依子さんと痴話喧嘩
俺と依子さんは互いを睨み合う。
ナイフを持つその手は俺が握りしめて止めているが、それでも俺を斬りつけたくてうずうずしていた。その様子が俺の気持ちを更に逆なでする。苛立ちが勝手に募っていく。
依子さんと喧嘩したいわけでも、口論したいわけでもない。本音では早く終わらせたくて堪らない。
でも理解を示そうとしない依子さんへの不満が醜く渦巻き、自分の中で消化できなかった。
睨み合って数秒後、ふと気づく。攻撃の手が止んでいる。
星熊童子は俺たちから離れた場所で腕組みをして立っていた。人型に戻り、冷めた表情で俺たちを観察している。他のアヤカシもアヤカシ喰いと交戦していて、俺たちだけが戦場の無風地帯になっていた。
星熊童子の態度は不気味だが、おかげで周囲を確認する余裕ができた。棗さんを捕えている女は嬌声を上げてアヤカシ達を翻弄している。まるで人形のように棗さんを振り回し、危険に晒し続けている。
怒りを抑えきれない。今すぐにでもあの女を地面に叩きつけたくなる。
「とにかく俺は行くからあだだだだ!?」
尻尾に激痛が走る。見れば銀の尻尾が依子さんに思い切り踏まれていた。
「何なのよもうっ!」
彼女はこれでもかというくらいグリグリと踏み躙ってきた。「あwせdrftgyふじこ」訳のわからない叫び声が出る。
「愛してるなら私だけ見るものでしょ!? なんで他の女にこだわるのよ!」
地団駄を踏むように高く振り上げた足を何度も叩きつけられる。
これ以上は折れますぅ!
危機感から俺は咄嗟に尻尾を引っ込めて難を逃れた。が、代わりに依子さんを掴んでいた腕を振り解かれた。
ナイフが来るものと身構えたが、依子さんは動かなかった。
俺は、彼女を見てギクリとする。
依子さんは頬を膨らませて、涙目になっていた。いつぞや一緒に風呂に入ったときのように。
「たーくんなんて、嫌いよ……」
依子さんが思い切り拗ねている。
正直なんでこんな場面で、とも思ったが、依子さんはそういう感性だからなにも言うまい。むしろ罪悪感が鎌首をもたげてくる。胸がズキリと痛む。
同時に俺は気づく。心の奥底では、彼女の泣き顔に高揚している自分がいた。
依子さんが俺の言葉に苛立ち、感情を剥き出しにしている事実が嬉しい。
俺の気持ちを独占しようとする彼女の執着がたまらなく心地良い。
俺のことで泣いている依子さんがこの上なく愛しくてゾクゾクする。
こんなにも愛された経験はなかった。愛してくれた女性はいなかった。
だから実感が湧いてくる。やっぱり俺の生き甲斐は、依子さんに必要とされていることだ。俺の全部を欲して喜ぶ人だからこそ、何もかもを与えたくなる。
「……ごめん」
俺は依子さんの頬をそっと撫でる。そして、本心が伝わるよう誠意を込めて言う。
「後でいくらでも罵って、傷つけてくれて構わないから」
依子さんは潤んだ瞳で俺を値踏みするように見つめてくる。
「でも、覚えておいて。俺が特別な感情を向けるのは依子さんだけ。それは変わらないよ。いつだって依子さんが一番なんだ」
様々な感情が入り乱れている瞳は、瞼が閉じることで一度隠れた。
彼女はため息を吐くと、頬を撫でる手の甲に自分の手を重ねて、そっと下ろす。
「……ほんと、惚れた弱みね」
述懐するように呟いた依子さんは、ゆっくりと瞼を上げる。いつもの理知的で冷たさのある瞳に、僅かな許容の温もりがあった。
依子さんは俺から離れてスタスタと歩き始める。「依子さん?」呼びかけると彼女は立ち止まり、少しだけ振り返った。
「どうしてもと言うなら、私が代わりに助け出す」
俺が目を見開くと、彼女はやれやれと頭を振る。
「他の女に触れてるのを見せられるほうが、何倍も嫌だから」
刺々しさ全開で嫌々なのを隠そうともしていない。それでも依子さんは最大限に譲歩してくれていた。
彼女の提案を理解し、吟味した俺は途端に居たたまれなくなる。高揚なんて一瞬で終わった。
一人で行かせることへの不安はもちろん、依子さんが仲間と戦うことに懸念がある。決別を告げていたとはいえ、恨みがあるわけでもない。余計な軋轢は依子さんの心境に悪影響を及ぼすかもしれない。
俺の我儘のせいでそんな重荷を背負わせていいのか、迷った。
かといって依子さんも納得ずくで棗さんを救う手段が他にあるかといえば、ない。
俺は苦渋の末、依子さんの背中に言う。
「……棗さんのこと、頼みます」
誠意には信頼で応えるべきだ。ここで蒸し返すほうがよほど彼女の気持ちを傷つける。
頷いた依子さんは、遠くで繰り広げられている戦いへと向かう。
彼女が去ると、待ちかねていたように炎鬼が息を吐いた。
「残り二秒。時間内に収まって良かったな、色男」
意味不明な発言に俺が眉をひそめると、星熊童子は組んでいた腕を解いて首を鳴らす。
「俺はな半妖、どんな奴にも三分だけ猶予をやるんだよ。その僅かな時間で策を練る奴もいれば、女との別れを済ませて覚悟を決める奴もいる。特に俺を斬り殺した
過去の死闘を思い返した鬼が、裂けた口の端を吊り上げる。しかし、俺に向けられたアヤカシの赤黒い目は退屈そうだった。
「お前にくれてやった三分でどう変わったか魅せてみろ。期待外れなら、一瞬で消し炭にするがな」
腰を低く落とした鬼はその腕を炎に変える。熱量は更に増大していた。
底知れぬ妖力と禍々しい炎に、背筋が冷たくなる。死神の足音が耳元で聞こえてくるようだ。
伝説級のアヤカシと対峙しているなんて、一年前は考えられなかった。俺は半妖で、脅威を前に逃げ惑ってばかりいた。まともに戦った経験すらもほとんどない。本当は足が震えて必死に隠れ場所を探してしまう臆病な男が、俺の本性だ。
でも、死の恐怖はなかった。生きたいという渇望があった。
依子さんをこの手に抱き続けるためなら、何だってしてやる。
俺は蓄えた力を解放し、星熊童子へと疾走る。
△▼△
滅怪士三十七名、アヤカシ十三体。それが中庭で戦う者の総数だ。ここに銀狐太一と滅怪士依子が参戦し、混戦の様相は先が見えなくなる。
更に中庭に現れた一人の女が、混乱を助長する要因となった。OL姿の女は半妖討伐任務の最中に行方不明となった滅怪士――藤堂秋子だった。
既に死亡したものと捉えていた他の滅怪士達は驚愕するが、秋子は彼女らの当惑など意にも介さずアヤカシ相手に攻撃を開始する。手当たり次第に斬りかかっていくが、さりとて危うい動きではない。普段の彼女を知る者からすれば驚異的な身体能力だった。
それは秋子が、雷獣の肉を食って身体能力を向上させているからだ。
そして普段と違う点はもう一つあった。
「あっはははははははははははは! もっともっともっともっと血を吐け粘液を撒き散らせ肉塊になって私を感じさせてよお願いだからぁあああはははははは!」
冷静沈着で潔癖じみた正確さを誇る滅怪士の姿は、どこにもない。明らかに錯乱している。
他の滅怪士達は彼女の援護に回ることを躊躇った。それは、本能的な忌避感のせいだった。内に隠された己の獣性を、醜さを突きつけられている気がしたから。
おかげで、一人の滅怪士は誰にも止められることなく秋子に急接近することができた。その少女は滅怪士でいながら組織に反逆した裏切り者。そして半妖と恋仲に落ちた倒錯者。
彼女は戦闘の最中へと飛び込み、アヤカシを退けたばかりの秋子へナイフを振るう。
依子の斬撃をナイフで受け止めた秋子は瞠目した。次に歯を剥き、彼女へ激怒を向ける。
「四番隊、三十六号……!」
「お久しぶりです、三番隊三号先輩」
秋子がナイフを弾く。依子は勢いを後方に流しながら空中を回転し、優雅に着地する。
「嫌々ですが、彼氏の頼みなので言います。そのアヤカシを解放してください」
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