ出すと、それに食らいついた。鈍い痛みが走って、反射的に口を閉じるが、鏡はそれを許さず、文句も思考も全て奪うようなキスをした。

 「どういうつもりだ」

 「料理が来るまでの間、気まずい沈黙が続くくらいなら、沈黙せざるをえないようにしちゃえって。こういう僕が好きでしょ?」

 個室の扉がノックされた瞬間、俺の顎を掴んで放り投げんばかりの勢いで突き放した鏡は、口元がぬらぬら光るほどまとわりついた唾液をおしぼりでさっと拭って、「どうぞ」と店員を招き入れた。本日の料理の説明がされ、ドリンクの注文がとられると、また個室内は三人きりになる。父はそのときになって、やっと口を開いて、それでも俺を見ずに鏡に文句を言う。鏡は鏡らしく、ただただ親父を映し続ける――人前では折り目正しく、人がいない場所では何をしているのかわからない人間――ここでは俺は、いないに等しい存在なのだ。

 「鏡、説明しなさい。どういうことだ」

 「もう説明したでしょ、黙りたいなら黙らせてやるって思ったの」

 「そっちじゃない、これは――」

 「ああ、そういうこと。海が見える二人掛けの個室から、海と観覧車が見える四人用の個室にランクアップさせたんだから、文句言わないでよね?」

 「そういう問題でもない……ふざけないでくれ」

 椅子が倒れんばかりの勢いで立ち上がった父を伏し目で睨んだ鏡は、幼い子供に語り掛けるような甘ったるい声色を出した。

 「ああ、もう。ほんと、堅物だよねえ……わかった、答えてあげるから、ちゃんと座って?」

 またノック。「どうぞ」と、今度は座り直した父親が答える。前菜とドリンクが並べられ、扉が閉じると、鏡だけ乾杯でもしようとしたのか、グラスを持ち上げて、それに応じない俺らを一瞥すると、く、と一息でドリンクを飲み干した。

 「簡単なことだよ。貴方も彼も、僕の顧客だった。お互いを満たすにはお互いが話をすればいいだけのとこまで持ってきたから、あとは会わせればいいやって。だからこうして貴方に黙って、彼がここに来る手筈を整えたの」

 「契約内容と齟齬がないか。君が全てどうにかしてくれるという話ではなかったか」

 「どうにかしてるじゃん。それとも何? ずっとこのまま、僕を理想の息子って偽って生きてくの?」

 理想の息子。その言葉が鏡の口から出た途端、父は顔を歪めて俺を睨んだ。それを無視して、俺は前菜に箸を伸ばす。和風ローストビーフのわさびジュレ添えは、さっぱりしていて旨い。赤身肉だから、脂っこくなくて、だけど簡単に噛み切れる。スライスした玉ねぎが添えられていて、くるりと巻いて食べると、また味わいが変わる。こないだ鏡と行った焼肉屋の肉とは段違いだ。旨味の質が違う。

 「……良い行いだ。僕としたことが失念していた、まずは食べるべきだよね」

 手を合わせた鏡は、箸を持つと、酷くゆっくりとローストビーフを口に運ぶ。薄く唇を開いたところで、頬に垂れ下がる髪が気になったのか、少し眉を顰めながら耳に掛けると、改めて、あむ、と噛み締めたあと、また酷くゆっくりと咀嚼し始める。彼が口の中のものを飲み下すまで、俺は惚けた顔でその光景を見つめていた。やはり、彼が物を食べる姿は、肉感的で、現実感があって、端的に言えば興奮した。

 「貴方は食べないの?」

 「……こんな状況で食欲が湧くわけないだろう。料金は払っておくから、二人で仲良く食べて帰るといい」

 「だってさ。どうする?」

 「折角息子が来たのに、父親のあんたは帰るのか。それは父親としてどうかと思うよ」

 こういう言い方をされれば、彼は帰るに帰れなくなる。この人は、父親としての行いをしろと言われれば最低限する。欠点は、言われなければしないところだ。この人は自分の父親が自分に何をしてきたのか知らないから、父親がすべきことを指摘されないとできないのかもしれない、と、同じく父親がすべきことを知らない者として哀れに思う。そして、子育ては父親の仕事じゃなくて、夫婦の仕事とも言うよな、ともう顔もよく覚えてない母親と、父親のあいだに挟まれる自分を夢想して虚しくなる。

 味が分からないような状況になる前にと、急いで口にした冷奴のいくら乗せは、濃厚ないくらの味と、淡白かと思わせておいて、同じく舌の上に濃厚に広がる豆腐の味が絶妙に組み合わさって、旨い。遠くに香って、味をベタついた印象にさせないのは、柚子の香りだろうか、何か柑橘の香りがする。さっきのローストビーフがさっぱりした味で、豆腐の方が濃厚な味というのには、完全にイメージを裏切られた。

 父親は、憮然として、目の前の皿をただ見つめている。皿がそんなに面白いのか、と、つられて視線の先の皿をじっと見ていると、なるほど皿、あと箸のチョイスも凝っている。ざらついた質感の黒い陶器の平皿に、前菜が四種、菱形の頂点にそれぞれ置くように盛り付けられているが、派手な色でもなく、てかりもない皿だから、ちゃんと食材の色艶が引き立っている。汁気が特別多いものもないから、同じ皿に載せられていても、味が混ざることもない。箸も、安っぽい木の割り箸じゃなくて、竹の割り箸だ。ほんのりと口の中に残る竹の香りは、一種の出汁に近い。

 「このひと皿だけで、なんか凄く充実してるよ。一流店って凄いんだな」

 「そりゃ、普通君みたいな奴が立ち入れないぐらいのクラスにもなればこのぐらいの仕事はするのさ。料理以外にも、調度品、立地、小物、全てにこだわって、食事を最大限に演出する。でも、それで本当に美味しいかは別。たまに看板だけ有名で、中身はスカスカみたいな店があるからね。勿論、殆どの名店が名実共にそうである場合が殆どだけど。ネームバリューがない、裸一貫の状態の中で作り上げられてきた、自由で、尖ってて、口の中で跳ね回るみたいな味のが、僕は好きなんだよ。名店が名店になる前の味がね。こうしてレシピ通りの味になってるのも、安心感があって好きだし、舌に馴染むんだけどね。長く生きてると、刺激が欲しくなるんだよ」

 「鏡、今日は年寄り臭いな」

 「君を映していないだけだよ。僕は今、かつての虚像を再生しているに過ぎない。……何故かは、もう君には分かるはずだ」

 俺は頷いて、また箸を伸ばす。次は、夏野菜の和風ピクルスだ。ピクルスといえばマックのハンバーガーに挟まった、薄くて酸っぱいキュウリだったが、敢えての選択か、キュウリはない。真っ赤なパプリカ、瑞々しいキャベツ、華のように広がるミョウガ。それらが小ぢんまりとあるだけなのに、何故こんなにも心が躍るのか。これまで口にした料理から得た期待がそうさせるのか。

 少し迷って、一口大に切られたキャベツ、それをさらに半分だけ、ざくりと噛み切る。酸味もあるが、それに勝るキャベツの甘みと、喉の奥で香る昆布の旨みは、それに勝った。

 「これはビールと一緒に食べたい味だね」

 「鏡、君は未成年だろう」

 父の言葉も何のその、彼は、ビールで満たされたグラスを手に取った。

 「知らないの? 美少年に年齢なんてないんだよ」

 「ふざけてないで、こっちにグラスを戻しなさい」

 「ふざけてなんかいないさ。成人したことを示す免許証もあるし、未成年だって示す学生証だってある。そもそも、これはビールのためでもある。貴方がいつまでも口をつけなかったから、泡がすっかり消えた上にぬるくなってしまったビールのね」

 鏡はビールを一口飲んで、かりりとパプリカをかじった。

 「君は、きちんと身分を保証されていないのか? 嘘だろ、常務が君を使ってみろというから、君と契約したんだぞ」

 「もうそこからおかしいんだよ。貴方は上司に言われたから僕と契約したんじゃない、僕が必要だったから僕と契約したんだ。思い出してご覧、貴方が僕と出会ったとき、僕はどんな子だった? 横にいる貴方の上司にしなだれかかって、ナイトドレスの胸元をはだけて、おまけに髪型はツインテールときた。貴方はそんな僕を、馬鹿にした目で見つめて。いつもの貴方なら話しかけも、触れもしない、穢い男娼……そのあと、猫の子みたいに差し出された僕に、貴方は」

 「いい加減にしないか」

 「自分の下劣な本性が明らかになっちゃうとでも思ってるの?」

 「下劣な本性を抱えているのは君の方だろう」

 「抱えているように見えたんならおめでとう、それは貴方のものだ」

 俺はパプリカを噛み砕く。甘みと独特の香りが鼻に抜ける。鏡はビールのせいか、ほんの少し、頬を赤らめて、首を傾げて茗荷をさくさくやっている。

 「鏡、楽しそうだね」

 「君は? 楽しんでる?」

 「楽しいよ、とても」

 「君はとても素敵になったね」

 「君がここまで連れてきてくれたんだ。ありがとう、鏡」

 それが礼を言うようなことではないと、わかっている。わかっていても、言いたくなった。彼は、きょとんと目を丸くすると、にやりと笑って、「お礼ならもう一杯、今度は日本酒でも注文してくれよ」と、空になったグラスを揺らす。「もしくは」、と言いかけた彼の唇を、今度はこちらから塞いでやる。彼の唇は、最初に塞がれたときよりも、薄く、冷たい。もう他人の唇の味だ。俺の鏡と会うことは、二度とないだろう。そう、彼が望むこと。一つは、日本酒を注文すること。もう一つは、ここに来た時から分かっていた。

 「父さん」

 俺は返事の代わりに、父親の目を真っ直ぐ見つめて、心の中で中指を立てた。

 「俺はあんたを軽蔑するよ」

 父親の行きつけの店で、父親の目の前で、はっきりと、この言葉を言うために、俺は、鏡にあの言葉をかけた。

 ――俺の淋しさを埋めてくれないか――。

 今、この契約は果たされた。俺は、立派すぎる父親の影に囚われてなんかいない。ただ、矮小だっただけだ。孤独でいれば、何かが現れ、ずっと傍にいてくれると、甘えていただけだ。鏡は傍にいない。しかし、偏在する。彼が孤独そのものである限り。

 目の前の男も、おそらく俺と同様なのだ。俺が矮小であったように、彼も矮小で、でもそれを認める機会も、彼を貶める人間も、何も現れないままに、どんどんと孤独だけ溜まっていった。彼が囚われていた影はなんだ? 俺と同じように自分の父親か、それとも立派すぎる自分の外面か。

 だけど彼には俺がいた。人間が生物である限りついて回る孤独、それを晴らすには、俺はうってつけだろう。彼の遺伝子を持った、彼を受け継ぐ人物。ただ、不幸なことに、同じように俺も矮小な人間だった。皮肉なことに、俺たちは矮小である、その一点が異常に似通ってしまったがために、お互いにお互いが、嫌になるほど孤独だった。

 「親父、あんたは矮小で、息子に軽蔑される大人だよ」

 俺は何度も何度も繰り返し、彼に語り掛ける。それは恨み辛みであり、愛だと自覚していた。鏡は勝手に日本酒を追加注文している。俺は言葉の合間に、最後の前菜に手をつける。うのはなあえ、と説明されていたが、なんのことはない、ただのおからの炒り煮だった。

 「なんでうのはな?」

 「おからの別名だよ。卯の花というのは、白くて小さな花なんだけど、それが炒ったおからに似てるから」

 俺の呟きに解説を返す鏡は、日本酒片手に上機嫌だ。それは教科書で見た文士の姿に似ている。きっちり着ていた三つ揃えは、スーツはくしゃくしゃになって椅子の背に掛けられ、シャツは腕まくりされている上に、胸元がほんのわずか見えるように開けられている。彼は自分で自分を美少年だと吹聴しつつ、美少年だと思わせるような振る舞いを心がけてなんかいないんだろう。彼はそこにいるだけで美少年だから、美少年らしく振舞う必要なんかなく、彼の振る舞いこそが美少年の振る舞いになる。たまらなくなって彼に口づけると、冷や酒でぬるまった甘い舌が、恭しくお相手してくれる。自分に沿うかたちでなくなっても、哀しいぐらいに鏡は魅力的だ、男は皆、彼の何かしらに惹かれ、そして、忘れ去っていく。

 「こんなのは俺のじゃない」

 感情を失くした声を父親は出す。俺の「何」なんだ? 息子か? それとも理想か? どっちにしろ、俺はもう彼の知る俺ではないし、多分最初から彼は俺を知らない。

 「それは正しいよ。俺は貴方の理想じゃない。貴方の理想、というか、貴方に近い存在としてあったのは鏡だ。でも、鏡は貴方に近すぎた。近すぎたから、貴方のいらない部分も持ってるんだ。だから貴方は、鏡を抱いたんだ。俺と同じように」

 こういうのを、穴兄弟というのだと、昔興味本位で覗いたアダルトサイトには書いてあった。きっと鏡は、もっと下品な人格のときには、きゃはきゃは笑いながら、俺たちをそれらしい言葉で揶揄うんだろうけど、もう今は、ゆっくりと酒を飲みながら、自分がした仕事の出来に、うっとりと見入ることにしたらしい。

 「子育てを間違えていたと、詰るのか」

 「そもそも、間違えた間違えないの話じゃないんだ。俺は貴方の遺伝子を受け継いでいるけど、こういう個人としてここに存在している。貴方にとって俺の存在が良いか悪いかは知らないけど、少なくとも俺にとっては、自分が良く育ったとか、悪く育ったとかわからないわけだ。それは貴方も同じだろ」

 「私は――私は良い育ちの人間、だ――」

 良い育ち。そうだろう、貴方はそうだ。祖父も祖母もきちんとした礼儀作法を俺に教え込み、甘い顔をしたことはない。幼い頃、俺はあんな鬼みたいな人たちに耐えた父を尊敬したものだった。中学生になってすぐに祖父母から逃げ出したことが、もしかして俺の矮小の原因だったのか? だったとしても、もう別にそんなことはどうでもいい。

 「そんなことは関係なく、俺は貴方が嫌いだって話だよ。……こうして認めることで、俺は貴方の立派さを言い訳にして、いつまでも孤独になりたがっていた自分を捨てる。貴方はどうする」

 「私は、私は……孤独ではない。鏡がいる限り、私は孤独にならない」

 「そうだね、それは否定しない」

 くぴり、と日本酒を含んだ鏡は、微笑みながら頷いた。「僕がいる限り、貴方は孤独になりはしない。満たされないなんてことはない。だけど、一瞬でも貴方が満たされれば、僕はまたどこかに行くよ。貴方が生物である限り、貴方の孤独は決して消えはしない。人間は一人で生まれて、一人で死ぬんだ。そして貴方はこの世から消える。綺麗に。跡形もなく。今まで何百人という男たちが僕の膝の上で死んでいったけれど、どの男も願うことは大体一緒。俺のことを忘れないでほしい、もしくは、君は永遠にうつくしくいてほしい。馬鹿らしいと思うだろ、ところがどんな男も、もう涙も出ない目をくっきり開いてそう言うんだ。それに打ち勝つには、どうすればいいかもう教えたよね」

 初めて父が、しっかりと顔を上げて俺を見た。俺も彼の顔をじっと見つめた。それは、俺にとても似た顔だった。俺の母。唐突に思い浮かぶ。俺の母というものは最初から存在せず、父が大量に抱え込んだ孤独に、俺という肉がついたのではないか。

 孤独に肉がつく。自分で考えて自分で否定しつつ、肯定もしたくなるのは、真横に鏡がいるからだ。孤独を喰らい、自分の腹の中で蕩かす、孤独で出来た人間。ただ、鏡がいるからこそ、俺には母となる人間がいるとわかる。鏡と俺は違う。俺は孤独以外の、大量の不純物を含んでいる。鏡は、孤独以外に殆ど何も持たない。

 俺は静かに父の言葉を待つ。鏡も、自分の役目の終わりを静かに待つ。舌なめずりをする獣のような瞳を、目蓋の下に隠していると俺は知っている。

 「好きな食べ物は海老で、嫌いな食べ物は椎茸」

 「え?」

 早口で告げられた言葉に俺も鏡も揃って目を丸くする。一瞬の間の後、鏡はきゃはきゃはと腹を抱えて笑いだし、満足そうに唇を舐めた。

 「何、それ」

 「私の食べ物の好みだ。……まずは、知り合うのがいいだろう」

 「ああ、そういうことか。……まずは、お友達から始める感じで」

 「冗談は……いや、その通りだ。一旦親子をやめて、友人として、付き合っていくのも、一つの道だろう。なあ、鏡」

 鏡は笑い終えて、また改めて、きゃは、と口先だけで笑った。

また俯いていく父の頭を見ながら、俺も笑っていた。ただただ、喉の奥から出てくる声を垂れ流していた。目の前に置かれた茶碗蒸しの蓋を開いて、出汁の香りを胸いっぱいに吸い込んだそのとき、俺と父の面倒な遠回りは、前菜を食べている、ほんのわずかな時間の間に、解決してしまったのだと、気付いた。



鏡にはセーラー服が似合っていた。今でも、そう思っている。女子高生が、スカーフを適当に結んで、不自然にスカートを短くしているのを見ると、彼の膝小僧が、裾からちらりと覗いていた光景を思い出す。

 本当に鏡は思い出になってしまった。バニラの香り、カレーの味、汗ではりつくソファの感触。彼を形作っていたものだけが、脳にこびりつき、彼の存在だけが、不自然なぐらい希薄になってゆく。それに気づいたときには、酷く苦しんだりもしたものだが、今となっては何が苦しかったのかすらわからない。

あの後、父と「友だち」になった俺は、ぽつぽつと喋り続け、いつの間にか、するりと鏡の存在が心から抜けた。鏡は隅で酒を啜り、食を摘み、会計のときに、俺から預かっていた金を、父に渡して去っていった。その夜から父と俺は、一つ屋根の下で、普通の家族のように暮らし始めた。今では俺の妻と長女と長男が加わっているが、多分、関係は上手くいっている。

全ては鏡の思うようになったのだろう。あの夜以降、俺は鏡の名を呼ぶことも、彼の読む本の書名を確認することもなくなった。俺たちは何事もなかったように卒業し、それから数十年経った今では、彼の言葉と、それに慰められた俺を、若さゆえの過ちだ、と笑い飛ばすこともできるようになった。それは俺以外の人間も同様だったようで、同窓会でも鏡が話題になることはなく、一度、町中で見かけた平沢も、鏡とは似ても似つかない女を連れていた。ああ、彼もちゃんと、淋しさを埋められたのか、と、意外に感じて、あとは別に声をかけることもなく、彼と同じ釜の飯を食ったことを、無かった過去にした。あのコンシェルジュの方はもうわからない。

 そろそろ鏡の顔を忘れそうな時、街灯の明かりに反射して、青く光る髪が靡くのを見た。

「鏡、」

思わず口から出た声に振り向いた影は、確かに鏡だった。あの頃と寸分違わぬ、美少年の顔が、薄暗い裏通りの街灯の下、輝くように浮いていた。目線が、かちん、と歯車が噛みあったときのように、綺麗に合わさって、もう二度と動かない気がした。やがて、アメジストの瞳が、あの教室で見たように、大輪の薔薇に変わっていく。

「……君か。何十年ぶりかな」

「そうだな。もう、あの時の親父の年齢を超えたよ」

「お父さんは元気?」

「元気だよ。孫が可愛くて仕方ないらしい」

「そう、君はちゃんと、女とセックスできたんだ」

きゃはきゃは笑う彼は、頭の軽さが匂う口調で、「セックス」と軽々しく口にする。頭の中に微かに残る、あの頃の鏡の姿とは違う、小生意気な少年だった。

「変わったな、鏡」

「それが僕だもん」

「そうだな。知ってる」

真っ赤な金魚をあしらった振袖は、彼に似合ってはいたが、決して彼の好みで着ているのではないと察しがついた。夜の新宿では浮くそれは、赤の帯がだらりと垂れ下がるように締められているせいで、高価そうな見た目に反して下品に見えた。

 「じゃ、元気で」

 ひらりと手を振って、彼は夜に溶けていく。その手を取らなかったのは、今の俺には正しい判断だった。

彼の横には、いつのまにか恰幅の良い紳士が寄り添って、まっすぐにホテルへ歩みを進めている。彼は紳士が吸っていた葉巻を奪うと、煙を残していくかのように、指先でつまんだそれの先を、いつまでもぷらぷらさせていた。やがて二人の姿が建物の中に消えると、俺は深く息を吸い込んで、駅へ足を進めた。

今の俺には、彼は必要ない。女を知ったらわかると言われた、孤独の埋め方。確かに俺は今、それを知っている。自分が死んでも、自分のいた証は生きてこの世を這い回ると信じていられる。それがもたらす充足感は、彼が唯一教えてくれなかったものだ。彼自身が欲しがっても、与えられることのないものだ。

彼は孤独をためこんで、それが彼の中で臨界点に達することを待っているのだと気付く。喰えば腹の中にたまる、その子供じみた単純すぎる理論こそ、永遠に美少年でしかない彼にとっては希望なんだろう。達したそのとき、自分と同じ、肉を持つ孤独を産めるに違いないと、鏡は薄い腹の中に夢を見る。

 ――鏡には、もう俺も必要ないんだな。

 脳を一閃した言葉に足を止めて、さっきの街灯の場所まで引き返そうとしたが、もうどこにあったのかわからない。彼をもう俺は満たせないと気付いたせいで生まれたこの喪失感を埋めるには、もう一度あの言葉を彼に告げるしかない。

 「俺の淋しさを埋めてくれないか――」

 家に帰れば、埋められはしないが、忘れることはできるだろう。それでも、この夜だけは、彼にこの淋しさを埋めてほしかった。葉巻の煙も、赤いだらり帯も、青い髪も白い肌も赤い瞳も、何も残っていない路地裏を彷徨いながら、俺はあの日以来、流すことのなかった彼への涙を流していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鏡は自分を映せない 小野寺こゆみ @koyu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ