棗さんの優しさと、下心
びしょ濡れのまま走る女子高生を、人々は怪訝な顔つきで避けていた。
彼女は何かに追われるかのように歩道を駆けている。
だが正確にはその逆で、視線は前方からやや上に向けられていて、宙空の物体を追いかけて走っていた。
少女――楠木美希の目は、雨の中に浮かぶある物体を捉えている。それは燐光を纏う小さな紙飛行機だ。
濡れれば立ちどころに破れて落下する物体が、雨風を受けても平然と低空飛行している。そうでなくとも紙飛行機が数分以上も飛行を続けるのはあり得ない。街の人々は雨空を見上げることもないので、頭上にそんなものが飛んでいることにも気づいていない。
発見した美希だけがその正体を知っている。呪符で作られた情報伝送体だと。
アヤカシの住処から脱出した直後に美希は、雨をものともせず飛ぶ紙飛行機を発見した。おそらく街に潜む滅怪士か監部官が放ったものだろう。
鎖のことといい幸運が続いている。紙飛行機を追いかければその先には必ず組織の人間がいるはずだ。美希は緊張を解きながらも、見失わないよう必死に追いかけていた。
ビルとビルの間をすり抜けて飛ぶ紙飛行機は、やがて立体駐車場の中へと入っていく。中を通過するかと思いきや紙飛行機は出てこない。
外から眺めていた美希は、誰かが受け取ったものと判断して立体駐車場に忍び込んだ。
四階建ての立体駐車場の中をぐしょぐしょに濡れた靴と服のまま歩き回る。そして美希は、敷地の隅に立つ一人の女に気づいた。
見覚えのある人物だった。
「…………秋子さん?」
影になっていて表情が見えづらいが、パートナーの顔を見間違えるはずはない。
無事だったのかとホッとする寸前、美希は異変を感じ取る。
秋子の髪はボサボサに乱れてまったく手入れされておらず、紺色のスーツも薄汚れている。腕をだらりと垂らして背筋を丸めている様は、潔癖なまでに生真面目だった秋子のイメージからかけ離れていた。
まるで覇気のないパートナーに不吉なものを感じた美希は、唾を飲み込んで話しかけた。
「秋子さん、どうしたん――」
「思いつきにしてはうまく釣れたな」
声が響いた。秋子のものではない。まったく聞き覚えのない男の声だった。
ぐるり、と秋子が白目を剥く。糸が切れた人形のように倒れる。
凍りついた美希の前方で空間が揺らいだ。秋子が立っていたその背後にぼんやりとした陽炎が浮かび上がり、やがて男の姿を形作る。
「面倒この上ないと辟易していたが、これでようやく借りも返せた。あやつもお気に入りの
ライダースジャケットを羽織った禿頭の男は、秋子を踏み越えて近づいてくる。
美希は反応できなかった。魔臓宮は痛いくらいに反応しているのに、手足の感覚がどんどん希薄になっていく。
「なに、心配するな小娘。そこの女と違って、お前はすぐに殺してやろう」
羽音が木霊する。濡れ羽色の大翼を広げた男が、美希に向かって手を伸ばす。
恐怖はない。絶望もない。現実味がなくて頭がぼんやりする。
そのときなぜか脳裏を過ぎるのは、太一の女姿だった。
――しくったな。もっとちゃんと見とけばよかった。
後悔が生まれ、それは衝動に変わる。美希は叫びながら呪符を取り出した。
△▼△
誰もいない部屋を見た瞬間、頭が真っ白になった。
少女の姿はどこにも見当たらない。千切れた鎖だけが残っている。
力が入らず、手の中から水滴に濡れたビニール袋がドサリと落ちた。
「ありゃ……逃げちまったか」
立ち尽くす俺の横を棗さんが通り過ぎる。彼女は買った品を放り投げると、床に落ちている鎖を手に取った。
「妖力が切れてるな。まだ保つはずだったんだが……呪符とか隠し保ってたのかもね。それかあたしらが知らない別の力でも使ったか」
冷静に分析する棗さんの声が耳から入ってそのまま出ていく。
理屈なんてどうでもよかった。原因が判明したところで、居なくなったという事実に変わりはない。
「残り香と温度からして結構時間経ってるな。今から探しても追いつけ――って太一!」
背中に叩きつけられる呼び声を無視して、俺は玄関の扉を開けた。
雨が降りしきる屋上を走って手すりから身を乗り出す。眼下には傘を差す人間達がまばらに確認できるだけで、女子高生の姿なんてあるはずもない。
どうして。あらゆることへの疑問がその一言に凝縮されて、頭の中をぐるぐる回っていた。
せっかく生態浸食を止める方法がわかりかけていたのに。
楠木を、普通の子に戻してあげられたのに。
――楠木……考えるって、言ってたじゃないか……。
失望を、悔しさが塗り替えていく。
彼女にとってはどうでもいい事だったのかもしれない。取引なんて最初から無謀だったのかもしれない。もっと強引に事を進めていれば、こんな失敗しなかったかもしれない。
あり得た結果に縋ろうとする自分の軟弱さが恨めしくなる。選択肢を振り返ったところで楠木が帰ってくるわけもない。
あるいは真剣に考えてくれていたとしても、やはり仲間を裏切れないと決断した場合だってありえる。
そう考えれば気休めにはなるけど、俺がとやかく言う権利はない。袂を分かった、それで終わる。
そして、全ては振り出しに戻る。
「中に入れよ、太一」
雨音に混じって棗さんの声が届いた。それはいつもよりも数段、優しい響きだった。
「これからすぐ住処を移す準備を始める。お前も手伝え。そこでしばらく、身を隠しなよ」
俺は錆びた手すりを握りしめ唇を噛みしめる。棗さんの提案が何を意味するのかわかった上で、あえて返事をしなかった。自分の今後のことなんて考えたくなかった。
「あの女はきっと仲間と合流してる。住処を知られてる以上、すぐにでもアヤカシ喰いがやってくる。いくらお前とあたしでも危険だ」
ふと、左腕に柔らかく暖かい感触が当たった。
棗さんが俺の左腕に腕を絡ませて抱きしめている。濡れた服越しに、彼女の温もりが伝わった。
「……もう諦めてもいいんじゃない。お前は、やれることはやったんだ」
諭す声が耳朶を打つ。途端、震えがきた。
雨に濡れて寒いからだと、俺は自分に言いきかせる。
「あの女から奪った血なんてすぐに使い切る。そうなりゃお前はアヤカシ喰いにも勝てないし、人間の女を救い出すこともできやしない。これから襲ってくる連中を退けて本拠地に侵入するなんて無理よ」
「……」
「お前の力が魔臓宮に効くかどうかだってまだわからない。それを試せる奴はもう、あたしらの元からいなくなったんだ。他のアヤカシ喰いを捕まえるのもきっと無理だよ。事情は筒抜けだから。奴らは絶対に対策してくる」
俺の頑なな殻を一枚一枚剥がすように、棗さんが柔らかく告げる。
左の指に細く滑らかな指が触れた。棗さんが俺の手を握りしめる。まるで逃すまいとするように、密着してくる。
「疲れたろう、太一。もう何も考えなくていいよ。あたしの所においで」
労り慈しむ彼女の声は、どこか切実そうにも聞こえた。
「半妖だからって捨てたりしない。今まで通り暮らしていける。それにお前の力は他のアヤカシ連中だって認めるよ。あたしが仲介してあげる。お前は、アヤカシの仲間になれるんだ」
アヤカシの仲間。幼少の頃からずっと願っていた、俺の希望。
自分でも驚くほど、何も響かなかった。
もう過去の憧れになってしまったことを自覚する。色褪せたことが少しばかり寂しいけれど、これでいい。
俺には別の道があるから。
「あたしと一緒に逃げよう、太一。お前が死ぬまでずっとそばにいてあげる。きっと寂しくないよ。何ならあたしとお前の――」
「ありがとう、棗さん」
棗さんがビクリと肩を震わせた。
俺は振り向き、ほんの少しだけ笑いながら、彼女の手をゆっくり解いていく。
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