とあるアヤカシ喰いの惑い
室内は屋根を叩く雨音で満たされていた。
フローリングの床に寝転んだ楠木美希は、誰もいない部屋をぼんやりと眺め続けている。
この部屋の主であるアヤカシの女と、そこに転がり込んでいる半妖の男は外出していない。隠れ家を移す準備を始めるということで二人揃って買い出しに出かけた。
一人残された美希は、ただじっと時間が過ぎるのを待つ。後ろ手に縛られた状態で上半身を鎖でぐるりと拘束され、その鎖は床に打ち付けられた杭と繋がっている。暇を潰すことすらできはしなかった。
妖力が込められている鎖はビクともしない。二人とも外出中のときに鎖を破壊しようと試みたものの、まったく歯が立たなかった。
今も一人きりでチャンスには違いないが、美希はずっとダラダラと過ごしている。どうせ壊すことはできないんだろうという諦観がやる気を消失させている。
いや、美希が心ここにあらずなのは、鎖のことだけが原因ではない。
怒りを持続させられないのは、半妖太一の提案のせいだった。
――普通の子に戻る、かぁ……。
太一は言った。自分に協力すれば普通の人間に戻れる、と。
滅怪士を辞めることなど、今まで考えたこともなかった。生まれてすぐ組織の訓練施設に放り込まれ、過酷な生活を経た後には化け物の討伐に駆り出され、生きることに精一杯だった。
それに生態浸食という肉体的な制限もある。美希は組織以外では生きていけない。他の滅怪士も普通の生き方などとうに諦めている。
それがここにきて、思いがけない形で自由への道標が示された。
――多分本気なんだろうなぁ、あいつ。
弱々しく笑う青年の顔が浮かぶ。線が細くて頼りなさそうなくせに、好きな女を救うという理由だけで命を賭けている。
正直、美希にはまったく理解できない。そんなことで陰陽寮という巨大組織に立ち向かうなどあまりにも馬鹿げている。
しかし、そんな男だからこそ、他の雑念に囚われることがないのだ。
太一が協力を要請してきたのは、そのほうが依子を救う近道だと思ったからだろう。美希への配慮も多少はあるのかもしれないが、目的がはっきりしているからこそ欺かれる理由が見当たらない。漠然とした信用を芽生えさせるほどの単純明快さだった。
だから美希は、今まで考えもしなかった未来に思いを馳せる。
――普通の子ってどうやって過ごすのかなぁ。
任務ばかりでろくな生活をしてこなかったから何もわからない。とりあえず一人暮らしをして、日がなテレビを見たりゲームで遊んだりすることから始めればいいか。
あとはそう、同性の友達が欲しい。趣味を語り合えるような。
できれば同性の恋人も、欲しい。考え出すと胸が高鳴った。
同時に、いけないことをしているような背徳感が滲み出てくる。
美希はチラッと壁際に目を向けた。二重壁に設置されたディスプレイ達は今はもう真っ暗だが、つい昨日までは美希が住んでいたマンションを映し出していた。その部屋は原因不明の出火によって黒焦げになっている。
映像を見たとき美希は驚愕し、動揺した。
なぜなら、自室に自然出火する装置など取り付けていないからだ。
部屋の侵入防止策はあくまで呪符の結界が主なもので、組織が全て焼却するなどという乱暴な措置を用意することはあり得ない。
では太一と棗という雷獣の仕業かといえば、どうも違うようだ。太一の目的は撤収作業に来た式務官か監部官を捕獲することのようで、それが妨害されたことで彼は混乱していた。
単純に事故という可能性もあるが、火元になるようなものに心当たりはないしタイミングが良すぎるのが怪しい。
もし誰かの仕業だとすれば、組織でも太一でもない第三者がこの件に絡んでいる可能性がある。
美希がそう考えてしまう根拠には、パートナー藤堂秋子の安否があった。
彼女は無事に逃げ遂せたはずだから、太一がこの街に潜んでいることも組織に伝わったはずだ。なのに組織の動きが鈍すぎる。
撤収作業は火事で台無しになった上に、滅怪士達はこの隠れ家を突き止めるどころか外出している太一や棗を発見することもできていない。
だから美希は一つの仮説を浮かび上がらせた。
もしかすると秋子は、無事ではないのかもしれない、と。
予想外の波乱は、秋子からの伝達が組織に伝わっていないことが原因に思えた。もし目に見えない誰かが秋子を手にかけ暗躍しているとしたら、事態は一気に不穏なものになる。
組織が危険に晒され、最悪は多くの死者が出るかもしれない。そう考えると焦りが燻る。
美希は別に責任感が強い方ではない。生まれた境遇がそうだったというだけで、なし崩し的に戦ってきた。か弱い子供や女性をアヤカシから守ってあげたいとは思うが、その役が自分である必要もないと達観している。
ただ、仲の良かった同期や先輩については別だ。片思いだったあの子がアヤカシの毒牙にかかるなんて許せるはずがない。
対処できるのはこの事件に関わる美希、あるいは中心にいる人物たちだ。
――あの男は気づいてるのかな。仲間じゃない、とは思うけれど。
火災があった日の太一の狼狽ぶりは演技ではなかった。彼自身も第三者の存在は知らないと断言できる。
なら、雷獣の方はどうだろう?
――あの女はウチの部屋が燃えても興味なさそうだったな。総本山の位置がわかればいいってこと、なら……ん? 位置?
美希はハッとする。
総本山の位置を特定した後、棗は身を隠すという。直接危害を加えるつもりはないようだが、問題は、棗に位置情報を隠しておく理由がないことだ。
単独での侵入を目指す太一は棗に伏せておくよう頼むかもしれない。しかしアヤカシがそんな義理立てを守るとは美希には信じられなかった。アヤカシは仲間意識が薄く、同族に対しても驚くほど冷酷になることを知っているから。
棗はその情報を、他のアヤカシに渡すかもしれない。
疑いの目を向けると、棗という存在がますます怪しく感じられた。
もしも火事の原因が事故ではなく、誰かの作為的な犯行だとすれば。
部屋に侵入した棗が犯人候補ではないと、どうして言い切れる?
「っ……! あんの軟弱変態女装男!」
寝転んでいた美希は勢いよく上半身を起こした。
考えれば考える程に黒い部分が透けて見えるのに、あのお人好し半妖はきっと疑ってもいないのだ。その生温い性根が今は無性に腹立たしい。
だから、美希が怒りに任せて身体に力を込めたのは偶然だった。
鎖は内側からかかった力によって、呆気なく千切れた。
「――――えっ?」
呆然とした美希は、恐る恐る千切れた鎖に触れてみる。
妖力の波が感じられない。ただの鎖に戻っていた。
しばらく自失していた美希は、我に返ると素早く室内を見渡した。何かの罠かもしれないという不安が過ったからだ。
警戒心と共に待ち構えてみたが、異変はない。聞こえてくるのは雨音だけ。
美希は考え直す。わざわざ逃がすような真似をするだろうか、と。
――……もしかしてあの雷獣、ミスった?
何らかの理由で妖力が切れたのだとしたら、これは逃げ出すチャンスだ。
美希は即座に散らかった室内を物色し始める。転がる服や下着を引剥返し、よくわからないジャンクパーツを払い除けていく。
「あった……!」
彼女が手に取ったのは呪符だった。ナイフを失っている以上、武器となるのはこの呪符しかない。捨てられたかと心配したが、放置されるだけで済んでいた。
身を隠す効果を持つ呪符も残っている。これでこの街を脱出すれば監部官に保護してもらえる。美希は逸る気持ちを抑えつつ用心しながら玄関へと向かう。
その途中、彼女は足を止めた。視界に映った物に気を取られた。
美希は無造作に置かれたカードファイルを拾い上げる。カバーをめくれば、愛らしいキャラクター達がきらきらと輝いていた。
もはやこのカードファイルだけが手元に残ったグッズになってしまった。それも太一が持ち帰ってきたおかげという、喜んでいいのかわからない状況だ。
彼には持ち帰る理由がない。ずっと気にかかっていた美希は、魔臓宮の話題が一段落した後に折を見て問いかけていた。
『だって、撤収されたらもう見れないでしょ? 大切なものと離れるのは寂しいかなと思って』
殺すことが確定している相手を気にかけて意味があるのか。美希が指摘すると彼は、身体が動いてしまったんだと苦笑いしていた。
それは、優しさというにはあまりにも屈折している。
もしかすると半妖だからそうなのかもしれない。傷つけられないようへりくだり、他者に迎合することでしか生きてこれなかったから。
しかし、彼の健気な生き方はまた裏切られようとしている。
アヤカシと、人間の両方に。
――ウチがいなくなったら、あいつは……。
どんな反応かなどわかりきってる。彼はきっと絶望する。
「っ……」
美希は唇を噛み締めてカードファイルを投げ捨てた。縋り付く太一を振り払うように。
仲間は見捨てられない。いい思い出なんて一つもない場所でも、失いたくはなかった。
彼女はそのまま玄関を出て、雨の中を傘も差さずに走る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます