アヤカシ喰い依子さんの非常食

 依子の胸中は苛立ちのガスで破裂しそうだった。

 恩義を捨てられないのは彼らしいが、だからといって真っ先に動くことはないだろう。自分に一言も告げることなく動いた太一の態度が、依子は我慢ならなかった。


 ――たーくんのそういうところ、可愛いと思ってたけど……今は超むかつく。


 太一は他者に寄りすぎな性質がある。心の底に愛されたいという渇望があるからこそ、他人を構おうとする。依子にとって、その幼子みたいな飢えは嗜虐心をくすぐるくらい愛らしい長所だが、それが他人に向かうなら話は別だった。


 ――私という彼女がいながら忘れるとか。あり得ない。別の女に気を回すとかあり得ない。


 憤懣ふんまんやるかたない依子は眉間に皺を寄せる。

 太一が心配していいのは自分だけだ。太一が考えて良いのは自分だけだ。太一が呼びかけて良いのは自分だけだ。他の女の話をされることは当然、その女に意識を向けている姿すら許せない。

 太一の全てを独占しておかないと気が済まない。

 こんなもやもやを嫉妬と呼ぶのだと依子は気づいていたが、不愉快極まりなかった。太一の頼みなど聞かず雷獣を殺してやりたくなる。

 でも駄目だ。さすがの依子も、踏み越えてはいけない一線というものを弁えている。雷獣のことで悲しむ太一も見たくない。

 だからここは自分が我慢するしかない。でも不愉快だ。堂々巡りが続く。


「――い! 聞いてんの!?」

「は?」


 我に返った依子は威嚇するような低い声を出す。目の前では、雷獣を握った秋子が肩を怒らせナイフの尖端を向けていた。


「なんで私に斬りかかった!? あんた私を殺すつもり!? どういう了見なのよ!!」


 癇癪を起こしたような金切り声が響く。

 その声を皮切りにアヤカシ達が一斉に秋子へ襲い掛かった。静観していた滅怪士達は慌てて彼女の守りに入る。

 だが二人は周囲の戦いなど意にも介さず、立ったまま睨み合う。


「だから言いましたよね。彼氏の頼みだって」

「おい止めろ二人とも!」


 横合いから制止の声がかかった。先ほど呪符を貸してくれたベリーショートの滅怪士が止めに入ろうと動いている。だが人狼のアヤカシが彼女に襲いかかって邪魔をした。他の滅怪士もアヤカシに塞き止められている。

 仲間割れなら泳がしたほうが好都合、という敵側の思惑が透けていた。スポットライトに照らされたように、二人の立つ場所だけ空間が開く。


「半妖の頼み? それで私を殺そうって?」

「別に殺しはしません。雷獣を解放した後は好きにすればいい。もちろんたーくんを攻撃するなら止めますが」


 秋子は高笑いした。戦場の騒音に負けないほどの高音量で。

 ひとしきり笑い終えた秋子は、侮蔑混じりの目を依子に向ける。


「やっぱり狂ってたのねぇ。恋とか愛とか、ゴミ同然のまやかしで組織を裏切るなんて……そんな馬鹿が本当にいるとは思ってもみなかったわよ。てっきり半妖に操られてたものとばかり」

「先輩も元老院と同様、私の気持ちが理解できない口ですか」

「当たり前でしょう? 普通の人間ならともかく半妖って、イカレてるにも程がある。それで組織を抜け出して何が残るの? 命を狙われて悲惨な生活して生態浸食の痛みに苦しんで、得るものが男たった一人って……くっくっく、ああ可笑しい」

「あなたにはわからないんでしょうね。幸せが何なのか」


 静かに告げた言葉に、秋子が笑みを消す。


「幸せ、ですって?」

「ええ。たとえ組織を裏切って辛い環境に墜ちたとしても、補って余りある幸せがある。それを知らないあなたはとても貧相です」


 秋子のこめかみに青筋が立つ。彼女は腰を低くしてナイフを構えた。

 呼応するように依子も構える。


「……訓練生のときはもっと利口かと思ってたけど、誤解だったようね」

「私は指導してもらってる時からずっと、頭でっかちな人だと思ってました」


 両者は同時に地を蹴る。ナイフが激突して擦過音と共に火花が散る。

 刃を受け流した依子はすぐさまナイフを振る。秋子も同じ軌道で斬撃を放っていた。

 幾重もの銀閃が重なっていく。打ち合いは数秒間も続く。

 依子は内心で舌打ちした。


「ほらほらがら空きじゃない!」


 ナイフを振るった空白に蹴りを叩き込まれる。鳩尾を打たれた依子は後方に転がったものの、すぐに起き上がって走った。彼女の居た場所をナイフが通り過ぎる。逃げる依子を秋子が追走する。


「訓練生時代に何回か模擬戦したわねぇ、あんたと」


 背後から粘着質な声が届き、距離は一瞬にして縮まった。依子は振り返り様にナイフを放つ。だが秋子に容易く弾かれる。

 腕を振り戻す速度を超えて秋子が打ち込んでくる。依子は瞬く間に回避と防御に専念せざるを得なくなった。


「私に勝ったこと一度でもあったかしらぁ?」

「ありましたよ一回だけ」

「なに自慢げに反論してんのよ淫売!」


 裏拳が依子の頬を打つ。バランスを崩したところで髪の毛を鷲づかみにされた。


「ほんと腹の立つ女ね……! それにあんた、自分がクズだってこと自覚してる? 任務も仲間も捨てて、人間を襲う化け物を放置することのどこが偉いか言ってみろ。快楽を優先してるだけの独善女が!」


 髪の毛を引っ張られ依子は強引に顔を向けさせられる。秋子は歪んだ笑みを浮かべていた。しかしその濁った瞳に優越感はない。あるのは狂気と憎悪。

 その中でほんの僅かに混ざる感情を、今の依子は的確に見抜いていた。


「……言い訳はしません。私は許されないことをしてる」

「へぇ、そう? 少しは罪悪感もあるのねぇ。だったら責任取って死ね」


 ナイフの尖端が胸に照準を合わせる。心臓を一突きする位置だ。

 それでも依子は怯まなかった。達観したように秋子を見据える。


「私はきっとろくな死に方をしない。恨まれ憎まれ蔑まれることもわかってる。でもこの気持ちは変えられない。今まで得られなかったものを、彼から貰ったから。知ったらもう手放せないわ」


 太一と過ごした僅かな期間で、依子は様々なことを知った。

 喜びも悲しみも安らぎも不安も、魂が震えるほど相手を求める切なさも、好きな人に抱きしめられる温もりも。

 今抱いている嫉妬もそうだ。苦しくて堪らないが、これだって昔のままなら得られない感情だった。

 普通の人間なら当たり前に持っているものを、空っぽの依子は持っていない。

 だからこそ満たされた数々の感情が宝物同然に輝いていて、捨て去ることができない。


「先輩だってわかってるはず。任務では得られない大切なものがあること。だから私に嫉妬してる」

「――っ!」


 秋子が声を失う。その僅かな動揺を依子は見逃さなかった。秋子の手を蹴ると同時に自分の髪めがけてナイフを振り下ろした。掴まれていた部分が切断され、艶やかな黒髪が散らばる中、依子はバク転しながら距離を離した。

 秋子は忌々しげに口の端を歪めたが、すぐに嘲笑を浮かべる。


「夢見がちなお子様のほざきそうなことね。そういう戯れ言はあの世で半妖とでも喋ってなさい」

「悪役みたいな台詞ですよ、先輩」

「……口数の減らないガキが」


 秋子が接近してくる。依子は逃げつつ冷静に思考を巡らせた。

 秋子は訓練生時代に指導を受けたことのある滅怪士で、実力差は歴然としていた。更に今は妖力を得たばかりで身体機能が向上し、肉体が活性化している。

 対する依子は一年間も妖力を得て折らず、幽閉されていたせいでろくな訓練もしていない。

 逆転するには策を練るか、あるいは妖力を得るしかない。

 秋子が急接近してナイフを振るう。依子は跳躍して避ける。着地と同時に背後で爆発音がした。振り返った依子は目を瞬かせる。


「あれ、たーくん」

「うっ……ごめん、怪我はない?」


 全身に火傷を負った太一がしゃがみ込んでいた。空中では炎が渦巻いている。彼は彼で壮絶な戦いに翻弄されていた。

 しかし太一は、依子に向けて弱々しく笑いかける。真っ先に気遣ってくるその優しさに胸が高鳴るが、同時に依子の中で悪戯心が芽生えた。

 夜闇から眩い火の矢が降り注いだ。太一は依子を抱きしめて跳躍する。予想通り彼は庇ってくれた。依子は腕の中で不敵に笑う。


「たーくん、今こそ出番よ」

「え?」


 依子は大口を開けて、ぽかんとする彼の首筋に噛みついた。男の低い叫び声が鼓膜を揺らす。

 構わず歯を立てて肉を噛み血を啜る。背中に回された太一の手に力が込められ、皮膚に爪が食い込む。痛がっている。でも力は緩めてやらない。

 彼の一部を飲み下す。下腹部が、妖力を得た喜びに震える。すぐさま妖力変換が機能して全身が活性化していく。体温が上がったおかげで、依子の頬はほんのり上気していた。

 痛みで顔をしかめる太一だが、依子を手放すことなく安全に着地してみせる。その包容力に依子は満足して、彼の頭を撫でる。さらりとした感触が心地良い。


「妖狐のときは濃いね。さすが私が見込んだ非常食」

「……そ、それは良かったです」


 何か言いたげな太一だったが、曖昧に笑うだけだった。そういう従順さも好ましい。雷獣の件は少しだけ許してやることにする。

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